番外編:初音のこれから・後編
三郎と顔を合わせなくなってひと月が経った頃、昼見世がはじまる前の慌ただしいいさなか、茶屋の内玄関の近くの店の間で初音と番頭に女将さんが、出入りの商人たちと品物を見比べたり手に取ったりしていました。
「これなんかいかがでしょう?藍染の色が綺麗に出ていて、うちの中でも大変良い反物ですよ」
呉服屋の若旦那が藍染の絹織物を初音の前に差し出す。
手に取ると、柔らかく滑らかな生地に深い青色で見た目も良く、素人目からも良い品だとわかった。
「本当に綺麗な色でありんす。この藍染と旦那さまからいただいた白無地の反物を染めてもらいんしょう」
「そちらも、うちで懇意にしている紺屋に頼みましょう。べっぴんさんに見合う色に染めてもらいます」
「さすが若旦那は話が早いでありんすね。初音、正月までに着物は五枚、帯も五本、打ち掛け三領に三枚歯下駄を二足買っておきんしょう」
「あい……」
女将さんがあれこれと指図している中で、初音はそれに従うしかなかった。
初音は来年には遊女としての格が上がり、上見世に座ることになる。
そのための支度に手慣れた女将さんが茶屋に商人たちを呼んで、色々と初音のお披露目の着物や身の回りの品々の注文を行っていた。
商人との値段交渉は、そろばん片手に番頭が目を光らせている。
自分のことなのに、遊女としての格があがるのは嬉しいことのはずなのに、――初音は自分に自信がないゆえにイマイチ実感がない。
まるで自分の事のように喜んで率先してくれている女将さんのことを、どこか遠くから他人事のように眺めている気分だった。
「べっぴんさん、こちらの硯箱はいかがですか?」
道具屋の二番番頭が、赤みの強い朱塗りの硯箱を初音の前に置いた。
それは螺鈿細工の黒漆造りの蒔絵などとは違い素朴な造りだが、今までに見たこともない落ち着いた赤い色合いで艶やかな朱塗りは見る者を引きつけるような魅力を秘めているように初音は感じていた。
初音がじっと硯箱を見つめていると、女将さんが驚いた顔をしてその硯箱を指さした。
「ここまで色の良い弁柄は見たことないでありんすぇ。どちらのものでありんしょうか?」
「備中の山奥で作られてる弁柄ですよ。でも良いものはみんな上方へ流れるんで、これだけの品はもう手に入らないかもしれません」
弁柄は赤みの強いものほど価値があるという。
道具屋の二番番頭の見立てでは、硯箱に使用されている弁柄は一級品だと豪語した。
「それは値が張りんすねぇ……」
女将さんがムムッと眉を寄せて難しい顔をする。
だが、ここへきて無関心そうな受け答えをしていた初音が心を決めたように声を上げた。
「わっち、この硯箱を買いんす。どんな値が付いても構いんせん!」
「さすがは上見世に出世なさったべっぴんさん。よい門出になるように、こちらも勉強させてもらいます」
初音の鶴の一声に、道具屋の二番番頭は顔をほころばせて喜んだ。
これから必要な品や道具、衣類の購入や注文を終え、初音は女将さんとさっそく購入した品々を大切に大きな箱に仕舞う。
来年のお披露目までは、楼主や女将さんが住む内所で預かることになっていた。
――そしてあの弁柄の硯箱は、十五両の値で買った。
番頭は購入した物の金額を細かく帳面に書きこむ。
茶屋のお金で購入したものだが、これもみな初音の借金に追加されることになっていた。
初音がくだんの硯箱を手に取り、嬉しそうにほほ笑む。
そんな初音の姿を、女将さんは複雑な顔をして見ていた。
「初音、その硯箱がそんなに気に入りんしたかぇ?」
「あい。わっちはこれさえあれば、遊女として頑張れる気がしんした。この落ち着いた赤い色のようにわっちも染まることができれば、これからはつらくも怖くもなくなりんしょう」
下見世の下っ端かはじまり、今まで贔屓にしてくれた客と別れること、初音は心の中では罪悪感を持っていた。
ほとんどの贔屓客が上見世に上がることを喜んでくれていても、だ。
金や格のない水主や人夫の客は、気さくで面白い人が多かった。
来年上見世に上がることになったのを、笑顔で喜んでくれた。
寂しくなるという人もいたが、よくあることだと理解してくれる。
みんな、みんないい人で優しかった――。
以前の廓の客は荒っぽい人が多く、その影響で遊女たちもちょっとしたことでキレる人がたくさんいた。
禿時代から怯えて暮らし、付き従っている姐遊女から八つ当たりをうけることもざらで、仲良くしていた禿や遊女たちも次第に姐遊女たちのように染まっていった。
この先、この弁柄の硯箱のように自分を飾りつけなくても、素朴ながらも人を魅了し、高値で買ってもらえるような遊女でありたい。
そして自分に科せられた借金を払うためならどんな犠牲もいとわない。
いつか一番人気にのし上がって、希少で価値のある遊女になるんだと心に刻む。
優しかった今までの旦那たちに感謝しつつ、初音はより格の高い遊女になることを決意した。
赤みが強いものほど価値がある。
この弁柄の硯箱をひと目見て気に入ったのは、自分にない色のような気がしたからだ。
自分を変えたい、変わりたい。
そんな初音を後押しするかのように、この硯箱を手にしてるだけで自分が変われるような予感がした。
――過去の情けないだけの、弱いだけの自分に別れを告げる。
初音は硯箱を大きな箱に収めると、身だしなみを整えるために二階へを上がって行く。
ほかの遊女たちが控えの間で身支度をしている中、初音は鏡の前に座る。
そしてこれからの自分のために、もっとも赤い色の紅を唇にさすのだった。




