番外編:三郎の思い・前編
夜の花街――。
幾度となく足を運んだ場所なのに、今日は重い体をひきずりながらやって来た。
初音のいる萩屋の茶屋前で立ちすくんでしまっている。
茶屋に入って彼女を買ってしまうと、それでもう終わりなんだと涙が出そうになるのだ。
思えばサヨとの失恋で傷心していたときに仕事場の先輩に誘われて、萩屋の下見世で初音と出会ったのがことの始まりだった――。
里にいたころ大きな街道沿いの宿場町に、宿屋と遊女茶屋が合わさったような小さな色里があった。
そこにはすでにとうが立った年増の女たちが厚化粧をしちょっと小奇麗な着物を着こんで、旅人たちを相手に客引きしていたのを何度か見かけたことがある。
うちのかあちゃんは、そんな遊女たちを『あばずれ』だの『男を食う怖い鬼女』だのオレたちに兄弟に言っていた。
その所為か、子供のころは恐ろしくて色里の付近に近づくこともなかった。
しかし成長するにつれ、里の男たちがその色里へ通っていることを耳にするようになる。
畑や田んぼを耕す以外に何もない田舎で、娯楽に飢えた男たちはそういう遊びを覚えるのは仕方のないことだと思う。
女たちとは違い、不満や些細な愚痴話をお互い話あって満足出来るわけではないのだ。
そう思えるようになったのは花街に足を運ぶようになってからで、サヨと会っていたときは色里へ通う男を軽蔑していた。
後々考えると、自分がサヨみたいな器量のいい女と付き合っていたからという傲慢さがあったからだと思う……。
サヨについては、騙されたとは思っていない。
彼女が何をしてきたかを親兄弟や太一から聞いただけだったから、男を誑し込んで金を持って里から逃げたという実感がわかないのだ。
ただオレの腕から、忽然と消えてしまったような思いしかない。
だが、彼女と再度出会うことがあっても、もう昔のようにすべてを受け入れることは出来ないだろう……。
それは初音がいるからではなく、サヨがオレの中ですでに過去の女になっているからだ。
甘い考えかもしれないが、過去の良い想い出だけあればいい。
好きになった女の裏の顔など、見たくないのが正直な気持ちだった――。
サヨのことがあったあと、最初に玉洗いの港の花街に足を踏み込んで感じたのは、田舎の色里と違い遊女たちがみな若いことだ。
オレと同じ、もしくは下の女もいたりする。
幼なじみの年下のつるも沖の遊女をやっているし、地元のやくざ付きの女以外は若い女たちが客を取っているのだ。
そんな界隈の中、初音はサヨとはことなる美しい女性で、初めて目にしたとき、頭のてっ辺からつま先まで雷に打たれたような衝撃が走った。
無駄に顔を白くさせようと白粉をベタベタと塗りたくっているワケではなく、彼女の身体の隅々まで本当に色が白い。
力仕事などしたことがない柔らかな手に触れただけでも、心臓の鼓動がどうにもできないくらいに高鳴る。
それは今でも変わらない。
床に入れば彼女の白い身体は徐々に赤く染まり、汗ばみ、そして熱くなる。
特に酒で酔っているときは、タガが外れたように乱れ狂う。
あの物静かな初音が、オレの下で悶え、歯を食いしばり、瞳を潤ませて達する姿を見るのが好きだ。
もうほかの女のことを考えられないくらいに、オレは初音にはまり込んでいた。
先日、つるが初音が出世して上見世に座ると聞いたとき、目の前が真っ黒になった。
それはもう、気軽に浜仲仕のオレが買える女ではなくなるということだ。
茶屋で彼女を買う値段が、足を運ぶたびに多少なりとも値が上がっていたことには気づいていたが、一気に金額が上がってしまうと手も足も出せなくなる。
つるに『初音を身請けするならどれくらいかかる』かを詳しく聞いてみたところ、想像を絶する金額になるとのこと……。
力仕事しか能がないオレに、商人になるような才覚はない。
せめて読み書きができて、物の売り買いができるだけの算術を身に付けていたら水主になって、ゆくゆくは自分の船をと先のことを考えることはできただろう。
浜仲仕より水主をやる方が給金は高いが、それでも学のない水主は身上もほとんどなく人生を終える。
その上海上で過ごすことも多く、嵐に遭い船が沈んで自分の命も海の底へ消える危険もある。
この辺りで金が稼げる仕事といえば、そのくらいしかない。
給金の支払いもよく、水主のなりてはそこそこ多いから、この港で空きのある船を探すのはまず無理だろう。
――八方ふさがりである。
そう言えば、初音を連れていた男のことをつるも知っていたな。
あの初音と出歩けるってことは、それなりの身分なんだろう。
しかし彼女を横に従えていたのに、まったくといっていいほど見ていなかった。
誰もが羨むような綺麗な女なのに、見向きもしていなかった……。
それなのにどうして初音と出歩いていたのかは知りようがないが、あの男はつるのことだけを見ていたな。
どちらかと言えば人の恋仲に鈍いオレですら、アイツはつるに気があるんだと分かった。
つるの方はどうなのかイマイチよく分からなかったが、仲が良いことだけは確かだった。
オレは知っているつるは、里にいたころ男に対して文句を言うことも反論することもなく、ただ従順にしたがっていたが、この島へ来てからは自分の意見を言うようになっていた。
あれだけ太一の後ろに付いて回っていたのに、もうそんな面影もなく、寧ろアレのことを嫌がっているようだ。
人には時の流れがあるように、初音もつるもその流れに乗り、どんどん前に進んでゆく。
オレだけは昔とちっとも変わらない。
変化を拒み、ただいいとこ取りだけしていたツケだろう。
情けない男だが、このまま初音に最後の別れの言葉を言えずに背を向けてなかったことにすることは出来なかった。
会わないことでサヨと同じように想い出にするには、身体を重ねた以上、自分の中で消化することはとてもじゃないけど無理だったのだ――。




