第二節:北方からの招待状(下)
【8】
その美しい貴婦人は、大窓から差し込む朝日に照らされ、爽やかに、そして優雅に振り返り――
「ゆうべは、お楽しみでしたね♥」
「ぶふっ……!」
紅茶を噴き出すレナード。
レナードの傍に控え、頬に両手を当て赤らむラーナ。
「母上……野暮の塊ですか……」
一夜明け、アリスフィーナ一行は、再び襲ってくる悪臭と戦いながら街を抜け、帝都ノイエ・シュタットを目指し、馬車を走らせた。
この日から、御者座のレナードの隣が、ラーナの定位置となった。彼女は、悪臭があまり気にならない性質だったので、レナードとしても何かと助かった。
それでも――「ラーナ、疲れたりしたら、客車にもどるんだよ」と、彼女を気遣った。「はい。ありがとう、あなた」と、にこやかに笑顔を返すラーナ。
この北の地での旅は、二人にとって、忘れ得ない、大切な思い出となるのだろう――
旅程は順調であったが、時折、雷と共に訪れる夕立が、一行の足を阻む。
しかしここは、既に旅慣れた一行。わざと雨に打たれ、髪や肌を洗い、雨が止むとアリスフィーナの「乾きなさい」の一言で、気分爽快になれた。
数本伸びた街道は、徐々に商人の馬車や、旅人達の姿が増え、時には渋滞になる事があった。
それは、着実に帝都に近づいている証拠でもある。
アリスフィーナ達は、渋滞が収まるのを待つ為に、本日は、小さな宿場町で過ごす事にした。
大部屋を一つ確保すると、久々の床の感触に、皆、身体を伸ばす。
「そろそろ旅の大詰めですね。いい機会ですから、ここで、情報と予定の整理といたしましょう」
アリスフィーナは、ノルンが淹れた紅茶を味わいながら、皆を集めた。
「はい。まずは帝都に到着次第、帝城へ先触れを出します。そして、遣いの者の連絡を待ちます。次に、案内された場所にて、当日まで待機。その間に、各々準備を整えます」
カイゼルが淡々と、時系列通りに解説する。
「当日は夕刻より、帝室白天離宮にて、晩餐会と舞踏会があります。翌日、昼からエルスリード本城で、クワイア皇帝陛下と謁見。何事もなければ、そのまま帰路に就きます。以上が、大まかな流れとなります」
「よろしい。では具体的な説明は私が。北方流は、カウベルの社交界とは、少し趣きが異なりますので、皆、しっかりと覚えて下さいね」
総員、それなりに社交界には心得があったが、思わぬ手違いが、大きな恥を産み出す事も承知していたので、真剣な顔で取り組んだ。
「入場ですが、諸外国から人を招く晩餐会なので、身分差の入場順は無視されます。但し、皇帝陛下より遅くなってはいけません。これは絶対です。次に名乗りですが、私だけに留めましょう。私の同伴はカイゼルで。ラーナにはレナード様が、ノルンは付き人として私に」
アリスフィーナが、人選と配置を指示する。
「ラーナには、身体の線を抑えるドレスを手配します。その方がレナード様も、少しは安心でしょうから。ノルンは、公式用のメイド服をお願いしますね」
「畏まりました。アリスフィーナ様」
「帝国は騎士の国ですから、晩餐会でも帯剣が許可されています。ですが、こちらは無手で行きます。警戒心を煽らずに済むのであれば、その方が良いでしょう。なのでレナード様は、会場入りした後、文官騎士である事を、ひとまず忘れて貰います」
「承知しました。大公殿下」レナードは静かに頷いた。
「舞踏会に席が移ったら、基本ラーナは、下がって座っているように。足が悪いという設定にします。レナード様は、ラーナの護衛を。紳士様方のお誘いは、私が全てお受けしますので。カイゼルは、もしも、踊りたければ好きにしていいですよ」
カイゼルは、それは面倒臭い、という表情を浮かべた。
「次に、挨拶ついでに、交渉事や密談等を持ち掛けられたら、『一旦、持ち帰りにて検討します』の一点張りでいなして下さい。もしも、しつこい相手のようでしたら、私が対応しましょう。そして、カイゼル。貴方の身分は、私の息子である事を明かしても構いません。勿論、カウベル王子の一人である事も含めてです」
「私の出番など無いでしょうが、解りました」
「後、臭いの問題に関しては、魔術での対応はできません。あちらにも少なからず、魔導師が配備されていますので、感知されて敵意あり、と見なされると非常に厄介です。頑張って堪えて下さい」
皆、この言葉には、ラーナ以外うんざりとした表情になる。
「で、これが一番大事な話なのですが――」
そして、アリスフィーナ達は三日後に、帝都ノイエ・シュタットへと到着した。
帝都ノイエ・シュタット――エルスリード王朝の時代は、当代の帝の名で呼ばれた、石造りの巨大都市である。赤地に、剣を戴いた、双頭の金色鷲を描かれた紋章旗が、そこかしこにはためいている。
巨大な正門を抜けると、入場手形を発行する衛兵の詰所があり、やはり、多くの来訪者達の順番待ちで埋め尽くされていた。辺りは衛兵が行き来し、喧噪に包まれていた。
皮鎧に身を包んだ衛兵の一人が、アリスフィーナ達の馬車に掲げられている「カウベル王国の紋章」に気付くと、走り寄ってくる。
「失礼! 貴殿達は、カウベル王国からの使者であるか!?」
「然り。衛士殿。この度、クワイア皇帝陛下の晩餐会に招かれ、参上した次第です! お取り次ぎの旨を宜しいか!?」
レナードが、騎士の言葉遣いで対応し、招待状を手渡す。念の為、ラーナは客車に退避している。
衛兵は「預かる故、しばし待たれよ!」と、詰所の中へと返り、ほどなく戻ってきた。
「カウベルの方々よ! ようこそ、エルベリオン・ノイエ・シュタットへ! 此方へこられたし!」
「相分かった! お頼み申す!」
招待状を受け取ったレナードは、衛兵の案内で、特別対応窓口へ馬を向けた。
(思った以上に、兵の質が高いな……流石と云うべきか……。ただ……何だ、この臭いは……)
「カウベル国、ジークルーネ大公様の御一行ですね。帝城への先触れは、こちらで対応しておきますので、招待客用にご用意させて頂いている、こちらの宿をお使い下さい。これが紹介状と地図です」
レナードが文官から、書状と帝都の簡略地図を受け取る。
外の声に耳を傾けていたアリスフィーナは、状況を把握する。
(随分と手際がいいですね……それだけ今回は、力を入れているという事でしょうか……?)
「しかし……うーん……やはり、臭ってきましたねえ……この香水臭さ……!」
幾分か街中の悪臭に対しては、皆、少し耐性が付いてきたが、帝都は、また違った臭いが充満していた。
「これは、普通の香水の……強いですね……」
「そうです『北の香水』を、本物の強い香水で抑え込んでいるのです。しばらくは、鼻と目が馬鹿になりますよ!」
「アリスフィーナ様……目が染みます……」
ノルンが思わず目を擦る。ラーナは不思議と無反応である。
御者のレナードは、鼻と口元にチーフを巻き、強烈な香水臭さに耐えながら、馬車を走らせた。
しばらくすると、カイゼルは窓の景色を見て、はっとした表情になり、客車窓を開けた。
「済みません、レナード、止めて下さい!」
「おっ? どうした!?」
カイゼルは、馬車内の収納棚にあるパンの包みを幾つか持つと、馬車を飛び出し、人の行き交う大通りを抜け、路地裏に向かって走り出した。
路地裏の陰で、少女が襤褸にくるまって座り込んでいた。
(こんな場所で……浮浪児か……)
表通りとは違い、薄暗い陰で幾人かの大人達も、力無く座り込んでいる光景があった。
カイゼルは少女の前に跪き、パンの包みを差し出した。
「これを、お食べなさい。誰にも見つからずに、そっと……」
「…………」
少女は虚ろな目で、包みを受け取ると、瞬間、目を開いてカイゼルを見つめた。
「いいのです。代償など要りません。さぁ、行って……」
少女は、カイゼルを不思議そうに見て、走り去った。
彼はその後ろ姿を、表情を崩さずに見送る。
アリスフィーナは、そんな息子の姿を、嬉しくもあり、また、困ったものだ、という複雑な顔付きで見守った。
馬車に戻ってきたカイゼルへ、レナードは脚を指差しながら、手拭を投げてよこした。
「済みません、お待たせしました。先を急ぎましょう」
やはり表情を崩さず、静かに座ると、手拭で汚れた脚を拭きだす。
アリスフィーナは、目を瞑り、声の調子をやや落として口を開く。
レナードも窓から様子を窺う。
「カイゼル、今の貴方の行動は、一体誰の為にした事ですか?」
「…………」
「責めはしません。が、本当に救うとは、この状況を変えてあげる事です。ですがそれは、この国の人々がすべき事。残酷なようですが、それを成すのは私達ではありませんよ」
ノルンもラーナも、カイゼルの心中を察するように見守る。
「はい、母上。理解してはいます。ですが、あの子が……ローザが、同じ目にあってやしないかと考えると、他人事とは思えず……」
脚を拭きながら俯くカイゼルを見て、アリスフィーナは困ったように優しく微笑むと、カイゼルの頭を撫でた。
片目を瞑り、使い魔と視覚を同調させたアリスフィーナは、息子を安心させるように言葉を紡ぐ。
「あの子なら大丈夫ですよ。今、現在もちゃあんと、図太く生きています。がっつりと、お昼ご飯を頂いているようですね。全く……本当に、誰に似たのやら……」
全員、真顔でアリスフィーナに注目した。
【9】
そして遂に、その日が訪れた――
この三ヶ月に渡る、旅の目的、終着点――
各々の胸の内に去来する、旅の足跡と思い出――
予行演習、作法の復習、準備は万端――
今まさに幕を開ける、エルベリオン皇帝主催《 皇帝大晩餐会 》が――
帝室客人用観覧馬車――四頭引きの、エルスリード調の見事な造作の客車に、カウベルからの来訪者達が座していた。
アリスフィーナを除く四名は、少し落ち着かなさげな表情を浮かべている。
ラーナは不安そうな眼差しで、レナードの手を握った。レナードは目で「大丈夫だよ」と語るように、ラーナの手を握り返す。
「もうここまで来たのです。やるべき事は全てやりました。後は美味しい物を食べて、飲んで、踊って、笑って、匂いに咳込んで、帰るだけです」
アリスフィーナが、軽快な口調で皆の緊張をほぐす。
カイゼルは終始無言で目を瞑り、腕を組んでいる。
帝室の敷地は、帝都ノイエ・シュタットの、北部全体に及ぶ。そこには名物朝廷庭園を始め、狩りもできる広大な針葉樹林の森、帝室一族の豪華な屋敷が、これでもかと贅を極め凝らすように、その権威を示していた。
馬車の車輪を損なわぬよう、手入れの行き届いた石畳の街道、時間の経過と共に光度が変わる、魔導街路灯。一行はアガルトラントとは、また違った規模の迫力に圧倒された。
二刻後、林間の街道を抜けると《 帝室白天離宮:オーベルス・ヴァイス 》が、煌びやかに照らされた姿を見せる。
アリスフィーナは、豪華な離宮を目にすると、冷ややかな視線を送る。
(久しぶりに見ましたが、相変わらず「ギンギラギン」で、良い趣味をしていますね……)
