番外編:初音のこれから・前編
遊女の朝は早い。
まだ日が昇るか昇らないかの早朝に、客を起こしてお見送りをするのだ。
弥彦は大部屋に入ると手燭から行燈へ明かりを灯し客とともに眠っている遊女を静かに起こす。
「――初音さん、起きてください」
「………あい」
初音が眠い目を開けたのを確認すると、弥彦はつぎの遊女を起こすべく隣りの床へと向かう。
大部屋は屏風や衝立が簡易的な壁の役割をしている。
そのお陰で隣りが何をしているのかは見ることは出来ないが、周囲の声や音は丸聞こえだった。
初音は行燈の明かりの中で、近くに置かれていた長襦袢に袖を通して簡単な身支度をすると、隣りで寝ている今夜の旦那を優しく揺り起こした。
起きた旦那の身支度を手伝い、大広間から廊下へ出ると手燭を持った弥彦たち若い衆が、遊女とその客の足元を照らしながら一階の玄関口まで案内する。
遊女と客は玄関の間で別れを惜しむ。
それが本心かその場での勢いなのかは、ここではどうでもよいのだ。
玉洗いの港に店を構えている者の中には、自分の店の奉公人が主人が帰るのを提灯片手に待っている。
客の見送りを終えると、遊女たちは二度寝をするのに個室や大部屋へと戻る。
夜の番をしていた若い衆も一階の奉公人の部屋で休み、交代の若い衆は店の掃除などをして昼見世に向けての開店準備に入る。
そんな日常がこの萩屋では毎日行われていた――。
二度寝を終えた遊女たちが起きてくると、彼女たちは朝餉や湯に入る。
そんな遊女たちをよそに、厨をあずかる奉公人が忙しく動き回っているよこで薪を持った若い衆が手順よく積み置き、また風呂場の裏ではせっせと薪を風呂釜の下へくべる。
遊女たちが身に付けていた着物は、奉公人の女たちが井戸の前で丁寧に洗う。
自分の髪を洗う遊女たちもその隣りで、寒いながらも上半身半裸で髪のよごれをおとしていた。
そして船宿から湯女の要請が入ると、下見世の遊女数人が朝早くても茶屋から出されることもあった。
昼見世がはじまると、腹も満たされ身ぎれいになった遊女たちは見世の間に腰を下ろす。
ほんの二刻間の昼見世は、花街に足を運ぶ男たちは少なく、大半は冷やかし物珍しさに遊びに来る者である。
それでも客を引く者、夜見世に向けて若い衆に金を払い、馴染みの旦那に手紙を出す者など個人の判断に任されている。
率先して客を取ろうとしない遊女は、ただただ借金が積み重なってゆくだけだった。
日が暮れはじめるころに昼見世は終わり、ここから一刻の間に夕餉や身だしなみを再度整えたり、遊女同士で会話したり遊んだりと、みな夜見世に向けてつかの間の自由な休息を楽しむ。
夜見世がはじまると、事前に客が来ると分かっている者や船宿からお呼びがかかっている者たちは見世に座ることはない。
日が落ちると、さらに花街は活気づく。
仕事を終えた男たちが、明かりに誘われて蛾のように茶屋へと群がる。
冷やかしよりも夜の遊びを愉しみたい者たちが格子をのぞいて行く。
手慣れた遊び人も、初めての者も、煌びやかに着飾った美しい遊女たちに釘付けになるのだ。
そんな中で初音は格子の向こうへと目をこらして見つめていた。
――ここしばらく顔を見ない。
誰かを待っているようだった……。
少し前のこと、昼見世が終わり初音は後片づけをしていた弥彦を呼び止めた。
「弥彦さん、少うし聞きたいことがありんす」
「はい。何ですか、初音さん?」
「あの……。前に外で会いんした旦那さまを、近頃お見かけしておりんせん。茶屋に来てないんでありんすか?」
初音の切羽詰まったような言葉に、弥彦はやや目線をそらしながら答える。
「ちょっと前に来られたようですが、初音さんにほかの旦那さんが付いていたので待たずに帰られましたよ」
「それからは――?」
「おいでになってません」
それだけ言うと弥彦は仕事へ戻って行った。
初音は三郎が来るのを待っていた。
あんなこともあり、自分がちゃんと自分の言葉で彼に伝えようと決めていたのだ。
友人の知り合いのようで色々とワケ有りでも、自分の旦那さまになってくれたのだから、もうほかの人の手を借りずに頑張りたいという気持ちでいた。
まだお別れの言葉も告げてないのに――。
来年には格が上がり上見世に座ることになる。
そうなれば大部屋から相部屋になり、さらに格が上がれば小さいながらも個室が与えられる。
またその分遊女の揚げ代は上がり、ちょっと遊女と遊ぼうかと、人夫が気軽に茶屋で初音を贔屓にできなくなるということだ。
遊び慣れた人夫たちは、馴染みの遊女の格が上がるのを自分のことのように喜び、そして別の遊女の旦那になる。
分かっている旦那たちは初音の出世を喜んでくれて、最後だからと普段は頼まない酒と料理を持って来てもらい、いつも以上にお金を落としてくれた。
でも三郎は違う。
遊び慣れてもいない。
純粋に自分のことを慕ってくれていた。
彼が別れを受け入れてくれるか分からないけど、少しでも心にしこりを残さないように傷つけないように、――最後は笑顔でお別れをしたい。
自分は遊女だから、旦那さまを好きになることはしたくない。
抱えている借金はのことを思うと、女将さんのいう間夫を作って恋を愉しもうなどという気持ちの余裕は彼女にはない。
前の廓の姐遊女が言っていた。
遊女と客の間には、お互いうそしかない――と。
床に入れば好きだのなんだのうそをつき合い、つぎの客と寝るときも好きだと耳元でささやく。
実はないが、それが心地よくなったら遊女としては上出来。
一々客に心を配っていたら身が持たない。
客だって嫉妬して縋りつく遊女はお断りだよ。
そんな言葉が頭を中を駆け巡る。
でも初音は、どの旦那さまに対しても気持ちよく終わらせようと思っていた。
後にこのことを初音が思い出す度に、『なんて自分勝手で、都合のいい考え方なんだろう』と気持ちが沈むようになるとは、このときは彼女も知りえないことだった。




