(2)天使の堆肥改良と衛生改革
(注・堆肥の話なので汚ない言葉が出てきます。ウンコとか)
ド田舎領の全域を視察するのには、馬車と騎馬で四日を要した。
点在している村落と農地、林と川と山、それらを繋ぐ街道と、道や建物を破壊した竜巻の跡――
*
視察の前日に、ジェームズはアルバート王子とオリヴァーに説明した。
「この痩せた土地に人が住み続けているのは、川運と陸運を担っているからです」
要所と呼べるほどの物流拠点ではないが、川を使って王都まで荷を運び、また途中で陸揚げして街道を通り人や荷物を運ぶ。
もちろん、逆方向からの荷も扱っている。
馬や荷車と、その修繕、そして宿や食事処、と言った需要があり、ここは周辺交通を支える場所だ。
しかし、肝心の交通網がいまいち発展できないのは、風害と大水のせいだった。
毎年夏には竜巻が起こり、秋には大雨による河川の氾濫が起こる。
そうなるとこの領地を避けて迂回するしかなくなってしまう。
せっかく育った作物がやられることや、かろうじて収穫できた麦のための水車が壊されるのも痛手だが、それ以上に、川が荒れて船着き場や橋が壊されるのが最大級の困りごとだった。
*
サンヒルという名の村で、少し前の竜巻でボロボロにされた小さな木橋を、領民たちが修理していた。
領内に小川と橋は多く、いたるところで見られる光景でもある。
アルバート王子が真剣な声で言った。
「防風林をもっと整えよう!
橋ももっと丈夫に、いっそ石造りにしよう!」
「予算が足りません」
ジェームズは淡々と応えた。
「せめて堤防付近や街道沿いに防風林を整備したいのですが、植林と道路や橋の修繕を全部やるお金がないのです」
「だったら、当面は食料自給率を上げて外から買う食料を減らそう」
「……そのためには農地を改良しないといけません」
一々反論し王子の意見を却下するのは嫌なものだった。
しかし現実は現実だ。
ジェームズはそれを王子に理解して欲しかった。
視察に付き従う代官や役人たちも陰鬱な表情だった。
「そうか……」
王子は口を閉ざした。
ジェームズはオリヴァーに顔を向けた。
元・侯爵家の後継として領地経営のノウハウを学んでいる彼にも意見を求めたつもりだった。
が、しかし……
「行く先々で臭いのですが、これって肥しのせいではないような?」
サンヒル村の代官が応えた。
「いえ、肥しを作っている最中だからですよ。熟成させている途中です」
「それだけにしては臭すぎませんか?」
「豚のせいですかねえ?」
「豚は放し飼いに?」
「ええ、そうしています」
「今の時間は森に放っているのでなく?」
美少年の厳しい追及に代官はタジタジとなる。
「え、ええ、全頭森にいるわけではなく……」
「ではその落とし物をそのままにしているということですね?」
「は、はい」
「なるほど、よくわかりました」
オリヴァーは言葉を打ち切った。
大きな青い目がキラリとして謎の美を放っていた。
*
視察から領主館に戻り、都落ちトリオと代官は、視察結果の取りまとめと今後の領地経営について話し合う。
ジェームズが課題を挙げた。
「街道と橋を整備して交通網を改善し、同時に風害対策を行わねばなりません」
「しかし予算をどうするか」
「食料自給率を上げたいですが、土地が痩せている上に、堆肥の質も悪いようです」
オリヴァーが挙手をした。
「ウンコの処理をなんとかしましょう!」
(((今、美少年が凄いことを言ったぞ……!!)))
おそらく全員がそう思った。
しかしオリヴァーは、その整った顔面を紅潮させ、滔々と語る。
指を一本立てていわく。
「まずは堆肥を改善しましょう。
牛馬の糞をただ積み上げて熟成を待つのは効率が良くないし出来も悪くなります。
森の落ち葉や腐葉土を混ぜこんで撹拌し、空気に触れさせます」
オリヴァーは二本目の指を立てる。
「次に、豚を放し飼いするのをやめさせて、昼は森で放牧し夜は小屋に入れるということを、徹底させましょう。
小屋には藁を敷いて、それごと堆肥にします」
サンヒル村の代官が「豚は人糞を食べて掃除してくれるから」と言ったところで、オリヴァーは三本目の指を立てた。
「人間の野糞も禁止です!