「あのごてごてとした、重苦しい雰囲気の街中とは、全く違う世界だな……」
社交宴席用に、後ろ髪になでつけたレナードが、感想を漏らす。
「ええ……それと共に、香水の匂いがキツくなって参りましたね……」
ノルンが少し鼻を抑え、軽く咳込んだ。
彼女の装いは、長い銀髪を巻いて抑え、格調高く仕立てられた高級使用人の服は、前掛けにカウベル王国の紋章が、精緻に美しく刺繍されている。
「兎にも角にも、控室に通されたら、全力で鼻呼吸を繰り返し、素早く嗅覚を順応させて下さい。カイゼル、貴方は問題ありませんか?」
ややあって――「はい。母上。問題ありません」と、返答する。
カイゼルには髪型含め、特別な変化は無かった。
変わったところと云えば、白地の中衣にカウベルの紋章入りのブローチ、絹の手袋、スーツコートの胸袋から、白いチーフを刺しただけである。
アガルトラント最高級仕立てで、既に洗練されていたからである。
勿論、アリスフィーナの意匠組合せであった。
既に中庭では、数多くの馬車が集まり、エルベリオン貴族を始め、諸外国の来賓が、次々と入宮していた。
「さて……各々方、戦場に参じますよ!」
アリスフィーナの号令一下、馬車を降り、同伴隊列で入宮する。
受付対応はレナードが行い、会場入場まで、順番待ちの控室に案内される。
「見た目通り……もの凄い広さです……」
香水の匂いが効かないラーナが、驚嘆の声を上げる。
高い天井、エルスリード調の煌びやかな装飾、大窓のエルベリオン紋章のカーテン、見事な北方絨毯、待合室のソファに至るまで、全てが豪華絢爛な佇まいであった。
次々と、参加者の紳士淑女達が案内に応じて、名乗りと共に入場してゆく。
そしていよいよ、アリスフィーナ達の出番となった。
閉じられた入場扉を前に、隊列は、カイゼル、アリスフィーナに続き、レナードとラーナ、最後尾にノルンが控える。
『カウベル王国使節団、ラ・アリスフィーナ・ジークルーネ・エル・カウベル大公爵のご入場!』
名乗りのよく通る声と共に、扉が開かれ、アリスフィーナ達が会場に姿を現す。
経済大国カウベルの名を聞くと、会場内の喧噪が高まり、視線が集まる。
カイゼルに伴われたアリスフィーナが、ほんの少しだけ目を伏せ、静かに入場する。
目を見開く者、呆然とする者、羽根扇で口を隠し囁き合う貴婦人、珍しい物を見る奇異の視線、感嘆の息を漏らす者、諸々の感情が入り乱れた様相であった。
入場路の中央付近にくると足を止め、まずカイゼルが胸に手を当て、軽く一礼し入場挨拶をする。
次にアリスフィーナが一歩前に出て、流れるが如く、片足を引きながらドレスの腰を軽く持ち、少し深めにお辞儀をする。
全く重心のぶれが無い、優美で荘厳華麗なカーテシーを披露した。
光の反射で煌めく黄金の髪は、精緻に編まれ、まるで、ティアラのように結い上げられていた。
深く蒼い瞳と同じ色の絹のドレスは、華美な派手さは無く、少し身体の線が浮くように締まるような仕立てで、腰から下がふわりと広がり、彼女の魅力を一層引き立たせた。
ハイイロキツネの毛皮のショールを纏い、長いエルダーの耳には金剛石の耳飾り。
左手の小指に、ジークルーネの印章指輪。
右手の人差し指には、カウベル王国の国宝の一つ《 聖女の指輪 》が、淡い輝きを放っている。
瞬間、会場中が息を飲むかの様に静まり返り、エルダーの貴婦人に視線が集中した。
続いて、同じようにレナードとラーナが挨拶を贈り、ノルンは脇に控え、係の者にテーブルに案内されてゆく。
会場の喧噪は元に戻るが、衆目はカウベル一行へと切り替わっていた。
円形のテーブルに着くと、ラーナはほっと一息吐いた。
「はー……緊張したぁ……」
「きちんとできていましたよ。笑顔は少しぎこちなかったですが……」
背筋を伸ばして、微笑を浮かべるアリスフィーナは、耳を立て情報を集めだす。
入場した瞬間から、観測の姿勢に入っていたカイゼルがそっと口を開く。
「よほど、エルダーが珍しいようですね。まあ、実際数は少ないので、その通りなのでしょうが。後は『成金の田舎者』『商売女』やら『耳長風情が……』など、多数のお褒めのお言葉を、賜っているようです」
レナードは、宿場町の部屋の話を思い返していた。
『で、これが一番大事な話なのですが――エルベリオン貴族は、基本的に人間族至上主義です。自国の伝統と格式、誇りに相まって、私とカイゼル、ラーナ達にも、種族蔑視の視線が向けられるかもしれません。勿論、やっかみもあるでしょう。ですが、この際全てを、聞き流すようにして下さい。私達は、大陸で最も平和を愛する、カウベルの民です。それこそが、我が国の誇りであり、また、栄誉なのですから――』
(この事だったのか……)
レナードは、胸を撫でおろすラーナを見つめた。今や、彼にとって、その人生の全てを賭して彼女を守り、そして愛すると誓った事を、改めて意識する。
主だった入場客の紹介が終わり、奥の厨房から、使用人達によって続々と、豪勢な食事を乗せたワゴンが運び込まれる。
ワインの瓶を受け取ったノルンが、四人に注いで回る。深い赤色の液体が、芳醇な香りと共にグラスを満たしてゆく。
「そろそろですか……」
その時、会場中が大きな歓声に包まれ、奥の壇上から、一人の男性が姿を現す。
宝石に彩られた絢爛な帝冠、皇帝笏を握り、白い毛皮が装飾され、びっしりと刺繍された赤いローブに身を包んだ、大柄の男であった。
立派な鷲鼻に、整えられた口髭、威厳に満ちた眼光、切り結ばれた口元、重圧な威光を放つ王気。
この者こそ、第42代エルベリオン帝国皇帝、クワイア・ラディウス・エルスリード・ヴァン・エルベリオンである。
クワイア皇帝は会場を一瞥し、満足そうに頷くと、テラスのような壇上から、杯を掲げ、朗々たる声で宴の開始を告げる。
「我が臣民よ、そして諸外国の客人達よ! 今宵は、我が戯れに付き合って貰い、まっこと感謝の意を告げたく思う! どうか、我が無聊を慰めると思って、存分に食べ、飲み、歌い、楽しんで頂きたい! これを以て、皇帝大晩餐会の開宴とする!」
会場中が震え、皇帝を称える喝采が湧き立つ。
「こーてーへーかー! ばーんざーい!」
アリスフィーナも、ワイングラスを手に立ち上がり、声援を贈る。
「母上……棒読みですが……」
「何を言うのです、貴方も皇帝陛下に、お礼を申し上げるのですよ!」
「はぁ……解りました……。コーテーヘーカーバンザーイ……アリガトーヒューヒュー……」
苦笑いするラーナ。
晩餐会が始まり、各々食事に手をつけ始める。
「ここの赤ワインはとても強いので、飲みすぎると後から来ますよ。気を付けて」
アリスフィーナは、そう言うと一気に飲み干し、上品に前菜を口に運び「ん!美味しい!」と、周囲を気にせず食事を始めた。
「アリスフィーナ様……」
ノルンが額を押さえた。
「ノルン、こちらはもういいですから、厨房の寄合所で『賄い』を頂いていらっしゃい」
「畏まりました」
ノルンは一礼し、しずしずと使用人の列と共に、奥へと去る。
こういった大きな祝宴の場では、出席者のお付きの使用人達も持て成す為に、別室にて賄い料理が振る舞われる。
様々な随伴使用人達が集まる、そこもまた、云わば、もう一つの社交界であった。
今回のノルンの仕事は、そこで、様々な情報を得る事であった。
貴族社交界の「噂」の発端は、概ね、このような場から始まると云っても過言ではない。
最初こそ、緊張で喉を通らなかったレナードとラーナも、アリスフィーナの気兼ねの無い食べっぷりに釣られて、共に食事を楽しんだ。
「カイゼル、貴方もどんどん頂きなさい。皇帝陛下も、それを望んでおられたでしょう!」
「坊ちゃま、さぁどうぞ。盛り付けておきましたから」
ラーナにも皿を差し出され、静かに口を付けると「おっ?」という顔付きになり、本格的に食べ始めた。その姿に三人は声を上げて笑った。
(まあ……なんて、お行儀の良い事でしょう……)
(田舎者らしい、無粋な作法だ事……)
クワイアは食事もそこそこに、玉座に頬杖を付き、退屈そうに会場を眺め、杯を傾けていた。
ふとその目に、楽し気に笑いながら、食事をしているテーブルが留まった。
興味を惹くように、その瞳が剣呑な光を宿し、自然と口端が吊り上がった。
周りの視線や、揶揄する声などおかまいなしに、晩餐を楽しむアリスフィーナ達であったが、カイゼルの「母上」という囁きで動きを止める。
「我が心尽くし、楽しんで頂けているようで、何よりである。礼を言うぞ、カウベルの諸君」
鹿の香辛料ソテーを食べようと、大口を開けていたアリスフィーナの背後に、クワイア皇帝が立っていた。
一行と周囲に一気に緊張が走る。
(皇帝陛下御自ら礼を……)
(田舎の道化共には過ぎたお言葉、嘆かわしいわ……)
アリスフィーナは、音も無くワインを一口飲み、そっとナプキンで口を拭い立ち上がる。
そしてクワイア皇帝に向き直り、軽やかに淑女の礼をとった。三名も立ち上がり、深々と頭を下げる。
周囲もその様子を固唾を呑んで注目する中、アリスフィーナは、ワインで火照った頬を隠そうともせずに、笑顔を浮かべた。
「これはクワイア皇帝陛下。こちらこそ、大変楽しませて頂いております。心よりの、感謝を捧げさせて下さいませ。本当に美味しゅうございます」
皇帝は、全く物怖じせず応えるアリスフィーナを、値踏みするように見下ろすと、ニヤリと笑う。
「この鹿は、我が直接仕留めた獲物でな、気に入って貰えた様で、嬉しく思うぞ」
「それはそれは、大変に結構なお点前です。それにこの大規模な宴の催し、皇帝陛下のご威光の賜物でございますわね」
「我もそなたの様な『有名人』に参じて貰えて、格別に鼻が高いというものである」
「あら、私が……ですか。皇帝陛下のお耳に、どのように入っているのか、興味がございますわ」
クワイア皇帝は、手に顎を乗せ、アリスフィーナとの問答を興ずる調子で答えた。
「そうさのう……生ける伝説……深淵を識る魔女……淫靡なる大娼婦とな……!」
「ほっほっほっ! 過分なご評価、恥じ入ってしまいそうですわ……ですが……」
アリスフィーナの蒼い瞳に、妖しい光が宿る。彼女は、口元をゆっくりと隠しながら――
「……陛下さえ宜しければ、私の無聊を慰めると思って、月の下で語らいなどは如何?」
先程の、皇帝の挨拶の一部を引用して、クワイア皇帝に甘く囁く。彼は、年齢よりも深く刻まれた、顔の皺を歪ませて、大きく笑いだす。
「はっはっはっはっ! これはしたり! 怖や怖や! 今宵は恥を忍んで退散する故、そなたの舞踏の姿を以て、我が心の慰みとしよう! では、ゆるりとされよ!」
クワイア皇帝は、笑いながら踵を返すと、玉座へと戻っていった。アリスフィーナはにっこりと笑いながら、手を軽く振った。
皇帝が通る道々、周囲は深く頭を下げる。
(これでこそ、晩餐会を開いた価値があるというものよ……!)
