第二節:北方からの招待状(上)
【1】
聖王歴1305年――「天輪城:セラフィ・ベル・ロンド」
ラ・アリスフィーナ・ジークルーネ・エル・カウベル大公は、「王の館」の執務室にいた。
「ブレナハン陛下、お話とは一体何でしょうか?」
ソファに座ったアリスフィーナは、王の執務席に腕を組んで座っている、口髭を蓄えた銀髪の偉丈夫、ホルスタ族のカウベル国王である、ブレナハン・カウベル・アル・カウベルへ質問を投げ掛けた。
「うむ、実はだな先生よ、北方のエルベリオン帝国は知っているとは思うが、此度このような書状が届いてな」
ブレナハンは、深いバリトンの利いた声で言うと、書状を机の上に放り投げた。
アリスフィーナの後ろで、控えていたエルダーの青年が、落ち着いた足取りで王の机に向かい、軽く一礼して書状を受け取ると、アリスフィーナに届け、再び元の位置に下がった。
アリスフィーナは書状を開くと、静かに目を通す。
「うん……? クワイア皇帝陛下直々の晩餐会……ですか。開催は三ヶ月後……」
アリスフィーナは、怪訝そうな視線で書状を読み終える。
「他の貴族連中なら無視してもよいのだが、皇帝の直筆となると、つまらん晩餐会とやらでも無下にはできんでな。誰かに行って貰わんとならん」
アリスフィーナは、覗き込む様にして、ブレナハンと視線を合わせた。
「で、陛下は私に行ってこい……と」
控えていた、エルダーの青年は、そっと目を閉じた。
「本来であれば、俺か、王太子のクローヴィスが行くべきなのだろうが、ホルスタの男児が、そうそう国を空けるわけにはいかんからな。第一、大臣連中が許可すまい」
「純血」と呼ばれるホルスタ族の男児は、極端に数が少なく、現カウベル王国でも、ブレナハンと息子のクローヴィス、退位した前王のダルアハンのたった三人しかいなかった。尊き蒼き血筋として、そう簡単には、国外に出る事を許可されないのである。
「だが、生半可な身分の者を行かせれば、舐めてると思われかねん。で、先生、いや、 カウベル王国特別外交次官殿の出番という訳だ。そろそろ復帰もできよう?」
「……とか何とか言って、ただ、エルメラちゃんを行かせるのが、嫌なだけでは?」
アリスフィーナはやや呆れ声で、第一王女の名前を出した。ブレナハンが一瞬、顔を顰める。
「いやいや、俺は国事に私情は挟まんぞ、たまにしか。今回は、マリアが首を縦に振らんのだ……」
「モゥ……マリアンヌは……。まぁ最も、北方に王女を行かせるのは、私も少々不安ですね」
アリスフィーナは、口元に手を当てて思案する。
「一応、王族でもありますし、私が行くのは、やぶさかではありませんが……。その……私の方こそ、私情で申し訳ないのですが……」
珍しくアリスフィーナが口籠った。
アリスフィーナには、二人の子供がいる。カウベル王国元宰相にして、恋人であった、フェルディナンドの忘れ形見。今年で15になる長男カイゼルと、10歳の長女ローザリアである。
ある日の事、大公府業務が早めに終わり、大公邸宅へ帰宅すると、ホルスタ族メイドのノルンが、血相を変えて走ってきて、紙切れをアリスフィーナに手渡した。
『 てがみ かあさま ほないってくる 』
「ぇええええええええええええーーーっ! どこにいいいいいいいぃぃっ!!???」
その頃、長男のカイゼルは、カウベル国立大学で、午後の講義を受けていた。
バン!――
講義室の引き戸の扉が、勢いよく開かれた。
おそろしく身なりの良い女性が、ツカツカと、大学始まって以来の神童に向かって来る。
教師も生徒達も、突然の来訪者に、呆然とした視線を向けた。
女性は神童の前に立つと、大声で喚き散らした。
「カイゼル!カイゼル! ローザちゃんがどっかいっちゃったの! 一緒に探してぇえええっ!」
「……身振り手振りはいいですから、ちゃんと説明して下さい。母上」
泣きながら「うぇーっ! うぇっ! うえぇぇっ!」と、説明をするアリスフィーナ。
「そうですか。あの子の事ですから、首飾りは身に着けているはずです。使い魔を出して、反応を追いましょう。目立たなくて俊敏、情報収集が優秀な『エイ』を遣わせて下さい。後方支援には、優しくて実直な『シィ』を充てましょう。召喚、急いで」
「うぇぃ!」
アリスフィーナの後ろに控えていた、エルダーの青年――カイゼルは、二ヶ月前の出来事を思い出して、眉間に皺を寄せた。
「なんだ、ローザリアはまだ帰ってこぬのか? 監視は付けていよう、今は何処におるのだ?」