公衆便所を作ってそこで排便排尿させましょう。
こちらも回収して堆肥にします」
キッと顔を上げ、話題が話題でなければきっと全員を魅了したであろう花のかんばせで、一同を見回した。
「つまりこれは、今後の作物の出来を良くし、同時に衛生状態を改善するという施策なのです!」
オリヴァーはジェームズに顔を向けると、上目遣いで見つめる。
「もちろん食料自給率向上に繋がるものです。
やがては防風林植樹などの資金作りにもなり得るでしょう」
「……なるほど」
ジェームズはゆっくりと頷いた。
つまりこれは「領地再建計画の最初の一手だ」とオリヴァーが言っていると、ジェームズも気付いていた。
アルバート王子がとぼけた口調で質問する。
「お前、堆肥の作り方なんて知ってるのか?」
「はい。侯爵領で作ったことが何度もあります。
畝は僕の土魔術ですぐに作れるんですが、堆肥は熟成させないといけないのに、僕の魔力量では足りなくて自然発酵させましたから、ちょっと時間かかりました。」
「わあ厳しい」
「あの頃は嫌々でしたが、学んでおいて良かったですよ」
オリヴァーは遠い目で、しかし可憐に顔を綻ばせた。
「では、必要な道具を書き出して、予算を計上してください」
ジェームズが少し声を強めて言った。
王都から持って来た宝飾品を幾つ手放せば良いか、ひっそりと数えた。
(宝石付きのカフスボタン1セットで足りるかなあ?)
*
この国の森は、いずれも小さく、いずれも領主が管理している。
オリヴァーは前日、伯爵代官の甥が就いている家令を通し、森番に話を付けて荷車四台分の落ち葉や腐葉土を集めた。
ジェームズが交渉役となって四つの村の村長に話をつけ、オリヴァーはアルバート王子が付けてくれた護衛一人を伴って、それぞれの村の堆肥熟成場に赴いた。
一つの村に荷車一台分の落ち葉ではとても足りないので、そこは現地の農民に必要な分を森や林まで取りに行かせる。
オリヴァーは、口元にタオルを巻いて覆い、農作業用の手袋を嵌め、エプロンを付け、ツルハシを手に取った。
休耕地にただ積んであるだけの牛馬の糞に落ち葉や腐葉土をどっさりかける。
オリヴァーはそれをツルハシで切り返す。
「こうしてよく混ぜて空気を取り込まないと、良い堆肥になりません」
「こないだの竜巻騒ぎで忙しくてねえ」
共に攪拌作業を始めた農民が言い訳したが、何、竜巻が起きた前から作物の収穫高は低い。
元々堆肥作り自体いいかげんだったと思われた。
だがそこはオリヴァーは口にはしない。
「大変でしたね。小さい子が犠牲になったと聞きました。
話を聞いて、領主は涙ぐんでいましたよ」
ツルハシを上下する手は止めず、オリヴァーはまず労った。
これはザマァされた後に苦労したオリヴァーなりの生活知だ。
まず自分自身が手を動かすことも含めて。
「落ち葉と腐葉土、それから藁とか、水車小屋で麦殻を貰って使ってもいいですよ。
そういうものの力で、牛馬や鶏の糞を堆肥にしてくれます。
臭い匂いも大分抑えてくれますよ」
「あはは!」
農民たちがドッと笑った。
都会から来た美少年が『糞』だの『臭い』だの言うのが面白かったのだ。
しかも率先して堆肥作りの作業をしながらだ。
いわゆる「ギャップ萌え」だろう。
「そこら中に落ちてる豚の糞もここに集めて堆肥にしましょう」
「人間のも混ぜるんですか?」
監督の役人が尋ねた。
オリヴァーは(さあ来た)と思う。
「地面に転がってる人間の落し物は一緒に混ぜないで、取りあえずは灰をかけて埋めてください。
家で出るものは、豚のものとは分けて溜めてください。
今使っているオマルから樽に移して、最初は灰をかけてよく混ぜます。
便をする度にそうしてください。
樽にある程度溜まったら、今度は灰ではなく落ち葉や腐葉土や籾殻などを混ぜて、熟成させます。
とても熱くなるので、それで病気の元や寄生虫を殺します」
「そんで畑に撒くのかい?