【10】
晩餐の宴席が一段落を迎え、クワイア皇帝は退席した。
出席者も席を立ち、一刻後の舞踏会までの準備の間、控えの間や中庭に散策に出る者、体調が優れない者は休憩室に、と一時解散となった。
アリスフィーナ達は、クワイア皇帝から格別の配慮により、専用の控室へと案内された。
「はぁー! 食べましたねえ!」
アリスフィーナは「ぽんぽん!」と掌で腹鼓を打つ。
本当にいい音が出たので、思わずカイゼルが噴き出した。
「お料理の勉強にもなりました。これなら、カウベル本国でも再現できそうです!」
すっかり、緊張が解けた様子のラーナであった。
「しかし、先程は驚きましたね。まさか、皇帝陛下が直々に挨拶に来るとは……」
レナードが、口元に手を当て、考え込むようにしてソファに深く座り込んだ。
「ただの暇潰し、では無さそうな雰囲気ではありましたが……。というか母上、良いのですか? あのような物言いで、不敬罪にされませんかね?」
「お笑いになっていらしたので、特に問題は無いでしょう。あんな事でいちいち腹を立てていたら、ここの皇帝様なんて、やっていられませんよ。それに――」
(お近くで拝見して、初めて解りましたが……あの、お顔の皺と目の下の隈……まだお若いはずなのに、老成した物腰……)
「母上?」
「いえ、何でもありません。こちらの話です。それよりもカイゼル、貴方気付いていましたか?」
窓際で腕を組み、外の様子を横目で眺めていたカイゼルが、母親に視線を向ける。
「何をですか?」
「貴方への視線ですよ」
「私の……ですか? 母上への間違いでは。私はほぼ黙って、食べていただけですからね」
レナードが「やれやれ」と首を振る。
(どーしてこの子は、自分に向けられる「好意」に関しては、どこまでも鈍感なのでしょうか……)
アリスフィーナは、子供の頃のカイゼルが、町の女の子達に囲まれても、全く興味を示す事が無かった事を、思い出していた。
そしてそれは、今現在もそうなのであろう、大学校の女生徒達にも、少し同情してやりたくなった。
アリスフィーナとクワイア皇帝との見事なやり取りは、やっかみや、嫉妬心だけを生んだわけでは無かった。
帝国内では気難しいのが有名で、滅多に笑う事がない皇帝が、大観衆の前で大声で笑ったのである。貴族達がそれに関心を持たない訳も無く、同時に、興味や好意も湧き上がらせたのであった。
若い淑女達の間では、見た事も無い長い耳を持ち、最先端の装いに見目麗しい青年とくれば、興味を持つなという方が、土台無理な話である。
その時、ノルンが扉を開けて入ってきた。
「こちらにおいででしたか、アリスフィーナ様」
「ご苦労様です、ノルン。そちらはどうでしたか? 大事はありませんでしたか?」
「はい、つつがなく。メイドという職は、国元は違えど、皆、ある種の共通意識を持っていますので、すぐに仲良くしてもらえましたよ」
ノルンは、アリスフィーナの傍に来ると、報告をするように話を続けた。
「皇帝陛下とのやり取りの後、私も皆に囲まれましてね、色々と話をせがまれました。特に、カイゼル様の話題が、多かったように思います」
カイゼルが眉を顰め「何故、私が……?」と、呟く。
「それと、エルベリオンの女中達とも、少し話をしたのですが、やはり皆、少しばかり疲れているようでした。気疲れというか、重圧的な意味で」
「それは、そうでしょうね……庶民からすれば、ここは別世界が過ぎますからね」
(尤も、理由はそれだけでは無さそうですが……)
「少し失礼、席を外します……」
レナードが所用とばかりに、部屋を出て行こうとするが、アリスフィーナはそれを制した。
「レナード様、用を足すなら中庭はいけませんよ。今頃は、地獄のような臭気に満ちているでしょうから」
「えっ……じ、地獄……ですか!?」
「ノルン、その辺りはどうですか? 魔術が使えぬ以上、情報が頼りです」
ノルンは、勿論だというように頷いた。
「使用人達が使う、整った場所は教えて貰いました。私も確認済みです。彼女達こそ、清潔にしておきたいものですからね。皆様、ご案内致します」
ラーナが助かった、というように大きく息を吐いた。どうやら我慢していたようである。
一刻後、大広間の舞踏会の用意が整い、出席者が集まり始める。
窓際には、長いソファと低いテーブルが並べられ、ワゴンには、菓子類と飲み物が豪勢に乗せられている。
楽団の席からは、楽器の調律をする音色が、不規則に鳴らされていた。
「この短時間で、ここまでの用意ができるなんて、凄いですね……」
アリスフィーナは、心底感心したように目を丸くする。
カイゼルはソファや、テーブルの足元に、車輪が付いているのを見留めた。
「なるほど。家具類全ての足元に、車輪が付いていますね。これなら、移動させるのに便利そうです」
「ほう……良く出来ていますね。こんなにも小型なのに、造りがしっかりとしています。車輪の脇にある金具で、固定もできるようです」
レナードが感心するように、機構を確認する。
「騎士の国ですからね、優秀な蹄鉄鍛冶職人が、大勢いるのでしょう。この技術、我が国に持ち帰りましょう。カイゼル、構造を完全に把握しておいて下さい」
「解りました。レナード、少し手伝って下さい」
二人はしゃがみ込むと、あれこれ確認し始めた。
帝国の貴族達は、その様子を冷ややかに笑いながら、通り過ぎてゆく。
しかし、中には技術に明るい諸外国の貴族が足を止め、興味深く眺める者もおり、いつしか、カウベル一行の周りに人だかりができ、勉強会のような空気で、帝国の車輪技術を褒め称えた。
アリスフィーナは、国境を越え結ばれる縁の光景を、微笑ましく見つめた。
「殿方は、こういうの本当に好きですよね。家の旦那様も、よく道具箱を出しては、小型の家具やら、関節を動かせる人形やら、飽きもせずに作っていますよ」
ノルンがやれやれと言うように、首を振った。
そして、クワイア皇帝が再び姿を見せると、歓声が上がり、車輪勉強会は解散となった。
手を振って自席に戻る技術者貴族達に、カイゼルは頭を下げた。
「楽しそうでしたね、カイゼル」
「ええ、こういうのは好きです。皆が、熱心に一つの事を考えたり、意見を出し合ったり、情報を共有するのは」
「その感性、今後に活かせればいいですね。ですが、今からはダンスの時間です。一曲目は、腕に自信がある者達が踊る舞台ですが、どうしますか?」
「お任せします。母上」
「では行きますよ。エスコートなさい」
初曲は、同伴者と踊るのがマナーなので、母親の二曲目以降も考えれば、カイゼルには選択肢があるようで無かった。
「次は『踊るからには、中央を取りますよ』ですね。解りました」
「解っているではありませんか。身分差不要の、無礼講の宴ですからね。遠慮は無しです!」
「ですが、歳なんですから、くれぐれも無理はしないで下さいね」
「言いましたね……! 私のステップとターンに付いてこれますか?」
「……努力します」
重圧が大きい一曲目であり、その上皇帝の玉体を前にし、どのカップルも中央を敬遠する中、エルダーの親子は、ずかずかと迷う事無く図太く陣取った。
そしてクワイア皇帝に向き直ると、礼を捧げる。
踊りに自信のある計7組が出揃った。
「やはり来おったわ……!」
クワイア皇帝は、面白い見世物を楽しむように、笑みを浮かべながら、挙げた手を楽団に振り下ろした。
同時に指揮者が、指揮棒を振りかざすと、軽快で滑らかな旋律の4分の3拍子が響いた。
上級者向けの円舞曲「北方の舞姫」である。
前奏では、二人が鏡合わせのように、足を滑らすように歩く「ウォーク」があり、まずはここで格付けが決まる。
アリスフィーナとカイゼルは、一糸乱れぬ歩幅を刻み、皇帝の視線を釘付けにする。そして互いが軽く手を合わせ、位置を変える「アンダーターン」から単独演技の「スピン」に入る。
ゆっくりと華麗に回るカイゼルに対し、アリスフィーナは、有り得ない速度で三回転を披露。
そして、手を合わせ「プロムナード」に入り、再び手を取り交差する「アンダーターン」では、高速二回転を決めると同時に足を垂直近くに上げ、胸を合わせるように組み合い、本舞踏が始まる。
引きつった笑みのカイゼルに対し、「どうよ」と云わんばかりのアリスフィーナ。
一方、ノルンとラーナは「一体、誰と戦っているの?」という謎の表情を浮かべた。
アリスフィーナとカイゼルは、回転しながら、中央を縦横無尽に舞い踊る。
深いステップから、浅い連続ステップを刻み、衆目を独り占めにした。
アリスフィーナが暴れる時は、強引に回転して連れ戻し「オーバー」で落ち着かせ、カイゼルが主導権を握ろうとすると、するりと抜けて、自分勝手に踊り出そうとする母親に振り回される。
カイゼルはそれを必死に捕まえて「ホールドディスタンス」からの「オープンポジション」にする頃合いからは終盤に入る。
互いに離れた位置から、アリスフィーナの連続10回転スピンからの「アウェイ・オーバースウェイ」で一曲目が終幕する。
「このような舞踏、一生に、一度見られるかどうかのものよ……!」
皇帝自ら立ち上がり、手を叩く。
会場に、割れんばかりの喝采が鳴り響く。
皇帝に最上級の礼を贈ると、万雷の拍手の中、母親は余裕の表情で、肩で息をする息子に手を引かれ席に戻る。
「楽しかったですねえ! まさか、息子と踊れる日が来るなんて! 母上は嬉しいです!」
「手加減して頂いて、ありがとうございます……おかげ様で、足首が折れずに済みました……」
「あら……解ったのですか? それだけでも、大したものですよ! ほっほっほっ!」
席に戻ると、ノルンは用意していた、冷やした甘い果実酒を二人に手渡す。
「お疲れ様でした、カイゼル様。骨は大丈夫ですか?」
「なんとかね……」
手渡された果実酒を一気に呷ると、カイゼルはソファに倒れ込んだ。
「坊ちゃま!?」
ラーナが慌てて介抱する。
レナードは、アガルトラントの時のように、肩を叩き「お疲れさん」と労った。
次が始まる前には、緩やかな待ち合いの曲が流れ、この間は休憩となり、次曲の相手を見つける時間となる。曲の難易度も下がり、三曲目以降になると、更に緩やかな旋律で、お歳を召した参加者でも踊れる配慮であった。
何とか身を起こし、ぐったりと項垂れて座るカイゼルの横では、アリスフィーナが待合曲を聴きながら、身体を揺らしながら鼻歌を鳴らしている。
「失礼します。レディ・ジークルーネ」
アリスフィーナが視線を上げると、長い黒髪を纏め帝国儀礼軍服に身を包んだ、三十路半ば頃の、長身の男が胸に手を当て立っていた。
彫りの深い、かなりの二枚目である。
カイゼルが、俯いたまま片目を開ける。
「私は、帝室直属第二旅団副長の、グレン・アーヴァインと申します。先程の舞踏、大変美しくお見事でございました。感動で我が身が、打ち震える想いです!」
「まあ! それはそれは、お褒め頂き嬉しゅうございます。グレン様」
(軍の幕僚幹部……アーヴァイン家……帝室七王家ですね……)
「あの様な華麗な舞いを見た後で、甚だ恐縮ではありますが……どうか是非、私とも、一曲舞う機会をお与え下さい」
(……あの踊りを目の当たりにして、誘える男がいるとは……)
カイゼルは、グレンの風体を観測し始めていた。
アリスフィーナは勿体ぶるように、目を瞑り口元に手を当てていたが、髪束のティアラを解き、長い髪を咲かせるかの様に跳ね上げた。
すかさずノルンが、後ろ髪は伸ばしたまま横編みを作り、ドレスと同じ蒼いリボンで飾り着け、一歩下がる。
そのあまりの早業に、給仕の女中が手を止めて見入っていた。
