番外編:松風の災難・後編
そんなことがあって、元萩屋の三番人気だった松風は下見世に呆然と座り込んでいたのだ。
自分の美貌に自信がある松風が、格下の若い水主の男を色気で誘って逃げられたという現実に思考が追いついてこない。
――何かの間違いなのでは?
と思っていたが、二階の大部屋から下見世に戻ってきたときに、そのときの若い男が今度は初音を連れて表へと出て行ったのだ。
彼を連れてきた茶屋の馴染み客が、口々に『松風を選んだのが間違いだった』と彼女を否定する発言をしているのを耳にし、自信の塊だった己の心が穿たれるような空虚さが出来てしまった。
三番人気の栄華を誇っていたときは、大店の旦那などが松風にひれ伏し、豪華な贈り物や座敷での大宴会、金に糸目は付けないと客たちは彼女のご機嫌取りを行っていたものだ。
そんな客もひとり減り、ふたり減り……。
今では他の茶屋の遊女たちにころんでしまった。
禿時代からやり手や習い事の師匠から、『気位の高い女であれ、安い女にはなるな』と言い聞かされて育ったため、下手にでて男に愛想を振り撒くようなやり方は知らない。
男に媚びるのは沖の下級遊女がやることで、岡の遊女は常日頃から凛として、特に格下の男相手に媚びへつらうマネはするなと口を酸っぱくして言われ続けていた。
その通りに花街で生きてきたはずなのに、最初は上手くいっていたけど、今は――。
若いころは許されていたことも、年を追うごとに許されなくなり、やがて嫌われてゆく。
若い衆たちも三番人気だったころは平身低頭で尽くしてくれていたが、今では格の低い遊女扱いをされ、あれこれと命令をされるようになっていた。
自分より若い遊女たちが上客を得て、格が上がっていくのを横目に、どんどんと奈落へと落ちていくばかりの我が身。
前までは取り巻きを従えて意気揚々に過ごしてきたこの茶屋での生活も、秋の空のようにいつの間にかに変わり果て、気が付けばひとりになってしまっていた。
松風は力なく座り、手をついて外の景色を眺めていると、見覚えのある下男がこちらの顔を伺っていた。
その男は、昨日共に吉屋へ行った若い衆の弥彦に声をかけてきた船宿に奉公している太一という者だった。
見るからに冷やかしの様子で、にこにこと屈託のない笑みをしながら松風を見ていた。
格も権力も金もない男相手はしたくない。
だが、太一は浮世絵になりそうなほど顔立ちが良く、遊女たちの中でも彼の姿に見惚れてざわめきが起っていた。
あれが大店の息子なら、花街でもひときわ話題になる男だっただろう。
遊女たちが色めき立つ中、太一は何食わぬ顔で松風の近くまでやって来た。
格子一つ隔てて彼は松風に気安くほほ笑みかける。
「昨日の美しい女の方ですよね?今日は元気がないようだけど、何かあったのかい」
太一は弥彦から『気安く遊女に話しかけるな』と言われていたことも忘れ、笑顔で彼女に声をかけた。
すると松風は懐から扇子を取りだして顔を隠す。
下男に声をかけられたくらいでホイホイ返事をするなどとんでもない。
そう幼いときより教えられてきたのだ。
岡の遊女は、過去は飯を食うのにも事欠く生活をしていた農民の子だったかもしれないが、茶屋で養育されて教養を身に付け、身分の高い殿方の前に出ても恥ずかしくない礼儀も学んでいる。
それは今まで自分が努力して得たものだ。
多額の借金を背負いながらも自分の価値を上げ、元だろうと茶屋の三番人気までのし上がったのだ。
船宿の奉公人ふぜいにこれまでの自分の誇りを、価値を壊されてなるものかと拒絶する。
当の太一はそんな松風の態度をよそに、ずけずけと話しかけてくるのだ。
「ねえ、そんなもので顔を隠して何になるのさ。ボクはあなたの美しい顔がみたいんだよ。この通りを歩いてる人たちも、思いは同じなはずだよ」
だから、顔を間近で見せて欲しいな、――という。
太一の言葉によこの遊女たちも『そうでありんす。松風姐さんの花のようなかんばせを見に来られる殿方はたくさんいんす』『下見世の遊女とはいえ、松風姐さんは別格でありんす』などと、どちらかと言えば松風を気遣う言葉を口にしていた。
きつい姐遊女ではあるが、それでも妹遊女たちのあこがれは一番人気の夕霧より、身近な松風にあった。
彼女たちも雲の上のような存在の夕霧より、下見世に馴染みつつある松風のことをしたっているのだ。
ここへきて妹遊女たちのあと押しに驚いた松風は、オイシイとこ取りがしたいだけで自分をもち上げていた取り巻きたちに比べ、純粋に自分のことを心配してくれている彼女たちの存在に、――今気づいた。
それまで格下げされて取り巻きたちも去り、馴染みの客もそっぽを向き、仲の良かった姐遊女の須磨が身請けされ、ひとりぼっちになってしまった。
もうずっと自分はひとりなんだと思っていた。
――目から鱗が落ちる、とはこのようなものなのだろう。
心の壁を楔で断ち切るかのように、様々な心の重しが消えていくように感じる。
幼いころから教わってきた、『~であるべき』という呪縛から解き放たれた松風は、顔を隠していた扇子を仕舞った。
そして凛とした顔つきをし、背筋をまっすぐ伸ばす。
「――やはり、あなたは美しい」
松風が自分へ顔を晒したことに満足した太一は、それ以上のことは何も口にしない。
彼にとって綺麗な女性が隠していた顔を向けてくれただけでよかったのだ。
周りの遊女たちも和やかにほほ笑む。
松風の心から何とも言えない高揚感が溢れだしたのか、一筋の涙が頬を伝うのでした。