人の尻から出たものは人の口に入れるなってーのにかい?」
「でしたら、豚や牛馬の餌用にしましょう」
「糞なんて豚が食ってくれるだろうに」
誰かが呟いた。
サッとそちらにオリヴァーは顔を向けた。
「でも、豚が食べてくれるまでそこに落ちてるままでしょう?
そういうの、臭いだけでなく病気の原因にもなるんですよ。
寄生虫が豚と人間の腹の中を行ったり来たりしますし。
それに――」
オリヴァーは真剣な顔で人々を見回した。
彼が本気で言っていることが伝わるようにだ。
「病気になって元気に働けなければ、みなさんが困るでしょう?」
このド田舎領の農村地区は規模が小さく農業従事者の数も少ない。
とは言えそれでも作物は必要だ。
人は食べなきゃ働けないし、食べ物を他所から運んで来る費用は馬鹿にならない。
こういったことも役人のみならず農夫たちにも説く。
「つまり、みんなお腹一杯食べられるように、良い堆肥を作っているんですよ」
これを四つの村全てで行った。
キラッキラの美少年が粗末な格好をして、ツルハシを手に家畜の糞と格闘する姿は壮絶だった。
それが不思議と農民たちの胸を打ったらしく、みんな素直に従ったと言う。
だが堆肥作りの段階は、まだ話は容易だった。
肉体労働はするけれど。
*
森や林の近くには豚を飼っている農家が多かった。
領主の許可の元で、昼間は森で放し飼いにしているからだ。
豚は人に慣れやすく従順なので、暗くなると家へ連れ帰りそのまま外でウロウロさせているのが普通だった。
オリヴァーは豚小屋を作ることを提案した。
「小屋を建てて夜にはそこに集めるようにしてください。
領主から犬を貸し出しますので、犬に見張り番をさせましょう。
豚小屋の床には藁を敷いておいて、毎日取り換え、古いものは堆肥場に運んでくださいね」
「それじゃあ豚が、人間の出したものを掃除してくれなくなるじゃないか」
ここでもやはり反対は出る。
オリヴァーは堆肥作りの場で言ったのと同じことを説明し、付け加えた。
「人の病気が豚に伝染ることも時々ありますし、豚の糞を介して人が病気になることもあるのですよ。
疫病もすぐ広がってしまいます」
「じゃあどうするんだ?」
「人のものは豚のものとは分けて溜めてください。
オリヴァーはそれについても堆肥場でしたのと同じ説明をした。
「坊やは糞に詳しいね」
誰かがからかうが、オリヴァーは静かに応える。
「僕は子供のころから、アシュフォード侯爵さまのところで学んでいました。
王都と領地を何度も行き来して、実際に牛馬の糞で堆肥を作ったり、作物の成育の変化を確認しています」
「侯爵さまのところで!?」
これが意外と効いた。
まだ成人していないオリヴァーを見下していた者たちが、一斉に感心し、素直に耳を傾けるようになった。
自分にはもう無縁の権威だが、そこで得たものは本当に大きいのだ、と、オリヴァーは思う。
経験には苦さが伴っている。
だが学んだものは、自分の力になっているような気がした。
*
最後にオリヴァーはアルバート王子と共に、船町西と呼ばれる区域ににやって来た。
トニー川という大きめの河川の西側に位置する、船着き場で働く人足たちを中心に寄り集まった集落だ。
正式にはリバー村内の船着き場周辺の呼び名だが、ほぼ独立しているようなものだった。
トニー川は、下流方向へ進むと、いくつもの河川と合流・分岐しながら大きく迂回して、最終的に王都へと至る。
また、上流方面にも支流がいくつもあり、そこから王都へ行けないこともないし、反対方向の北国へも行ける。
そのため船町西は、規模が小さいが水運上比較的重要であり、このド田舎領を経済的に支えるという意味でも重要だった。
元々土地が痩せて畑作だけでは食べて行けない領地だ。