一瞬で、お色直しを終えたアリスフィーナは、グレンに微笑みを向けて、手を伸ばす。
「はい。喜んで」
グレンは、アリスフィーナの手を取ると、佩いていた細剣を係の者に預ける。
アリスフィーナは、カイゼルに振り返ると「母上は、もう一曲踊ってきますので、貴方は休んで、次は誰かを誘うのですよ!」と、エスコートされてゆく。
カイゼルは、片手だけパタパタと振って見送る。
次の曲は、標準的な難易度の舞踏曲で、ゆったりとした調べの「雪華乱舞」である。
参加者も増えたが、やはり中央は敬遠されていた。アリスフィーナとグレンは、そこが定位置だと云うように進み出る。
今回のアリスフィーナの動きは、一曲目のような激しく切れのある、鋭いステップではなく、緩やかに、腕から指の先まで滑らかに舞い、また違った表情を見せる。
降ろした長い髪が閃き輝いて、曲目通りに乱れ舞った。
グレンも長い手足を活かした、力強い中にも大きく懐の深い円を描き、観客達を魅了した。
特に、回転しながらの「プリンセス・リフト」の際には、女性陣から溜息が漏れた。
「ふっ……グレンめ……楽しみおってからに……」
クワイア皇帝はそう言いながらも、二人の舞踏をしっかりと堪能していた。
ラーナは、美しく舞うアリスフィーナを見ながら、自然と足がステップを踏むように動いていた。
それを見たレナードは、優し気な表情を浮かべた。
舞踏が終わり皇帝への礼を捧げると、グレンは胸に手を当て、アリスフィーナに跪いた。
アリスフィーナは、少しツンと澄ました笑顔になると、右手の甲を差し出す。
「許します」
「有難き幸せ」
グレンはその手を取り、ゆっくりと口付ける。
またもや多くの女性観衆から、悲鳴にも似た溜息が漏れ、大きな拍手が贈られた。
不思議と、既に彼女達を揶揄する声は、息を潜めるようになっていた。
「アリスフィーナ様、後ほどお時間を少し頂戴できますか?」
グレンが、帰り道のエスコートで囁いた。
「解りました。専用の控室を貰いましたので、そこで」
口早に、約束を取り決めるアリスフィーナ。
グレンは係から剣を受け取ると、腰に佩き直し、改めて、アリスフィーナに騎士の礼を取る。
「今宵はとても楽しい一時を、どうもありがとうございました。これは私の、一生の記念になる事でしょう!」
「こちらこそ、素敵な時間を、ありがとうございました。とても、楽しゅうございましたよ。貴方様ならば、もっと難しいリフトもできたでしょうに、そこを敢えてのお姫様抱っこ! 思わず、ときめいてしまいました……!」
「はっはっはっ! 喜んで頂けたのであれば、何よりです! それでは、御免!」
笑いながら去るグレンを見ながら、カイゼルは「良い人ですね」と、一言添えた。
「ええ。思わず、口付けを許してしまうぐらいに……」
アリスフィーナは、カイゼルの隣に深く腰を落とし、ノルンから果実酒を受け取ると、クイと一口飲んで、大きく息を吐いた。
「はぁーやはり、二連続は疲れますねえ。楽しい疲れではありますが……」
その時、一瞬だけ寂しげな目をするカイゼル。
「グレン殿と、一緒におられた時の母上を見ていたら、何だか……」
「……何だかぁ?」
息子の「やきもち」が、可愛くて、嬉しくて、仕方がない笑みを漏らすアリスフィーナ。
「まるで、貴族の淑女のように見えましたよ」
「んがっ……!」
言葉のリフトで高らかに持ち上げられ、直下型に落とされる。
「貴族ですがっ!? 淑女ですがっ!? おまけにっ王族ですがぁ!? あ ん た も ね !?」
「ははははっ! そう云えばそうでしたね!」
噛みつかんばかりに吠える、アリスフィーナをよそに、目に涙を溜めて笑うカイゼル。
「いや……失礼しました。なにせ、屋敷でドレスを脱いだ後は……人様にはお見せできない恰好で、ふらふらと歩きまわっておられるので、失念しておりました。ぷっ……!」
「ぐぬぬぬぬぅ……!」
ノルンが「うんうん」と頷いた。
とうとう、アリスフィーナの耳と鼻の穴から煙が噴き出して、ラーナは慌てて抑え込む。
「アリス様! 魔力漏れてます! 漏れてるよぉ!」
カイゼルとレナードは、いよいよ腹を抱えて、テーブルを「ガンガン」と叩いた。
不意に会場に笑い声が木霊し、何事かと皆、視線を走らせる。
クワイア皇帝は、カウベル陣営に目を運ぶと「お前ら、もう少し……遠慮しても、ええんやで……?」と、呟いた。
三曲目の待ち合いの旋律が流れ出すと、ラーナは、そわそわと、落ち着かなさげな仕草になる。
レナードはラーナの前に跪き、手を差し伸べ「私と踊ってくれませんか? マイ・レディ!」と、ラーナを誘う。
ふわふわとした、黄色い花をあしらった、可愛らしいフリルドレス姿のラーナは、満面の笑みで「はい! 喜んで!」と、愛する夫の手を取った。
一方、カイゼルからかなり離れた位置で、初めての社交界を迎えたのであろう、帝国の令嬢が顔を真っ赤に染めて、もじもじしながら立ち尽くしていた。
アリスフィーナはその姿を目に留めると、息子の背中を、さっきの報復を込めて「バシン!」と叩く。
抗議しようとするカイゼルに、顎で指図すると「後は、解りますね?」と言うと、愛する息子を強引に送り出した。
「初めまして、レディ。私はカウベル国、カイゼル・ジークルーネ・アル・カウベルと申します。このような場に不慣れな若輩ですが、もし宜しければ、貴女を舞台にエスコートしたく思います」
足を折り、左手は後ろに、頭を下げ右手を差し出す。
金色の髪の少女は、頭を下げ軽く沈み、震える手でカイゼルの手を取ると「はい……喜んで……!」と、泣きそうに微笑む。
付き添いであろう四名の少女達が『やーん!』と歓喜の悲鳴を上げる。
周りの大人達は、その初々しく愛らしい社交を、微笑ましく見守った。
クワイア皇帝も、その様子をニヤニヤしながら見物をする。
後の皇帝付き文官は語る。
クワイア陛下が、一曲目以降の舞踏を見届けるのは、初めての事である、と。
【11】
「アリスフィーナ様。率直にお尋ねしますが、この国の事を、どう思われますか?」
「臭いです」
「ほんっとすみません!!」
時は少し遡る――
当初の予想を、遥かに大きく上回る盛況を見せた舞踏会が閉幕し、歓談の時間になった。
クワイア皇帝は、招待客に挨拶を終えると退出し、ここから二刻程、自由社交の場となる。
純粋に会話を楽しみたい者、顔を売りたい者、人脈を築きたい者、恋を求める者達が残る。
そして、人によっては、ここからが宴の本番であり、取引や根回し、密談に流言、信頼と裏切り、社交界の裏の顔が浮かび上がる。
アリスフィーナ達は、招待客達に囲まれる前にそそくさと退出し、宛がわれた控室に逃げ込んだ。本来であれば、このまま帰るのだが、アリスフィーナが、グレンとの会談の約束をしていたので、もう少々残る事となったのである。
「一体何のご用なのでしょうか? 母上」
貴族令嬢達に囲まれ、ついでにカウベル化粧品の代表である、乳液の試供品を配り、見事な営業活動をこなしたカイゼル。
(この子……もう、これで食っていけるのでは……)と、アリスフィーナ。
「さあ……穏やかなお話であれば、良いのですけれどね……」
アリスフィーナはグレン以降、誰にも誘われなかったので、とうとうレナードに誘わせて、ビュンビュン振り回し、会場に笑いをお届けした。
「グレン様って、アリス様と二曲目に踊った、騎士様ですよね?」
可愛らしく、楽しそうに踊っていたラーナは、四曲目で多数の紳士に誘われていたが、少し挫いた事にして、足首に包帯を巻いていた。
ノルンは別件で席を外していた。
その時、扉をノックする音が聞こえた。
「ああ、私が出ます」
レナードはややふらつく足取りで、扉の陰から尋ねる。
「こちらは、カウベル使節団の部屋ですが、どちら様でしょうか?」
ややあって――
「私は、グレン・アーヴァインと申す者です。アリスフィーナ様に、お取次ぎを願いたい」
レナードは振り返り、アリスフィーナは頷いた。
文官騎士が静かに扉を開けると、そこには花束を持ったグレンが立っていた。帯剣はしておらず、それを確認すると、レナードは周りを見回す。
「安心召されよ。私一人だ」
レナードは彼を迎え入れると、後ろ手に扉を閉める。そしてそこを守るように、長剣の柄に手を乗せる。
「流石はアリスフィーナ様。良い騎士をお連れだ」
「彼、踊りもお上手ですのよ」
顔を顰めるレナードを見て、アリスフィーナは口に手を当てて笑いだす。
「貴重なお時間を頂戴しまして、ありがとうございます。まずはこれを……」
頭を下げ、青い花束を手渡すグレン。
「まあ、綺麗です事……。どうぞ、お掛けになって下さい」
花束をラーナに預け、着席を勧めるアリスフィーナ。
レナードが剣の柄から手を離した。ここからは、主人の客人である。
「で、私にお話とは一体何でしょうか。グレン・アーヴァイン・エルベリオン第一王子様」
「やはりご存じでしたか……」
グレンは照れるように頭を掻いた。
「ええ。帝室七王家のアーヴァイン家と言えば、筆頭の、ラディウス家に次いで名門ですもの」
帝室七王家――エルベリオン帝国は、七つの王家が広大な帝国領を治めており、統一王朝時代より帝の血筋を、正統に受け継いできた家系であった。
元々は八王家だったが、ランダメリア家が帝国より独立した、歴史経緯で知られている。
血筋の長さだけで云えば、実に1800年以上の歴史を誇る、由緒正しき家系であった。
「貴方様も、私の事を知っていたのでしょう? おあいこですよ」
「アリスフィーナ伝説は、王家であれば、誰しも知っている事です。千年帝レオンハルト様とも親しかったと」
「懐かしい名です。ええ、それなりに――」
不意に、アリスフィーナの脳裏に蘇る。聖王歴1001年に結ばれた《 大陸、真の百年の友誼 》の、輝かしい英傑王達の姿が――
カイゼルは、また、母親の新たな一面を観たような気がした。
そして現在――
「ほんっとすみません!!」
深々と頭を下げるグレン。
「ですよね! 臭いですよね! 私だってそう思います! というか、糞尿ぐらい片付けろよと! 帝国を代表して陳謝致します!」
溜まっていた「何か」を、吐露するように吠えるグレン。
(やっぱり、良い人だ……)
カイゼルは、改めてそう思った。
「まぁ……まぁまぁ、良いところもありますよ。例えば……お料理が美味しくて、そう、お料理が美味しい……あと、お料理がとっても美味しい!」
「母上。『料理』しか言っていません」
「!!(余計な事言わないの!バカイゼル!)」
「はっはっはっはっ! 料理ですか! いや、良かった……一つぐらいあって……!」
グレンは冗談なのか、本気なのか、ともかく笑いながら、アリスフィーナの意見を受け入れた。
「後はそうですね……雰囲気というか、空気とでも言いましょうか、まるで巨大な『何か』に飲まれそうな、重圧感……。私の識る時代でも、違った形であるにはありましたが、ここまでの『何か』に責め立てられそうな、重苦しさではありませんでした……」
アリスフィーナは、その「何か」に見当は付いているが、グレンの心情を慮り、比喩を交えて語った。
「そうですね、この際、はっきりとおっしゃって下さい。お気遣い感謝します」
グレンの半ば覚悟した面持ちに、アリスフィーナは応える。
「では……元々、この国は統一王朝時代より続く『伝統と格式』を重んじる、古き良きを体現している、大陸有数の国家です。それが連綿と続く『誇り』を生みだしましたが、それ故、哀しい分裂をも生じさせました」
