玖
「き、貴様――なぜ」
「なぜ?」
聞き返して、くつくつと牽牛は笑った。幽鬼が嗤う。しかし天帝を見据えたその視線は幽鬼どころか修羅にすら見えた。かつて天帝が彼を選んだ基準となった気の弱さ、温厚さは影も無い。
「この世で最も愛する妻を奪われた男に、なぜとお訊きになりますか、陛下」
「なぜ、それを――」
「この世の人すべてが、陛下の思うように動くとはお考え召さるるな。我らを哀れと思い、手助けしてくださる方もいるのです」
「助力があるのか――」
この天の宮城において、天帝に刃向かう者があるとは。
「誰だ、吐け」
天帝はあらん限りの虚勢をかき集めて居丈高に命じたが、牽牛は鼻で笑うばかりであった。つい先刻まで卑しき牛飼いと侮っていた者に、逆に侮られるは不快であり――されど、なぜか天帝は戦慄した。
「知ってどうなさるおつもりですか。死罪にでも? 死人が死罪を命じる、なかなか面白い趣向ではございますが、誰も従いはしないでしょうね」
言葉の意味は明らかだ。これは修羅だ、悪鬼だ。かつての婿の姿を借りた魔の類いであるに違いない。風貌ばかりは優男である男の血塗れた言葉に、天帝は怖気づいた。
「何だと……牽牛、貴様、朕を弑する気か! 気でも触れたか!」
「実の娘に邪な想いを抱き、それを恥じることも無く隠すことも無く至当とばかりに曝け出す、醜悪なその心根――そちらのほうが狂気と呼ぶに相応しい」
修羅が――牽牛が一歩踏み出し、天帝が一歩退く。
「私はただ、実の父に汚されるを恐れ、夫への貞操を守り抜くためにその命を自ら絶たざるを得なかった妻の無念を、夫として晴らしに来たのみ」
「そ、そなたも織女の死を知っているのか」
天帝は己の浅ましさを恥じる様子もなく、ただ情報が漏れていることにのみ狼狽した。
「あなたにはわかるまい、最愛の妻を迎えに行って、冷たく物言わぬ屍に迎えられた絶望は」
感情を微塵も感じさせない声音は内から溢れ出る激情を抑えすぎた結果。
炎が迫り来ている。熱波が牽牛の背を圧しているはずだが、彼はそれを意にかける様子も無い。
そっと、牽牛は剣を持たない片手を上げて腰帯から垂らした黒い束に触れた。明々とした炎の光を受けて赤く照るそれは、艶やかな長い黒髪。
「それは、織女の――」
「遺髪です」
その一言だけは、愛しいものに語りかけるように優しかった。
「さあ陛下」
牽牛はいっそ楽しげに微笑んだ。彼の血に濡れた顔を一筋の涙が伝う。羅刹が微笑んだかのようなその凄絶な笑みに、天帝は金縛りにあったように動けなくなった。
「炎で焼け死ぬより先に、わたくしがあなたを殺さなくては」
牽牛が近づいてくる。しかし天帝は動けない。炎の熱で空気が歪み、陽炎のように牽牛の姿は揺らめいた。
剣を振り上げて牽牛は嬉しそうに笑った。
「願わくは輪廻の末にあなたがけっして我妻とは同じ地へたどり着かぬことを」
いいえいっそ未来永劫輪廻の中で苦しみ続ければいい
炎の帳が降りて、修羅の絶叫を包み込む。