あちこちの村から集まった者たちがここで働いて収入を得ている。
「ヨイサー!」
「あっ、オメーどこ見てんだよお!!」
「うっせー! やるかコルァ!」
すぐにドカバキと殴り合う。
船から荷下ろしをする人足たちは腕っぷしが強く気が荒い者が多い。
そこへ都会から来た若者が現れるわけだから、オリヴァーたちは慎重になった。
今日はアルバート王子とオリヴァーは、護衛兵の中でも屈強な者六人を伴って馬車から降り立った。
元締めと呼ばれる土豪には、前もって領主であるアルバート王子やジェームズと共にオリヴァーも挨拶をし、話を通した。
先月から建て始めていた建物は、中の設備も込みで出来上がっている。
まずはアルバート王子が領主として宣言した。
「これは公衆便所と言うものだ。
全員、今後はここで排便することとする!
破って野糞をした者には罰金として10P銅貨50枚を徴収する!」
「……」
人足たちは「領主は一体何を言い出したんだ?」と訝しんだ。
「?」
アルバート王子が小首をかしげて可愛い子ぶっても、人足たちには通じなかった。
諦めたアルバート王子はオリヴァーと交代し、人足たちには実際に公衆便所を見せながら説明するよう促した。
こくり、とオリヴァーは頷いた。
建物は人が十人くらい入れそうな屋根付きのテラスだ。
中には大便用の便座付き桶樽が三つ並び、目隠し板で個室風に区切ってある。
「穴を掘り、地面を直接汚さないための簡易的な床下処理がしてあります。
『大きい石+砂利+炭+砂+藁』の順で敷き詰めましたが、藁は汚れたら交換します」
オリヴァーは地面から桶樽へと指を動かした。
「穴に桶樽を置いて、その周りに板で床を張りました。
桶樽にはお尻を置く穴あきの板(便座)と、その上から被せる蓋を縄で括りつけました」
指先は個室に備えた棚へと動く。
個室には、それぞれ一つずつ桶樽があり、目隠し板に付けられた棚の上には、ヤツデなど尻を拭くための葉っぱを入れた箱もある。
「葉っぱは毎日補充しますが、足りないかな?と思った人は先にそこらからむしって来てもいいでしょう」
「……」
人足たちからは失笑すら起きなかった。
オリヴァーはめげることなく説明を続ける。
「棚の左右には防臭用に炭やハーブを吊るしました。
公衆便所の周りには、虫よけに馬酔木を植えてあります。
馬酔木は馬が食べないように注意してくださいね」
そして、いよいよ便器の使い方を説明する。
「ここに座って大便をします。一緒に小便が出てしまっても構いません。尻を拭いた葉っぱも一緒に中に入れてしまってください。
使い始めや桶樽を交換したばかりの時は、便の上に灰をかけてください。
その後は、こちらの箱に入っている落ち葉や森の土を混ぜたものを振りかけてください」
「小便するのに一々座ってするかっての」
特に気の強そうな男が吐き捨てた。
オリヴァーはにっこりと微笑んで説明を続ける。
「それはこちらでできます」
個室の向かい側に立ち小便の場が作られている。
外から見えないように目隠しの板壁が張られ、そこに尿受けの石板が立てられていた。
足下には石樋が埋められている。
石樋には傾斜があって、水分が流れ出る仕組みだ。
出口側には竹筒が続いていた。
竹筒にはいくつも穴が開けられており、地面の下を花壇の方へと伸びている。
土中の生き物や太陽の熱などに浄化してもらうのだ。
「小便をし終わったら、必ずこの川の水を溜めた水瓶から柄杓を使って尿を流してください。そうすれば臭い匂いも抑えられます」
――実の所、便所自体は領主館にも作っており、自分たちだけでなく使用人全員にも使わせている。
そこでオリヴァーは「男性は小便だけなら立ち小便で済ませる」という問題に気づいた。
このことは元締めと話した時にも指摘されており、いっそ「立ち小便場」を作ってしまえと決意したのだった――