ここでアリスフィーナは、初めてこの国の、統一王朝から新生エルスリード、そしてエルベリオン帝国と、ランダメリア大公国に至る、経緯を踏まえて述べ始めた。
「王朝の崩壊以来、あまりにも多くの物を失ってきたこの国は、もう、それにすがるしか無かったのでしょう。歴代の皇帝達は、常に『また、失うかもしれない』という想いに苛まれてきました。それでも、その胸の内に宿る……双頭の金色鷲たる『気高き誇り』だけは、失わずにいたはずなのです……」
グレンはじっと、アリスフィーナの言葉に、耳を傾けた。
「ですが、レオン様が亡くなって以降、その『気高き誇り』に徐々に陰りを感じて、私は、あまりこの国に近づかなくなりました。そして『伝統と格式』『誇り』が、何よりも、人の命よりも、重んじられる風潮が芽生え始めました」
カイゼルが目を細めて、《 永遠のアリスフィーナ 》を見つめる。
「その意識は他者を、低き者へ落とし、自らを肯定する、歪んだ『自尊心』を育む温床になったと思います。そして、その『自尊心』を保つ為に『伝統堅持』こそが国の最重要事項として、利用されてきたのでしょう。手段と目的が入れ替わるように……」
ラーナがレナードに、そっと寄り添った。
「近代になり、それが、異常に膨れ上がっていたのは感じていました。まるで意図的に、そうなるよう、仕組まれていたかの様に……グレン様、何か、思い当たる節はありますでしょうか……?」
グレンは無論と云わんばかりに――
「はい。アリスフィーナ様のお察しの通り、『元老院』です」
「『元老院』……? 何ですか、それは?」
カイゼルが眉を顰めて聞いた。
アリスフィーナは、大きく息を吐いた。
「はぁー……どうせ、そんな事だろうとは思っていましたよ……。『帝国元老院』というのは、次代の皇帝や、国の重大な決定を、前以て吟味する議会の事ですよ」
「はい。今の帝国は、皇帝含め、帝国議会も、裁判所も騎士団も帝国教会も、七王家すら彼等の掌の上です。唯一、犯されていない組織は、我が帝室直属第二旅団のみです」
その説明で、全てを察するカイゼル。
「打つ手がありません。一手、二手では全然足りない、話にならない……!」
「解りましたか? 例え『元老院』を強引に排除したところで、『今の帝国』では、次の『元老院』が誕生するだけです。彼等が200年以上かけて構築した、負の連鎖の継承です」
グレンが大きく頷く。
「私が生まれた時には既に、手遅れだったのだ……全く、口惜しいよ……!」
「……………………」
アーヴァイン王家、第一王子の怒りの王気を、ビリビリと肌で感じるカイゼル。
「先程、陳謝させて頂いた『臭い』件も、彼等が関わっています。実は、過去に何度か、カウベル国の協力を仰ぎ、国の下水道の展開案もあったのですが、全て奴原に潰されています。今では、議案にすら挙がりません」
「……意味がわかりません。何故、そのような無意味な行動を……?」
カイゼルの疑問を、グレンは「アリスフィーナを振り向かずに」答えた。
「識る、覚悟はあるかい? カイゼル王子」
グレンの黒く深い瞳が、カイゼルの蒼い瞳を捉える。
「あります。なので、教えて下さい」
帝国の「異端児」は振り返った。「永遠」は静かに頷いた。
「民草に『自分達は下々の者だ』と、刷り込む為だ。ただ、それだけだ。その上で『誇り』を忘れるな、と」
カイゼルの蒼い瞳が凍り付いた。
「で、では……あの、お腹を空かせた……可哀そうな娘も……!?」
「帝室を仰ぐ、文民統制の為には、『貧民が必要』だからだ」
カイゼルの中で、また一つ「常識の枠」が壊れる。
「馬鹿な! 元老院の『権威』を保つ、ただ、それだけの為に、偉大な先達や、臣民達を、帝室を、歴史を、国の在り方を、たくさんの家族を……生贄に捧げているというのか……!」
皇帝の名を冠する青年は「皇気」を迸らせ、拳を強く握りしめる。
「私は……認めないぞ……そんなもの……クソ食らえだっ……! 畜生がっ!」
カイゼルの目から、涙が滝の如く流れ出す。
アリスフィーナが、背中から包み込むように抱き締める。
「グレン様、ありがとうございます。お国の恥を晒して、この子の成長を促して頂いて……」
「いえ、こちらこそ。貴女様と踊れたばかりか、他国の為に、こんなにも心を砕いてくれる『本物の皇帝』に出会えたのですから」
カイゼルは、口を真一文字に結んだまま、とめどなく涙を流す。
アリスフィーナはその姿に、フェルディナンドの墓前で、懸命に涙を堪えていた、5歳の少年を想い重ねた。
ラーナは貰い泣きで、レナードの胸に顔を埋めた。
レナードは「うちの若旦那を、そんなに泣かせないでくれ!」とグレン王子に言葉を投げた。グレンは「すまんすまん! だが、これが現実だ!」と、返す。
アリスフィーナは溜息と共に、ソファに深く沈み腕を組む。
「どうせ今の『元老院』は、ぶくぶくに肥え太った商人とか、皇帝を輩出したことがない王家とか、第一旅団の団長とか、帝国教会の教皇とか、ランダメリアの間者なのでしょう?」
「驚きました。見てきたのですか? その通りですよ」
「浅はかだと言っているのです、もっとこう、隠し方があるでしょうに……」
「むしろ、隠す必要が無いのです。それだけ、腐敗しているという事です。私も、カウベルに生まれたかったですよ……本当に……」
ラーナがカイゼルに走り寄り、涙を拭う。
アリスフィーナは、嫌悪感を露わにして続けた。
「全く自分達の国を、うんち臭くして支配力強化とか……『そこまでやるぞ』という意志表明は解りますが、頭が悪いというか、稚拙というか、判断基準が狂気の沙汰です。昔の方が、全然清潔でしたよ……。よく今まで、伝染病で滅亡しませんでしたね」
「同感です。ですが……」
「その稚拙さも、200年以上も続けば『伝統』になる……馬鹿馬鹿しい……」
「一番の問題は、王家も民も、それを、自然に受け入れているところです」
「ええ、大衆意識というものは、一足飛びに変えられるものではありません。例え強引に変えられたとしても、いずれ綻びから決壊します。方向性を定めて、然るべき手順を踏み、時間を掛けて、正してゆかねばなりません……」
アリスフィーナは、眉間に皺を寄せた。
「そして、その旗を掲げる者こそが……」
「ありがとう、ラーナ。もう平気……」
「たまには坊ちゃまも、爆発しないと、ですね」
感情の大波が収まったカイゼルが、グレンに頭を下げる。
「教えて下さって、ありがとうございました。ようやく整理が付きました」
「そうか。まあ、私もこの国では『異端児』だからな。何もかも、ぶちまけたかったところだよ」
そう言うとグレンは豪快に笑う。
「で、グレン様、大元の本題に戻りますが。私達に、何かご用事だったのでは? まさか愚痴りにきた、わけもないでしょう」
グレンは姿勢を正し、アリスフィーナに向き合った。
「アリスフィーナ様は、明日、皇帝陛下と謁見なさると耳にしまして」
「ええ、その予定ですが……? 終わったら帰りますけれど」
「その、皇帝陛下を……いえ、クワイアを、どうか、助けてやってはくれませんか!?」
「助けるとは? 具体的に何からです?」
「アイツ自身からです。クワイアはまだ33なんです……なのに、あんなに……!」
皇帝の実年齢を耳にした、アリスフィーナ以外の者は、驚きを隠せない様子で目を開く。
「ラディウス家とアーヴァイン家は、足の引っ張り合いの七王家の中でも、唯一親交があった家同士でした。私は三つ年嵩で、子供の頃はよく遊んでやりました。ですが、10歳を迎える前に、皇帝継承を元老院から指名され、家から遠ざけられ、今や……」
項垂れて、肩を震わせるグレン。彼を見定めるように、半目になるアリスフィーナ。
「『元老院』から、ではなく『アイツ自身』から、とは。些か抽象的で、何とも……」
半ば、嘲るような口調のアリスフィーナ。
「例え、元老院の操り人形だとしても、アイツの王気は本物です。この国を正しく導けるのは、彼しか有り得ません。それに、貴女の言葉ならば、クワイアの胸に響くかもしれません」
「私は、そういう貴方様こそが、皇帝に相応しいと思うのですが……」
「いえ、私には力不足でしょう。それに再び、内戦なんて、それこそ本末転倒です」
「言われてみれば、それもそうですねえ」
アリスフィーナの口調は、明らかに、グレンを煽る物言いであった。
「弟なんです……血は繋がらずとも、弟なんです! 私は兄として、弟を守りたいんです! 故に何卒! 力をお貸しください!」
皆、口を噤んで、アリスフィーナとグレンを見守った。
顔を顰め、眉を吊り上げていたアリスフィーナは、「だはぁ~……」と、大きく息を吐いた。
「モゥ……ずるいですよ……その頼み方は……わかった、解りました! ですが、私は所詮外国人ですから、何ができるかなんて、保証はできませんよ……。これなら元老院を潰してくれ、の方がよっぽど楽で簡単ですよ……」
カイゼルの顔に笑みが戻った。ラーナはレナードと微笑み合った。
「ありがとうございます、アリスフィーナ様! どうか、良き、きっかけを与えてやって下さい……!」
その時ノルンが部屋に戻ってきて、アリスフィーナに、報告をするように耳打ちをする。
「……そうですか、解りました。ご苦労様でした」
ノルンは一礼すると、一緒に運んできたワゴンから、紅茶を淹れ皆に振る舞う。
「……元老院、ですか……様変わりしたものですね……昔は、ただの老人会だったのですが……」
「へ……?」
グレンが一瞬、呆けた顔をする。紅茶を静かに啜りながら、アリスフィーナが片目を瞑る。
「現役を引退した、皇帝やら家臣や騎士が、寄り集まって『わしらめちゃがんばったのう』『そーやのうーようやったわー』って言いながら、茶菓子食べたり、騎士将棋したり、飲み会したり……」
「な、なんか凄く平和だな……」
レナードが半笑いになる。
「確かに、若い世代へ、国の治め方、皇帝の在り方とか、帝室選定、助言やらはしていましたけれど、その程度でしたね。平和なものでしたよ、本当に」
話している間に、何かを思い出したのか、アリスフィーナの目が吊り上がる。
「私も幾度となく、宴会にお呼ばれしましたが、いぃっつも、お尻触られていましたよ……『アリスの尻は若返るー!』とか何とか。時代が変わっても、何故か、それだけは変わらなくて……! 助平ジジイ共!」
「アリス様、モテモテですね!」
ラーナが邪気無く笑う。
「でも、お年を召しても、レオン様は素敵な御方でしたので、わざと隙を作って、沢山触らせてあげました!」
アリスフィーナは頬に両手を当て、腰をくねらせた。
「あああっ!? 千年帝が尻っ!? ええええっ!?」
グレン王子、本日一番の驚きである。
「母上。人の夢を壊すのは、やめて差し上げて下さい」
「若かりし頃、初めてお会いした時には、真顔で『やぁ! 君が、アリスフィーナか! 美しいな! 尻を撫でさせて貰ってもよいだろうか!?』と、言われた時は、流石に、その場で引っぱたきましたが。今となっては、良い思い出です! ほっほっほっ!」
「えぇ……ですが、貴女様が言うのであれば、本当なのでしょうね。伝説の英雄譚ではなく、妙に現実的で、何故か生々しい……」
グレンが、複雑な表情ながらも、納得したように言った。
「あの頃の帝国……また取り戻したいものですね……」
「はい……私も子供達には、少しでも、良き帝国を残してやりたいのです」
「ええ、それは全く以て同意見ですね………えっ? 子供達? グレン様は……ご結婚なされて……?」
途中までは良い話だったが、急に青ざめるアリスフィーナ。