ある程度の事情を知っていたブレナハンは、家を飛び出したまま帰宅しない、ジークルーネ家長女の場所を尋ねた。
「現在は……」
アリスフィーナは目を閉じ、こめかみに指を当てた。
使い魔である黒猫の「エイ」の視覚が、彼女に同調される。ローザリアは洗濯をしている模様――
「……アンソワース領の宿場町で、住み込みで働いているようです……」
それを聞くや、ブレナハンは豪快に笑い出す。
「はっはっはっはっ! 随分と自立したではないか、まだ幼子であるのに働くとはな! 少し前までは、先生から、片時も離れなかった子供が!」
「モゥ……いきなり、自立し過ぎなのが問題なのです……。これは、流石に心配にもなるというものですよ……」
ブレナハンは、髭の生えた顎に手をやり、ニヤリとして身を乗り出した。
「だが、見守るだけで、連れ戻さんのであろう?」
アリスフィーナは心を見透かされ、困ったように眉を顰めると、溜息混じりに答えた。
「あの子が、自分の意志で決めた事ですからね……。しばらくは、好きにさせておく事にしました……」
「で、あれば、それも良かろうよ。俺からもアンソワースには、連絡を入れておこう。ウチの、跳ねっ返り姫がそっちに遊びに行っており、もし見つけても、見守ってやってくれ、とな」
「いえ、そんな。我が家の事情に、陛下のお手を煩わせるわけには……!」
「なぁに、構わぬ。俺も、さんざん先生には世話になった身だ。この程度どうと云う事はない。それで、外交の件が片付くのであれば、安いものよ」
王の言葉に、アリスフィーナは深々と頭を下げた。
「解りました。北の帝国には、私が赴きましょう。随伴指示はございますか?」
「書記官を一人付けてくれ、一応、剣も扱える奴だ。あとは外交官殿に一任しよう」
「はい。では供回りとして、当家のメイドを二名。それと、カイゼルを同伴させましょう」
ブレナハンは、アリスフィーナの長男に目をやると、カイゼルは無言で頷いた。
「この子も、来年で16の成人を迎えます。世界を識るには良い機会でしょう」
「そうか……もう、そんなに経つのだな。早いものよ……」
ブレナハンは一瞬、昔を懐かしむ表情を見せた。
アリスフィーナは、少しだけ寂しそうな微笑みを浮かべる。
(フェルディ様……貴方の御子達は、元気に、そして立派に育っていますよ……)
【2】
一週間後、アリスフィーナは、カウベル政府の書記官レナード、ジークルーネ家メイドの、ノルンとラーナ、息子であるカイゼルを伴い、エルベリオン帝国へ出発した。
「すみませんね、レナード様。御者まで任せてしまいまして。ありがとうございます」
アリスフィーナが、馬車客室の小窓を開き、御者座のレナードへ礼を述べた。
「いえ、大公殿下、慣れておりますので。お役に立てて何よりです!」
精悍な顔付きの人間族、書記官レナードは30手前の若い文官であったが、昔は何でも冒険者の身であったらしい。剣も御者の業も、その頃に学んだという事であった。
(その上、筆記語学にも精通している……。この方、ご年齢以上に優秀ですね。頼もしい限りです)
晩餐会の日時まで、かなり日数に余裕があったが、「北方までの旅路で、カイゼルに様々なものを見せてあげたい」という、アリスフィーナの意向があり、早期の旅立ちとなったのである。
カウベル国を北側から抜け、エルザリス王国の、国境沿いの街道を、北西へと進む旅程となった。
最初の行き先は、神聖中央アガルトラント教国である。
カウベルを発ってから五日目、一行は街道脇の野営場で、今夜の露営の準備を始めていた。
アリスフィーナは、魔導術で収納門を開き、次々と野営用具を取り出すと、ノルンとラーナが、手際良く夕餉の支度を始める。
レナードは、小型の天幕を張り終えると、アリスフィーナを招く。カイゼルは馬に水と飼葉をやると、鼻先を撫でてやる。
日が沈む頃合いになると、他にも、行商人や旅人が野営場に集まってくる。アリスフィーナの一行と、すれ違う時には、互いに挨拶を交わす。旅人達はこうやって、野営の時はなるべく集まり、安全を確保するのである。
ノルンとラーナは、野営場ではいつも多めに夕餉を作る。そして、今晩の供連れとして、隣人へお裾分けに回るのであった。皆が皆、それをとても喜んだ。