それから、出入口付近に置かれた水瓶と柄杓を説明した。
「こちらの水瓶は井戸水を汲んだものです。終わった後の手を洗って下さい。石鹸もあります」
「御大層なこった」
先程の男がうんざりとした口調で言った。
隣にいた小柄な男が「よせよ、ピート」と窘める。
ピートとは別の人足が尋ねた。
「あっちにある屋根付きの小屋は何だ?」
「あちらは女性用の便所です」
公衆便所は男女別だ。
人目に付かない場所で用を足していた女が不届き者に襲われる事例を、オリヴァーは知っていた。
だからせめて場所を分けて、女性も使えるようにしたのだ。
また別の者が尋ねた。
「ウンコが溜まったらどうすんでえ?」
「溜まった桶樽は交換します。
保管場所で熟成させて、家畜用の牧草や野菜を育てる時に撒きます。
『人の出したものを、人の口に入るものに使うのは嫌だ』って農家の方に言われましたしね」
「ここは大所帯だから、そんなもんで使いきれるのか?」
「便は堆肥にするのですから、残ったら土に返します」
「へえ~え! 落ち葉の力で発酵させて土に返すってことか」
人足たちの中から感心する声が上がる。
先程ピートを宥めていた小柄な男が、納得したように頷いていた。
(あの人は学がありそうだな)とオリヴァーは思った。
再びピートが尋ねた。
「じゃあ掃除は誰がするんで?」
「人足を引退したお年寄りを雇います。
毎日掃除をして、葉っぱや腐葉土などの補充をしてもらいます。
溜まった桶樽を運ぶ時は荷車を使ってもらいます。
重いですから見かけたらお手隙の人が手伝ってあげてください」
「水は誰が持ってくるんだ?」
「手洗い用は井戸水でいいんですが、小便を流す用は川の水を使いますので、できたら皆さんも汲んでいただけたら助かります」
「俺たちにただ働きさせる気か?」
ピートにギロリと睨まれた。
「!」
(殿下、絶対ピートのこと格好良いって思ってるよね)
妙にキラキラした目でピートを見ているアルバート王子は放置することにして、オリヴァーは背中を冷や汗でぐっしょりにしながら、ハンカチ大の麻布の束を取り出した。
「ここに印を付けて、水汲みをした日に一つ印を付けます。十個溜まったらエールを大きな盃で一杯、ただで配ります」
「簡単にズルできるじゃねえかよ」
「印は自分の名前を書くことにします」
「俺、字なんか書けねえけど?」
「貴方の名前は?」
「ピート」
オリヴァーは一枚の麻布に、細い炭で「ピート」と記入する。
「はい、こう綴ります。これを真似して、水汲みしたら下に並べて書いてください」
他の人足たちが「わっ」と声をあげてオリヴァーに近付いた。
「俺、ベンってんだ」
「ベンですね。こうです」
「俺はマーチン」
「はい、マーチン」
一枚ずつ麻布に名前を書いて手渡してやると、人足たちの顔がパッと輝く。
(嬉しそうなだあ)と、オリヴァーも微笑んでいた。
黙って見ていたアルバート王子が胸を張り、何故かドヤ顔をする。
しかしドヤっているのはアルバート王子だけではなかった。
ピートが小柄な男の肩を抱いてオリヴァーの前へ出る。
「ジョナサンは自分で名前を書けるんだぜ」
言われて、説明集会を始める前に見た事をオリヴァーは思い出した。
「壁に貼られた注意書きのようなものを読んでた人ですね」
「おおよ、こいつは頭がいいんだぞ。
高札が立った時も、いつもジョナサンが読んでくれてるんだ。
どうだ、すげえだろ!」
本人以上に自慢するピートの腕を、ジョナサンが軽く小突いた。
「よせやい、褒めすぎだよう」
「照れるなっての!」
「そうです! 素晴らしいことですよ!」
オリヴァーは彼にも麻布を手渡すと、笑顔で握手を求めた。
(話が通じそうな人がいた!)