「はい、息子が二人に娘が一人います。妻、共々私の宝です!」
活き活きとした顔のグレン。
「あっ……」
ノルンが珍しく動揺する。
「あなた……」
ラーナがレナードの手を取り、こっそりと部屋を出ようとする。
「えええぇぇぇっー!? ちょっと好きになり始めていたのにぃぃいっ! 出会って三刻しないうちに失恋したぁぁああっ! うわぁああぁぁぁん! モゥやだぁっ! カウベルに帰るーっ!」
「母……上……ふっ……ざ、ざんねん、でしたね……」
口をムズムズさせながら、懸命に笑いを抑えるカイゼルであった。
【12】
クワイアは夜が嫌いだ――
目を瞑ると闇に包まれるからだ。
あの頃の記憶は、とうに忘れてしまったが、闇の中にいた事は憶えている。
逆に云えば、それしか憶えていない。
果たして自分が、何だったのか。
兄と慕ったグレンは憶えている。
どう慕っていたかは憶えていない。
だが皇帝には過去など不要。
そう教えられてきた。
誰に教えられてきたのかは憶えていない。
恐怖を感じる事は無くなった。
皇帝に恐怖は不要だからだ。
今では恐怖も憶えていない。
何を食べても味がしない。
いくら飲んでも酔う事は無い。
意識が途切れて闇に包まれるだけ。
他人が、美味そうに食事する姿を観るのは好きだった。
自分も、食べている気になれたからだ。
他人が、酒を飲んでいる姿も好きだった。
自分も、美味そうに飲んでいる気分になれたからだ。
だから今日は楽しかった。
だが皇帝には心など不要。
また闇に戻るだけ。
くらいやみに もどるだけ。
だから、クワイアは夜が嫌いだ――
「『解りました!』なんて……言ってみたものの……一体、私に何ができるのでしょうか。そもそも、何をしたらよいのでしょうか……」
昨日あの後、逃げるように宿に戻り、泣きながら自棄酒に浸り、今朝は、最悪の目覚めだったアリスフィーナは独り言ちた。
常時術毒浄化を再起動させて、二日酔いは飛ばしたが、気分的に最悪なのは変わりがなかった。
「まさかの無計画とは、実に母上らしくて好きですよ」
「だって……あそこで、ああでも言わないと、帰してくれそうになかったですからね……」
カイゼルは、唇を尖らせ口籠る母親を、冷ややかに見下した。
「本当は……?」
「……弟を想う兄の気持ちにキュンキュンして、何も考えずに『はい』と、言ってしまいました……反省はしていません……」
耳を垂れ下げて、色々と白状するアリスフィーナ。
「まあ、相手はあのクワイア皇帝ですからね。理論武装で挑んでも、跳ね返される可能性が高いでしょう。で、あれば、色々考えるだけ無駄というもの。母上は現場の状況を観て、直感的な閃きで、何とかしてしまう人種ですから、もっと自信を持って良いのでは?」
(ああ……何故でしょう……愛する息子に褒められて、励まされているのに……全くそんな気がしません……)
「それは、そうです。褒めても、励ましてもいませんから」
「アンタ! 読心の魔眼も無いくせに、心の声と普通に会話しないで下さい!」
「はいはい、朝の親子漫談はそこまでにして、朝食ちゃんと食べて下さいね、本場のヴィルストが冷めてしまいますよ」
ノルンが、焼けた帝国パンを皿に並べながら、割って入った。
アリスフィーナは仏頂面で、帝国パンにカウベルバターを塗り、ヴィルストを挟んでかぶり付くと「あ!美味しっ!」と言いながら、温めた乳をぐいぐい飲む。
そんな母親を眺めつつも、全身に走る凄まじい筋肉痛に耐えながら、静かに朝食を食べるカイゼルであった。隣のテーブルでは、レナードが「ぁ痛てでっ!」と叫び、慌ててラーナが駆け寄る。
(めっちゃ……いたい……)
朝食を終える頃には、アリスフィーナも「それもそうですね。あれこれ考えても、仕方がありません。所詮なるようにしか、ならないのですから」と、勝手に落ち着いた。
宿から帝城エルスリードまでは、二刻以上かかるので、一行は早目の支度に入る。
アリスフィーナは窓際で座り、外の景色を眺めていた。
ノルンは、舞踏会の時のような早編みではなく、ゆっくりと主人の髪を梳かす。
アリスフィーナは、昨日のノルンの報告を思い出していた。
『宮仕えの上級女官の話では、クワイア皇帝陛下は、毎日の睡眠時間が三刻程度だとか。常に唸っていらっしゃる、との事です。食事も殆ど、大量にかき込んで酒で流すそうです。お妃様のご予定は、まだございません。御本人が、拒否していらっしゃるようです。剣術の稽古は、どれだけ多忙でも、欠かさないそうです。本日集まったのは、このぐらいです』
「……………………」
ノルンが、公的外交用の結い上げをする直前――
「ああ……別に、私でなくともよかったですね……」
「アリスフィーナ様、何か?」
「ノルン、済みませんが、髪は自宅用の『ふんわり三つ編み』でいいです。衣装も私服にします。ラーナ、お使いをお願いします」
「はぁい! アリス様、何を御入用ですか?」
「帝国紋章旗を、一旒 、綺麗で立派な物を。大きさはこれぐらいで……」
アリスフィーナ一行は、やはり昨日と同じ、四頭引きの馬車の迎えで、帝城エルスリードへ向かった。
カイゼルは、窓から街並みを見つめる。
昨日の話を聞いた後だと、尚更この歪な支配体制が、色濃く感じられた。
濁った目の国民も、生きる屍にすら見えた。
『……本当に救うとは、この状況を変えてあげる事です。ですがそれは、この国の人々がすべき事。残酷なようですが、それを成すのは私達ではありませんよ』
「…………」
カイゼルは眉間に皺を寄せ、深く息を吐いた。
(解っていますよ……)
エルスリード城――
かつての世界の中心だった場所。
ここから、大陸全土を掌握していた場所。
しかし今は、その栄光も無く、落日の象徴として聳え立っていた――
アリスフィーナは、ノルンとラーナを馬車に残し、御者に心付けを握らせた。
「あなた……お気を付けて下さいね……」
「ああ。ラーナも」
「アリスフィーナ様、御無事のお帰りを」
「寝不足の坊やと、お話をしてくるだけですよ」
世紀の大古城を見上げるカイゼル。
(聖都と真逆だな……)
「大きいな……やはり……」
昨日とは違い、正式な礼服と、腰に長剣を佩いたレナードが呟いた。
天井、柱、何もかもが大きく、高く、荘厳であった。
城門を越えた「柱の間」では、当時はどのように建造したのか、図りかねるほどの柱が建ち並んでいた。赤い北方絨毯には、巨大な紋章が描かれている。
巡回の騎士、書類を持って行き交う文官、人の出入りも多く、古代の城が、まだ息づいているのが感じられる。
だが、その生命の息吹すら覆い尽くす「伝統と格式」の圧は、歩いているだけでビリビリと肌に刺さる感覚がした。
(成程……重圧感が凄まじいな……息苦しささえある……)
カイゼルは目を走らせ、観測を続けた。
「歴史的価値は、相当なものですよ。おそらく建造期間を含め、2000年は経っているでしょうから。目立った外傷も少なく、本当に堅牢です。人の手で造ったとは思えぬほどに……」
過去、何度も訪れたアリスフィーナが解説する。
一行を案内している上級騎士が、誇りに満ちた表情で頷く。
(黴臭さも、相当なものですけれどね……)
「ぶぇくしょぃ!」レナードがくしゃみをした。
巨大な螺旋階段を登りきると、休息所があり、ここで案内役が交代となる。
上級騎士が、旅団騎士に騎士の礼をとる。
「交代、お頼み申す!」
「うむ。ご苦労様でありました。客人は任されよ」
上級騎士が下に去ると、旅団騎士は、椅子に座り、茶を飲んでいるアリスフィーナに跪く。
「ジークルーネ大公閣下。私は、帝室直属第二旅団所属、アルヘイムと申します。ここからは私と部下が『護衛』致します」
「まぁ……グレン様がよこして下さったのですね…………ううぅっ……!」
「大公閣下? 如何なされた!? 長い移動でお疲れですか!?」
カイゼルが割って入る。
「いえ。昨日、踊り過ぎたのと飲み過ぎたので、少々『腰』に来ているだけですから。どうか、お気になさらずに」
レナードが顔を背ける。
アリスフィーナの耳が逆立つ。
「そ、そうですか。ご無理なきように。副長からは、最大級の敬意を払うよう、仰せつかっておりますので。何でも、遠慮なくおっしゃって下さい」
(ああっ……グレン様……! うぇえぇぇん!)
「しかし『護衛』、ですか? 穏やかではありませんね」
カイゼルの問いに、アルヘイムは目を細めて、周囲を窺い声を落とした。
「『元老院』が、何を仕掛けてくるか解りませんからね。念の為の用心です。グレン副長が言っておられました。皆様方は、この国の希望であると……!」
その言葉を聞いたアリスフィーナは、「失恋の哀しみ」を乗り越え、姿勢を正す。
「いいえ。そうではありませんよ、アルヘイム様。帝国の真の希望は、あなた方達自身、なのですから……!」
アルヘイムはすっくと立ち上がり、胸に手を当てる。
「然り! そうあるべく様、精進と志を貫きます! 帝国の為に!」
カイゼルは、胸の熱くなる想いで頷いた。
その後のアルヘイムの案内で、塔と塔を繋ぐ、大きな渡り廊下に出る。
「ここは『皇帝殺しの橋』と呼ばれております。新生エルスリードの時代に、実際にここで、皇帝が暗殺されました。それから更に二度、その悲劇が起こっています」
「ですって、カイゼル。貴方も気を付けなさいねぇ……!」
「私は『ねとねと』している方ですから、多分大丈夫ですよ」
渡り廊下の先頭を歩く、アルヘイムが口を開く。
「皆様に、一つ謝罪せねばなりません。謁見の間がある『天守閣本丸塔』には、直通路がありまして、そこは外部の者は入れさせない、しきたりがございます。こんなにも歩かせる事になってしまい、大変申し訳ございません」
「ええ、知っています。この長い距離を歩かせる事により、城の大きさと厳格さを見せ、権威を示しているのです。まあ、過去の皇帝の中には、移動を面倒臭がって、一階の本殿大広間を、謁見場とした時代もありました」
アリスフィーナが注釈を加える。
「しかしなんでまた、こんな高い場所に、謁見の間を設定したのでしょうか?」
「それはですね、レナード様。統一王朝の時代からです。『天上の御人である《 帝 》は天に在りて、地に伏さず、遍く万人を、眼下に於く成り』という思想背景からですよ」
「成程……厠に行くのも大変そうだ……」
レナードの言葉に、一団から笑いが漏れた。
暗い通路を抜け、アリスフィーナ達は、いよいよ「天守閣本丸塔」へと辿り着いた。
ここから、最上階の謁見の間を目指す。
カイゼルは目を細めると、塔全体から「澱み」のような、何かが立ち込めているのを感じていた。
それが「よくないもの」と、はっきり意識できるほどに。
「カウベル国使節団、御一行をお連れした。皇帝陛下との謁見の儀、お取次ぎをお頼み申す」
天守閣本丸塔、謁見の大広間「天上祭儀郭」の大扉がゆっくりと開かれる。
カイゼルは大きく息を吸った。
レナードは飛び道具に備え、いつでも二人の盾になれる位置に着いた。
アリスフィーナの表情は、窺い知れない。
広間には、紅い絨毯が敷き詰められており、金地の通路で区切られていた。
帝室直属第一旅団の衛兵が居並び、広間の両脇には、帝室七王家の者達が、豪奢な椅子に座している。
そして一番奥、三段上の帝座に、クワイア・ラディウス・エルスリード・ヴァン・エルベリオンが肩肘を付いていた。
『カウベル王国使節団、ラ・アリスフィーナ・ジークルーネ・エル・カウベル大公爵、ご到着』
名乗りと共に、アリスフィーナは静かに歩み出した。カイゼルとレナードもそれに続く。
(来たか……アリスフィーナ様……!)