天幕の中で、夕食を終えたアリスフィーナとカイゼルは、外に設置してある小型のテーブルで、食後のお茶を嗜んでいた。カイゼルは、魔導術で調整した、煙の出ない焚火の灯りに照らされた、真なるエルダーの、神秘的とも云える美しい顔を眺めていた。
「カイゼル、野営には慣れましたか?」
紅茶茶碗を、音も無く皿に置いたアリスフィーナは、目を閉じたまま口を開いた。
「はい。ですが、馬車の旅というのは、存外肩が凝るものですね」
カイゼルは肩を押さえて、首を左右に曲げた。
「そうですね……身体が適応してくれば、少しは楽になってくるものですよ」
「何故、『転移』を使わないのですか? 外交にその様な制約でも?」
アリスフィーナは目を開くと、その蒼い瞳で、自分と全く同じ色を持つ息子と視線を合わせる。
「帰りはともかく、国の正式な国使として赴くのであれば、特例を除き、礼儀として、馬車での移動が求められますね。それも、ありますが――」
カイゼルは、静かに母親の次の言葉を待つ。
「カイゼル、貴方にはこの世界の広さを、その身で、直に感じて欲しいからです。それが一番の理由ですよ。まぁ、流石に歩くのは、些か時間が掛かり過ぎますので……」
「広さ、ですか……」
カイゼルは、三つの月を抱く夜空を見上げた。
「確かに、今後の為には、知っておいた方が良いでしょうね――」
それからアリスフィーナ一行は、十日の旅程で、神聖中央アガルトラントに到着した。
神聖中央アガルトラント教国――その歴史は、エルスリード統一王朝期にまで遡る。
元々朝廷と、中央教会市国の間は、不可侵の関係であり、唯一の自治権が認められていたが、旧暦580年 正式に独立。王朝末期には、他の地方の離反も相次いでいた為、ごくごく、自然な成り行きとも云えた。
朝廷の帝が崩御した翌年、旧暦585年、既に、独立状態であった中央教会市国が、エルスリード歴を廃し、新たに年号を、聖王歴と定めた元年に、神聖中央アガルトラント教国が誕生する。
後世の云うところの「十二国群雄期」時代の幕開けでもあった。
それから聖王歴1305年の現在に至るまで、大陸各国は、聖王が治めるアガルトラントを中心として、栄え、滅び、時代を紡いできたのである。
国主は教皇も兼ねる聖王と呼ばれ、国では主に、至光神が信仰されてはいたが、愛の女神をはじめ、あらゆる神、また聖人が国中で祭られていた。
アガルトラントの教義とは、唯一の神を奉るのではなく、「神を信仰する」事そのものとしている。
生きとし生けるもの、その万人が、神を、聖人を、信仰する事こそを至上とする。故に「教国」であった。
一柱の神だけを信仰してもよい、二柱の神を信仰してもよい、全ての聖人を信仰してもよい、明日には違う神に祈ってもよい、神を敬い信ずる心があるのならば。
そして信仰無き者には、手を差し伸べ、神々への導きを説く。
この懐の広さこそ、かつて大陸を血に染めた「大陸大戦」を経て「聖王連盟期」と呼ばれる、今もなお、各国の中心たりえた所以でもあった。
西門から入国を済ませたアリスフィーナ一行は、石畳が敷き詰められた中央大通りを、一路「中央大神殿」へと向かっていた。
「何と……路がとても広いですね……」
馬車の窓から、景色を眺めていたカイゼルが、感嘆の声を漏らす。
この中央大通りは、幅20メルテにも及び、歩行路と馬車等の車両路、上りと下りが分けられており、馬で駆け抜ける等は非常事態を除き、全面的に禁止とされている。
「それと、尋常ではない人の数です」
参拝に訪れる平民、列を成す巡礼者達、商人、兵士、物資運搬の荷馬車、王侯貴族、実に、様々な人種が中央大通りに見られた。
「この教国は、国境から既に、国土全体が区画として分けられています。なにせ、大陸中から人々が集まる、中心地ですからね。一千年以上の歴史の中で、今も尚、発展し続けています」
驚きの眼で周囲を見渡すカイゼルに、アリスフィーナは解説するように聞かせる。
「通常の国のように、大地があり、国境があり、街や村があり、街道があり、やがて城がある、ではありません。広大な国土全てが『管理された土地』なのです」
カイゼルは、あまりの桁違いの規模感に圧倒され、言葉を失う。
ノルンとラーナは、産まれた時から、常にアリスフィーナと共に見守ってきた子の、今まさに成長してゆく姿を、尊い眼差しで見つめている。
「ここには国を運営する、数多の人々が働いています。それこそ、一国規模以上の人材達が集まり、国と信仰を支えています。大陸経済の中心地であり、それら全てを束ねるのが『聖王陛下』という存在です」