それはもう、無茶苦茶嬉しかったのだ。
「ぐぐぅ~……」
気が緩んだオリヴァーのお腹が鳴った。
領主館の経済状況は相変わらず悲惨で、肉やパンのない日々が続いていたのだ。
「腹減ってんならお食べよ」
食堂で働いているアニ―という背の高い中年女が気付き、残り物の黒パンを一切れ差し出した。
「わあ、ありがとうございます。パンなんて久しぶりだ!」
嬉しそうに受け取ったオリヴァーに、アニーはギョッとした顔になる。
「普段何食べてんのよ?」
「予算がカツカツなんで、雑穀のお粥とか練って焼いたものとか」
「あたしらより酷い!」
アニーは大きな声で人足たちに呼びかけた。
「ちょっとみんな聞いたかい!?
腹を空かせても我慢して皆に説明するなんて、けなげじゃないか!
協力しておやりよ!」
「えー!?」
「アァ? 嫌だってのか?」
「へい……」
アニーに一睨みされた人足たちが縮こまる。
だがそれでもピートが食い下がった。
「こんな男か女かわからん坊やの言うことに従えるかよ」
オリヴァーは宥めるように言う。
「そこをなんとか!」
もちろんピートは、そんなことで収める気はない。
「第一お前、本当に付いてんのか?見せてみろ!」
あっと言う間にオリヴァーの前にしゃがみ込んでズボンと下履きを下ろした。
ドドーン!(擬音)
「……お見それしましたあッ!」
ピートは土下座した。
「でけえ」
見えてしまった人足も呟いた。
「!!」
あまりのことに声もなくズボンを引き上げるオリヴァーの横で、アルバート王子はついに吹き出した。
「お前、また育ったのか」
「~~~」
涙目のオリヴァーの背中をポンと叩いて、アニーが呟いた。
「坊や、将来、女を泣かすなよ?」
「なんでそういう話になるんですか!?」
涙混じりのオリヴァーの叫びが響いた。
*
さて、その後。
人足たちの名前を全員分書いてやったことが、オリヴァーを彼らが受け入れる大きな切欠となったのだが、弊害もあった。
公衆便所の見回りや何かの用事があって船町西を訪れたオリヴァーには、必ず声がかけられる。
「よう、ウンコ王子! 元気にやってるか!?」
そう、本人的に物凄く嫌な仇名が、好意たっぷりに付けられてしまったのだ。
「僕は王子じゃありません」
「じゃあ、ウンコ天使だ!」
「……ウンコからは逃れられないのですね」
「がっはっは!!」
人足たちがドッと笑い、オリヴァーの心に悲しい風が吹き抜ける。
季節はとうに秋になっていた。
*
ちなみに、領主館のある集落にも、市街地にも、農村地帯にも、公衆便所は設置された。
それぞれ一悶着ありはしたが、肝を据えたウンコ天使に恐れるものはなかった。
そう、領内ではこの酷い仇名が定着してしまったのだ。
それ以上の恥辱など、オリヴァーにはなかった。
(続く)
誤字脱字報告ありがとうございました。
最初の方はChatGTPにチェックさせたのですが、(2)は丸々一章分チェックできてませんでした
途中でClaudに変えて誤字チェックさせましたが、こちらも抜けがあるかもですね…失礼しました。
なお本文執筆や話の内容は私が自分で作ったものです。