上座にいるグレン王子が、アリスフィーナを見留める。
筆頭ラディウス家、アーヴァイン家、ヴァイトリング家、エクスタイン家、ドルトリンド家、アルクレイス家、オベリア家――帝室七王家の視線の中、アリスフィーナはゆっくりと進んでゆく。
嘲り、嫌悪、驚き、羨望、好奇、嫉妬、蔑視、欲望、恐怖――無遠慮な意志の槍が、アリスフィーナを貫く。
(……皇帝との謁見に、あの恰好とは……はてさて……)
(……「大娼婦」とは良く云ったものですね……本当ですわ……)
(……500年以上、生きているという話だが……エルフ共より長い耳……)
「……………………」
クワイア皇帝は、睨め付けるような視線で、アリスフィーナを見やった。
「クワイア皇帝陛下。ご機嫌麗しゅう。アリスフィーナ、ご挨拶に伺いました」
アリスフィーナは、晩餐会のようなカーテシーではなく、淑女の略式礼で済ませる。
彼女の装いは、草色の肩を露出させたワンピースで、腰にはありふれた婦人用ベルト、足首まであるスカート部は、締まるように窄められており、横には大きなスリットが入っていた。
下半身の線が浮いて、取り分け、腰をベルトで絞った分、臀部が目立つ仕立てになっている。
町娘が履くような動きやすいパンプスと、装飾品はこれといって無く、白い羽根扇を手に持っているぐらいであった。
「ほう! 本日の装いは、やけに軽装であるな! まっこと其方は、様々な顔を見せてくれるよのう!」
クワイアは、落ち窪んだ目をギラリと光らせた。
「はい、陛下。本日は私服でお邪魔致します。ですが、これは帝国との思い出がある、私にとって、少しだけ特別な私服なのですよ。お気に召しましたでしょうか?」
アリスフィーナはそう言うと、まるで自慢するように、軽やかに一回転してみせる。
(昨日、お話された……老人会の……?)
グレンが笑みを漏らす。
「そうさのう! 些か刺激が強いが……だが、悪くは……ない!」
皇帝は剣呑な光を瞳に宿し、身を乗り出しアリスフィーナの下半身を凝視する。
「貴様! 皇帝の前で、道化の真似事なぞ無礼であろう!」
グレンと通路を挟んで向こう正面の、初老の男が突っ立ち、アリスフィーナに指を差す。
その軍服には、びっしりと勲章が飾られていた。
後ろに控えていた、カイゼルが目を走らせた。
(……第一旅団の団長か……「元老院」の一員らしいが……成程、立派な勲章だ……)
「それに、その破廉恥極まりない恰好。格式あるこの場で、見るに耐えません」
オベリア家の席の貴婦人が、アリスフィーナを睨み付け批判する。
「皇帝と帝室七王家に対して、礼を弁えぬその物腰は、如何なものかと。カウベルの方々よ」
エクスタイン家からも声が上がる。
手を後ろに組んで、どこ吹く風ぞ、と云わんばかりのアリスフィーナ。
直立不動のレナードは、その態度を見て鼻で笑った。
クワイア皇帝は、軽く手を上げ制し、深く息を吐いた。
その様子を、アリスフィーナはじっと見た。
(昨日とは、全く様子が異なっています……お疲れであったでしょうが、とても楽しそうにしておられた……。やはりこの場……この圧迫感……周りの悪感情……)
「のう、アリスフィーナ殿よ……カウベルの姫よ……」
「はい、何で御座いましょう? 皇帝陛下」
小首を傾げて、言葉を待つアリスフィーナ。
「我の側室にならぬか?」
「はぁ、側室……ですか?」
皇帝から、まるで遊びにでも誘うかの様な言葉に、きょとんとするアリスフィーナ。
一瞬の静寂の後、騒然と色めき立つ七王家と大臣達。
腕を後ろに組み、微動だにしないカイゼル。
嘲笑、怒りの声、反対意見、嘆きの声、皇帝批判、帝国の名誉を語る声が噴出した。
この展開は予想していなかったグレンが、部下に目配せをして、第二旅団を集める。
レナードは、混乱に乗じての不意打ちに備え、背後に全神経を集中させた。
アリスフィーナはクワイアを、目を凝らして観た――
(……悪意も無い、邪気も無い、それどころか精気が無い……!)
クワイアは濁った目で肩を落とし、じっと、アリスフィーナに視線を注ぐ。
(……幼い頃から、「元老院」に強いられてきた「尊き《 帝 》の血脈」……毎日、毒や暗殺者に怯えながら、選択肢も何も無い、駒以下の他人に定められた人生……)
アリスフィーナは、無意識に拳を握りしめていた。
(……近代の皇帝達は、皆、このように育てられて……洗脳されて……何と、憐れな……!)
周りの喧噪が、危険な程に熱を帯びてくる。
(……辛い時代もありましたが、私が識るかつての皇帝達には、理想があった。情熱があった。国を良くしたいという、欲望と夢があった……! だのに……!)
アリスフィーナは、不意に溢れた涙を拭った。
カイゼルが半目になり、険しく眉を吊り上げた。
(……やはりこのお方は……古き因習に囲まれて、どうしようもできず、辛くて仕方がないのに、その辛さが何なのか理解できず、自分の助け方も知らず、心と魂が膿んでおられている……!)
アリスフィーナは、口を真一文字に結んで、もう一度クワイアを「診た」。
(……この子は、泣き方も解らずに、不安に苛まれ、呆然と立ち尽くしている子供だ……!)
第一旅団の騎士も、団長の周り集まってきていた。
アリスフィーナは静かに目を閉じ、深呼吸を一つ――
「ほっほっほっほっ! 陛下はまだ御正妻もおられないのに、側室が先とは、お気が早うございますわね!」
アリスフィーナの良く通る声に、一瞬辺りが静まり返った。
クワイアは目を上に向け、顎に手を当て、何やら考える仕草で――
「……言われてみれば、確かにそうよな。ちとばかし、気が急いたか?」
「そうですよ! それに、私のような尻の軽い婢女には、古式床しき伝統が息づく、ここの空気が、少々重とぅございますぅ……」
羽根扇を広げて、大げさな振る舞いで「なよなよ」と身体を揺らす。
その仕草を見て、クワイアは口の片端を上げる。
「将来、側室になるのでしたら、下賤な私でも、気軽に吸えるような空気が、欲しゅうございますぅ……」
「よよよ……」とばかりに、涙を拭く素振りをするアリスフィーナ。
アリスフィーナとクワイアの、寸劇のようなやりとりが始まると、皆、怪訝そうに様子を窺う。
「古今無双の皇帝と云えど、なかなかにどうして……枷が重く、そして堅くてな! 疲れて、風を扇ごうとするも、扇子すら重いときておるのだ!」
クワイアは自嘲気味に『にぃ』と、嗤った。
アリスフィーナは、興が乗ってきた様子のクワイアを見て、薄く微笑んだ。
「私などが皇帝陛下の側室など、かようなお引き立ては、もったいのぅございまする。私のような者が御為に出来る事は、扇がずとも、せめて……お風通しを良くする事ぐらいしか……」
首を揺らして、羽根扇を口元に当て、目を伏せる。
「ほう、どのようにするのよ。やってみせい!」
「はい。このように――風塵よ、逆巻きなさい――」
――世界がアリスフィーナに応える
シュル……風がふわりと波打った。
「……!?」
皇帝の周りの空気が、にわかに回転を始めた。
やがて、クワイアを中心にして、風の渦は勢いを増す。
外套が、バタバタと激しくはためき出す。
アリスフィーナは、羽根扇で口を隠したまま、背筋を伸ばす。
その異常な様子に、皆、我を忘れていたが、第一旅団長が声を張り上げる。
「で、出合え! 出合え! 皇帝が襲われておるぞ!」
レナードが振り返り、長剣の柄に手を掛ける。
グレンが割って入ろうと動く。
「おおおおおおおっ!?」
クワイアの周りの風は、更に回転を増し、凄まじい風圧を生じさせた。
調度品が揺れて倒れ、カーテンは、千切れん勢いで暴れ出す。
全ての魔導灯が激しく明滅し、弾けて四散した。
周囲は一瞬で混乱状態に陥り、悲鳴と怒号が響き渡る。
快晴だった帝都の空が、急激に厚い雲に覆われ、エルスリード城の直上で、激しく渦を巻いた。
「あれ……? さっきまで晴れていたのに……?」
馬車の客車を降りたラーナは、空を見上げて叫び声を上げる。
「ラーナ! どうしましたか!?」
ノルンも慌てて外に飛び出す。
ラーナは地面にへたり込んで、空を指差す。
「なっ……あれは!」
帝都全体に雲の影が降り、強風が吹き荒れる。
雲の渦は速度を増し、その中心から、雲の筋が城へと伸び出した。
その日、ノイエ・シュタットの帝国民は、天から「風の龍の尾」が降りてくるのを目撃する。
「止めなくていいのですか?」
「止めても無駄でしょう。どうせ」
「良く解っておりますね。流石、私の息子です」
口元の羽根扇を、水平に前方へ構えた。
クワイアを抱いた風の渦が、突如として逆回転に変化した。
慣性が付いた大気と激しい摩擦を起こし、火花と稲妻が幾重にも走る。
大気が劈く金切声を上げた。
「これは! この、魔導は……!」
クワイアの重い外套が飛ばされ、風の渦中で舞い踊る。
第一旅団の騎士が、アリスフィーナを取り囲もうとするも、風圧に飛ばされ誰一人として近づく事はできなかった。
悲鳴を上げて、逃げ惑う王家の人々は、途中から足が鉄のように重く、全く動けなくなっている事に気付き藻掻く。
カイゼルとレナード、グレンは風圧に飛ばされる事なく、自由に動けたが、その場で事の顛末を見守った。
アリスフィーナは祈る――
この子を縛る、重い鎖と枷よ――
古き妄執と、声なき嘆きと共に――
空の彼方へ、飛んでゆけ――
その深く蒼い瞳が、青白い炎を噴き上げるが如く煌めき、構えた羽根扇を、天へと扇ぐ――
《 つ む じ か ぜ 》
凪ぎが在り――大轟音と共に「天上祭儀郭」の天井が吹き飛んだ。
天と地が繋がり、尖塔、外壁、その全てを宙空へと巻き上げる。
竜巻の中心にいるクワイアは、頭上を仰ぎ、凄まじい光景を目にした。
真空の刃が、瓦礫も何もかもを斬り刻み、塵と化して天に吸い込まれて消えてゆく。
アリスフィーナは、羽根扇を納刀するかの様に、振り抜いて畳んだ。
途端、何もかもが霧散し、雲も散り散りになり、風に流れて消え失せた。
秋晴れの青空が帝都に蘇る。
「まぁまぁ! なんて良いお天気でしょうか! 風も気持ち良いですね!」
天守閣本丸の最上階の全てが、床とわずかな壁を残し、綺麗さっぱりと無くなっていた。
突如として訪れた平穏に、人々は動く事ができなかった。しかも、暴風で飛ばされた者は、誰一人としていなかった。
アリスフィーナは、王冠がずり落ちて、へたり込んでしまったクワイアに向き直った。
「クワイア皇帝陛下! すっかりここは、風通しが良くなりましたね! もう少しこの国の風が、心地良く、そよぐようになりましたら、側室の件、改めて考えてみますわ! では、また、美味しいお食事期待しております! ご機嫌よう!」
アリスフィーナは、軽やかに淑女の礼を捧げると、踵を返した。
彼女は、呆気に取られるグレン王子に「グレン様……あのっ……こんな感じで、如何でしたでしょうか……? それでは、ご機嫌よう……」と、別れを告げた。
カイゼルとレナードの間をすり抜けざまに「さっさと逃げますよ!」と小声で囁くと、足早にそそくさと、来た道を返す。
慌てて、続く二人。
「あ、皆様、ご機嫌よう……ご機嫌よう……ご機嫌よう……ほほほ……!」
アリスフィーナは、愛想笑いを振り撒きながら、「大扉らしきものがあった跡」で振り返り、頭を下げると階下へと逃げ込んだ。
後ろを向いて、追手が無いのを確認すると、カイゼルとレナードの手を取り、馬車まで瞬導転移する。
「うぇあっ! アリス様!?」
「アリスフィーナ様!?」
突然出現した、アリスフィーナに驚く二人を引っ張り、自身も馬車の中に駆け込む。
