番外編:三郎の思い・後編
萩屋の暖簾をくぐると茶屋の中はいつもの賑わいを見せていた。
内玄関を上がってすぐの部屋では、お目当ての遊女待ちと思われる着るものからして身分の高そうな者がゴロゴロしている。
今まではさほど気にも留めてなかったが、こんな上客を抱え込んでるから茶屋は成り立っているのだろう……。
奥の宴会の間と思われる部屋からは、とても賑やかな歌声や大きな笑い声が聞こえてきた。
男の遊びとは、本来金に糸目を付けぬようなことであって、遊女に入れあげるようなことじゃないのは分かっている。
不意に下見世の方を見回すと、そこには初音の姿はなかった。
店の者にたずねると今は他の客の相手をしていると告げられた。
待つかと聞かれたが、オレは首をよこに振って断った。
――場違いすぎる。
そう感じて、オレは即座に茶屋から飛びだした。
あの場に留まるのは心が苦しくなる。
人夫風情が、何を夢見てたのだろう。
宿場通りで客引きしている小奇麗な下級遊女より、ちょっとやそっとじゃお目にかかることができない上級遊女を揚げて、男の見栄を張る意味で花街の安い遊女を買うのが粋なんじゃないか、――と仕事場の先輩たちが言っていた。
ただ女と寝たいだけなら安い下級遊女を買えばいい。
給金に見合う女遊びでいいじゃないか。
茶屋で馴染みや贔屓の遊女を待っている男たちと比べて、オレは――。
そんなことを考えれば考えるほど、自分がみじめになってくる。
あんな男たちと会って、抱かれたあとの彼女と、はたしてオレは抱けるだろうか?
そして金のないオレと時をともにするより、羽振りの良い男を相手にした方が彼女にとって得なことじゃないのだろうか?
つるも初音はかなりの借金を背負っていると言ってたじゃないか。
浜仲仕で金もないオレには、彼女に何もしてやれない。
足抜けさせてどこかへ、なんて度胸も伝手もない……。
花街で女を買う先輩たちが言っていた。
『茶屋で働く男たちは、みなおっかねぇぞ。遊女と島を出ようものなら、見つかれば簀巻きにされて海へ叩きこまれるんだ。だから遊女に本気になるなよ』
南にある讃岐という国のところまで逃げた者たちがいたそうだが、茶屋の男たちの執念によって連れ帰されたという話もある。
女は商品だから仕置きを受けるだけで済みそうだが、男は――足抜け未遂でも簀巻きで海へということなので、無事では済まされないだろう。
今日の晩もにぎやかで明るく照らされている花街から、一歩一歩と三郎は遠のく。
初めてきたときは、その煌びやかな花街に心惹かれたものだが、もうあの頃みたいにワクワクとした気分にはなれない。
二度とこの地に足を踏み込むことは、なくなるだろうという実感はある。
遠くから初音が出世を重ね、手に届かなくなる姿をみるのは、――つらい。
ほかの遊女を買う自分の姿を見られるのも、罪悪感がつのるだろう。
だからもう、――オレは初音を追わない。
心は今でも残っているが、これ以上あの茶屋の暖簾をくぐると、オレの中で何かが壊れてしまいそうだ。
忘れよう……。
サヨのときのように、オレの中でいい想い出にすればいい。
つらい、苦しい、惨めだと感じながら生きていけるほど、オレは強くはない。
自分に見合わない女に恋すると、こんなにも体中を引き裂かれるような思いをするんだな。
つるが言ってたように、オレに見合う女を探した方が楽になれるんじゃないかなぁ。
――何のしがらみもなく、自然に自由に恋がしてみたい。
三郎は港近くの居酒屋へ入ると、店の者に酒と肴を頼んだ。
飲んで、飲んで、飲みまくってすべてを忘れたい、そんな気持ちでいっぱいだった。
ほどよく酔いが回ると初音のことを思い出す。
あの肌も抱いた感触も、覚えている限りのことをみんなみんな……。
どれくらい時が経っただろう――。
完全に酔い潰れることがない三郎は、ちょっとは意識を残しながら、フラフラと千鳥足なまま居酒屋を出た。
そのまま港まで来ると、熱くなった頬に冷たい風が当たり心地よい。
岸から暗い海面をのぞきこむ。
すると、このまま海に身を投げてもいいようなおかしな気になってくる。
だが意識が少しでも残っているので、『どうにでもなれ!』っと海に飛び込む勇気もない。
それが出来たら、よかったのに……。
どこか冷静な自分がそうつぶやく。
臆病で優柔不断で勇気もない自分が嫌になる。
自分に言い訳して、自分を許す。
そんなことをくり返して、一体に何なるのだろう。
「……う、ああっ………」
涙が溢れてきて嗚咽が漏れだす。
子供の時のように大きな声で泣いて、泣いて、泣き疲れたら、次の日にはけろっと忘れている。
あの頃に戻りたい……。
大の大人が、それも男が、みっともなく大きな声で泣くわけにはいかない。
体は大きくなったが、心はまだ子供のままだ。
座り込んで声を殺して泣く。
こんな自分は嫌いだ。
嫌いだけど、今の自分を変えるには、どうしたらいい――?
泣いて涙がもう出なくなったあと、三郎は袖で涙を拭い、酔いも冷め上がった体を起こす。
明日も仕事だ。
ここに座り込んでいても何も始まらない。
残った理性で現実的なことだけを考えさせる。
今さらこの島から逃げ帰っても、寝たきりの祖父に母にが出て行った家で、父と嫁に逃げられた兄と暮らすのはごめんだ。
もっとかしこい大人にならなきゃダメだ。
女のことばかり考えてちゃダメだ。
本当に成りたい自分にならなきゃ、今のままずっと負け犬のように生きていかなきゃならない。
(つるが変わったように、オレも変わらなきゃいけない――)
三郎は現実逃避に似た目標を自分の中に掲げ、力強い足取りで自分の住処へと帰って行くのでした。