「乗って下さい、乗って下さい! 御者様! 出して下さい! 全速力でーっ!」
こうして、エルベリオン皇帝、クワイアとの謁見が終わった。
【13】
呆けた顔で青空を見つめる――
古き皇帝を宿命付けられ「まっくら」だった彼の少年時代に、一陣の風が吹き抜け、闇を祓う――
「……空が……広い…………」
何処からともなく、帝国紋章旗が舞い落ちて、皇帝にふわりとかぶさった。
旗を手に取り、まるでそれを「初めて観た」ように《 双頭の金色鷲 》を見つめるクワイア。
不意に目の前に、謁見の時と同じ衣装を着た、アリスフィーナの後ろ姿が浮かぶ。
クワイアは、ゆっくりと立ち上がった。
彼女は腰に左手を当て、右手を大きく振っていた。
声は聞こえなかったが、口元に手を添え、誰かを呼んでいるようだった。
アリスフィーナは振り返ると、慈愛の籠った眼差しでクワイアに微笑み、通り過ぎて消えた。
クワイアが正面に向き直ると、アリスフィーナが呼んでいた方向から、大勢の男達が歩いてくるのを見留めた。
それは、歴代エルベリオンの皇帝達であった。クワイアには何故か解った。
不思議な光景だった。
アリスフィーナが、かつて出会った、二十余名の皇帝達――
…………リウス
……アルバート
ヒルデブランド
ジーフリト
コンラッド
マキシミリアン
ヴォルンガング
フリードリヒ
アインバッハ
ナイトハルト
そして、レオンハルト――
彼等は一人、また一人、クワイアの肩に手を置き、通り過ぎては消えてゆく――
千年帝が、最後に振り向いて笑い、姿を消した――
「……………………」
幻、なのであろう、だが彼にとっては、どうでもよかった。
「ふ……ふははは! ……伝説は誠であったわ……《 永遠のアリスフィーナ 》!」
皇帝は吹き飛んだ外套の代わりに、帝国紋章旗を纏う。
「クワイア! 無事か!?」
グレンが弟に駆け寄る。
「どうもこうも、見ての通りよ! 大事ない!」
クワイアが兄に笑みを向ける。
「お前……クワイア……だよな?」
「それ以外に、何に見えると云うのだ。異なことを申す兄だな!」
グレン王子は、涙を拭う。
「そうだな。おかしな事を言った……!」
「皇帝! 今すぐにカウベルに挙兵を! このような暴挙、万死に値する!」
第一旅団長が、クワイア皇帝に詰め寄った。
「よい! 此方が先に無礼を働いたのだ、それに……黴臭い天井と城壁を引き換えに、伝説の大魔導術を目の当たりにできたのだからな! 安いものよ!」
「皇帝陛下! なりませぬ! 彼奴等に『伝統と格式』を教え込んでやらねば!」
「……我は誰そ? 申してみよ。大臣、第一旅団長よ……」
クワイアの王気が膨れ上がり、焔の様に迸る。
「……エ、エルベリオン帝国……皇帝、陛下に……御座います……」
「で、あれば、我が『よい』と申したのだ。不服とあらば、決闘を申し入れい!」
クワイア皇帝の瞳がギラリと光る。
「め、滅相も……御座いません……」
「それに其方らも見てみよ。この広き空を。帝国の空はこんなにも広いのだ! いやはや愉快! はっはっはっはっ! 痛快である!!」
その日、兄弟は夕食を共にした。
肉を一口食べたクワイアは、驚きに目を開く。
味が、したのだ――
ヴィルストをナイフに刺し、まじまじと見つめる。
口に頬張り、噛みしめる。
肉の油と旨味、香辛料の味が口いっぱいに広がる。
酒を、一口飲む。
赤ワインの芳醇で強い酸味と、渋味が肉の油と融け合い、胃の腑へ落ちる。
「美味い……」
クワイアの目からつぅっと、涙が流れた。
「そうか……良かったな。クワイア……」
「帝国の料理は……美味いな……!」
「なにせ、アリスフィーナ様が、唯一褒めていたからな」
「くくく……そうか……それは重畳である!」
クワイアは眠った。
大口を開けて、鼾を掻いて。
翌日の昼まで寝ていた。寝小便を垂れる程に。
クワイアは、夜を、少しだけ好きになれた――
【エピローグ:王の名代として、信じて外交に送り出したら、先方様のお城の一番大事な場所を、魔導術で吹き飛ばした元教師が、失恋して帰ってきたんだが? 俺、どうすればいい?】
一週間後――カウベル王国「天輪城:セラフィ・ベル・ロンド」
ラ・アリスフィーナ・ジークルーネ・エル・カウベル大公は、「王の館」の執務室にいた。
ブレナハンは、レナード書記官から受領した「外交記録1305:エルベリオン帝国ー皇帝晩餐会案件」を読み終えた。
アリスフィーナの対面のソファに座って、居心地が悪そうにしているレナードに目をやった。
そして、もう一度最初から読み始める。
読み終えた。
顔を上げた。
「なにこれ?」
「レナード様がご提出された、外交記録ですよ」
アリスフィーナが、優雅に紅茶を啜りながら答えた。
「それは解っておる。内容を問うておるのだ。様々な地の詳細な様子、聖王陛下との会談、アリストの民達の暮らし、北の情勢――成程、詳しく書かれておる……」
ブレナハンは、レナードに、如何ともし難い視線を向ける。
「レナード。何故、貴様の恋愛物語まで書いてあるのだ。しかも、ロマンス風味に」
「いやぁ……嬉しかったもので……あ、来月結婚します!」
頭に手をやり、のろけるレナード。
「それは、めでたい事だが――報告書にいちいち書かんでよい。まぁよい……修正も面倒だ」
経済大国の国王が、王族の姫君をジロリと睨む。
「先生……いや、特別外交次官殿、北方へは何をしに?」
「クワイア皇帝陛下の、晩餐会に出席する為です」
涼しい声の特別外交次官。
「で?」
「晩餐会では、お料理をとても美味しく頂きました」
「で?」
「舞踏会では、楽しく踊りました」
「で?」
「哀しい別れがありました……」
「で?」
「皇帝陛下、並びに帝室七王家の謁見に赴きました」
「で?」
「……………………」
特別外交次官は、目を逸らして押し黙った。
「答えよ」
「お城の風通しを、少しばかり良くしました」
「具体的に」
「天守閣本丸を吹き飛ばしました……」
「なんで?」
至極、真っ当な疑問である。
「何故、外国の食事会に招かれた者が、しっかりと楽しんだ後、相手方の城の、重要施設を破壊するのだ? 意味が解らん。狂っておるのか?」
「色々とあったのですよ……色々と……」
特別外交次官はかぶりを振る。
アリスフィーナの後ろに控えていたカイゼルは、後ろ手に組み、目を瞑っていた。
「事情はともかく、相手国に対して『開戦の意志有り』と、告げたのと同然ぞ。この始末、どう付ける!?」
アリスフィーナは腕を組むと、口を真一文字に結び、冷や汗をかきながら思案する。
「クワイア皇帝陛下が謁見の間にて、大勢を前に母上へ『側室となれ』と仰られました」
カイゼルが仕方なく助け舟を出す。
「……成程。先に侮辱を被ったのは『こちら』で、あると。それは彼奴等が悪いな。先生を相手に、命知らずにも程がある」
アリスフィーナの耳が逆立つ。
「だが、それだけで城を吹き飛ばすのか? 明らかにやりすぎだろうに。それに――」
ブレナハンは立ち上がり、アリスフィーナの前に、仁王立ちになる。
「特別外交次官の外交について、自らの発言・行動は国王の行為と同義であると、1064年に我が国の『法』で定められておる。つまりは、俺が城をぶっ壊した事になるのだ! そして、それをやらかした先生に、何の罰則も与えられん! 解りますか!? この意味が!」
アリスフィーナは、いよいよ、額の血管が弾けそうになっているブレナハンから、耳を垂れ下げて逃げるように顔を逸らす。
「カイゼル! お前はこうならんように、目付けとしておったのだろうが! 何故止めぬ!」
国王の怒りの矛先は、息子であるカイゼルにも向いた。
「御免なさい。王様。私も止めようとはしたのです……ですが、力及ばず……」
しゃあしゃあと、言葉を吐くカイゼル。
「!!?」
アリスフィーナは、顔を引き攣らせて(何いうてんの!? この子は!)と、目を剥いた。
「あー……すぐに使者をよこすか……いや、下手に謝るのも分が悪い……相手の出方を待つか……? 下手をしたら、先制で攻撃されかねん……。アンソワースに交渉に入って貰うか……時間が掛かるか……? 聖王陛下に頼む……迷惑は掛けられんか……うーむ……」
汗を垂らして、ぶつぶつと方策を考え始めるブレナハン。
その時、執務室の扉が開かれた。
「会議中、申し訳ございません。ブレナハン陛下。エルベリオン帝国より、緊急の魔導伝文が届いております」
「!?」
アリスフィーナ達は、エルスリード城から一目散に退散した後、宿へ戻ると、自国の馬車ごとカウベル近郊の国境に瞬導転移したので、高速の魔導伝文より先に帰国したのである。
伝令文官がつかつかと入室し、ブレナハンに書面を手渡す。
ブレナハンは書面を発止と掴むと、両手をやや震わせて目を走らせる。
一段と頭を抱えるアリスフィーナ。
「ふー……何とかなったか……」
ブレナハンは大きく息を吐くと、書面をアリスフィーナのテーブルに放り投げて、自席に深く座り込んだ。
カイゼルは書面を手に取り、瞬時に読み終える。
「母上。良かったですね。『天上祭儀郭』改築工事援助の御礼状が、グレン王子から届いておりますよ。それと、母上宛にもう一通」
「ほぇ……? グレン……様……?」
おそるおそる、顔を上げるアリスフィーナ。
やがて、口を「へ」の字に歪ませると、大きな瞳からぽろぽろと涙が溢れだす。
「ふぇぇええん! グレンざまぁああっ! うわぁあああん!」
突然号泣するアリスフィーナに、ブレナハンも伝令文官も「ぎょっ!」として驚く。
溜息を吐くカイゼル。
「まだ引きずっていたのか……」
レナードの呆れ顔。
「なにこれ?」
ブレナハンが、本日二度目の台詞を吐いた。
昼下がりの午後、アリスフィーナは、自宅の屋敷の中庭に出た。
自分が手掛けた、お気に入りの庭園である。
『――拝啓、ラ・アリスフィーナ・ジークルーネ・エル・カウベル大公爵様。あれから如何お過ごしでしょうか。貴女様の事ですから、毎日が輝く日々を、送っておられるのだと思います――』
花壇に魔術で軽く水を蒔いてやる。
水を浴びた花々が、陽射しを受けてキラキラと光った。
『――あれから、クワイアは、よく食べるようになりました。そして、よく眠るようにも。更に、以前よりも精力的に、皇務と政務に取り組むようになりました――』
蒼薔薇に囲まれたテラスに座ると、ラーナが紅茶を運んでくる。
来月に、レナードとの結婚を控えている彼女は、今、とても幸せそうだった。
『――まだ数日しか経っておりませんが、明らかに弟は、何かに目覚めた様子です。祭儀郭の修繕は後回しにして、国内の衛生問題を、緊急課題事案として、新たに議会を起ち上げております――』
カイゼルとノルンが、茶菓子を持ってテラスに向かってくる。
息子はこの三ヶ月で、随分成長したと、アリスフィーナは思った。
『――私の所属する、帝室直属第二旅団は、皇帝直属近衛師団となる予定です。弟は、これから多くの難敵と、戦う事になるでしょうから。私が護ります――』
アリスフィーナは、目を閉じて鼻歌を口ずさんだ。
今回の旅路を想い返す。
『――また、貴女様とお会いできる日を、クワイアと共に、楽しみにお待ちしております。エルベリオン帝国アーヴァイン王家第一王子、グレン・アーヴァイン・エルベリオンより、心より感謝を込めて――』
アリスフィーナは、秋晴れの青空を仰ぎ見た。
穏やかな風が、髪を撫でる――
「良い風です……」
《 永遠のアリスフィーナ 》第二節:北方からの招待状――――(終)