アリスフィーナは、愛する息子の心情の移り変わりを、楽しむかの様に言葉を綴る。
「どうですか? 自分の中の『常識の枠』が、吹き飛んでゆく感覚は?」
母親は悪戯っぽく尋ねた。息子はややあって薄く笑み、口を開く。
「ええ……良いですね。不思議と受け入れる事ができます。何故かは解りませんが、高揚します」
アリスフィーナは、目を瞑って微笑んだ。
「良い答えです」
それから彼女達は、宿を取りつつ三日に渡り移動を続け、大陸信仰の中核である、中央神殿区画へと到着した。
一ヶ月の期間で小さな宿舎を借り、翌日ノルンとラーナに後を任せ、アリスフィーナはカイゼルとレナードを連れ、中央大神殿に向かった。
中央神殿区画は、私用の馬車は使えないので、専用の客馬車での移動になる。
初めて目にする光景を、カイゼルはレナードと会話しながら見物した。この旅を通し、二人は、友人同士のような関係になっていた。
中央広場の大神像群が見えてくると、カイゼルは更に目を見開いて、まるで、魅入られたかの様に押し黙った。高さ約20メルテの神像が建ち並び、荘厳な雰囲気を醸し出していた。
アリスフィーナは、神像群の中の一体の前で、客馬車を止めてもらった。
それは、一位の聖人の像であった。
微笑みを湛え、胸の前で手を組むその姿は、愛の女神を彷彿とさせる。
聖人を護るようにその前には、5メルテ程の騎士の像が立っていた。
「母上、この像はまさか……」
「ええ……。《 愛の聖女:アイラ・カウベル 》です。カイゼル、貴方の叔母ですよ……」
アリスフィーナは、追憶の眼差しで像を見つめると、客馬車をゆっくりと降りた。カイゼルとレナードも後に続く。
「では、こちらの騎士は、カウベル伝説の《 聖女守護騎士:フレディ・ノア 》『愛の時代』の英雄……」
「はい。ご本人は、仰々しい称号はやめてくれと、いつもボヤいておられましたけどね……」
アリスフィーナは、在りし日の思い出に浸るように、静かに物語った。
レナードは改めて、自分は《 永遠のアリスフィーナ 》と、今共に立っている実感に、身が打ち震えた。
アリスフィーナは像を少し見上げ、まるで今、目の前に二人がいるかの様に語りかけた。
「アイラ、フレディ様、ご無沙汰しておりましたね。今日は、なんと、私の息子を連れてきましたよ。カイゼルと云います。どうですか? 立派な子でしょう?」
アリスフィーナは顔を綻ばせて、自慢するように話すと、自分より背の高くなった息子の肩を抱き寄せた。カイゼルは、少し緊張した面持ちで頭を下げる。
広場周辺では、人々が各々神像へ跪いて祈りを捧げていたが、彼女だけは終始穏やかな顔付きで、自分の家族の立ち話をしていた。
「ではね、また来ます」
アリスフィーナは、妹に別れを告げると、再び客馬車に乗り込んだ。
カイゼルは振り返り、もう一度、愛の聖女へ頭を下げた。
【3】
中央大神殿――
巨大な門を潜り抜け、敷地内はもはや「街」と表現するのが適当だろう。彼方此方に教会が建てられており、政府から許可をとった店が、立ち居並んでいた。多くの人々が行き交い、聖職者達も大勢いた。
神殿街の中央には、天にも届かんばかりの白亜の尖塔が建ち並び、美しい水路に囲まれた、まるで城のような、巨大な建築物がそびえ立っていた。
聖王が御座す本殿の「グランズ・シャルレ・エルサレン大聖堂」である。
神像群があった広場から、既に二刻程かかっており、その広大さが窺い知れた。さすがにここまで来ると、一般層はほぼ見られず、逆に聖職者の数が目立ち、その敷居の高さを感じさせる。
「教国には、何度か仕事で来た事はありますが、流石に本殿まで来るのは初めてです……」
レナードが緊張を隠せずに呟いた。
客馬車を正門近くで止めると、門番の聖堂騎士が二人近づいてきた。レナードが静かに馬車の扉を開く。
騎士の一人が、上座に座っているアリスフィーナに向かって、礼をとった。
「エルサレン大聖堂へようこそ。本日は、どのようなご用向きでしょうか?」
威厳と、清廉さを感じさせる声で、騎士が尋ねた。
(一介の騎士でこの迫力……やはり、とんでもない場所だ……)
人知れず、カイゼルは観測をしていた。
アリスフィーナは左手の小指から、印章指輪を抜き取るとレナードへ手渡した。レナードは恭しく受け取り、中継して指輪を騎士に渡す。
「それを、マーカス本殿司祭に渡して下さい。『アリスフィーナが来た』と、お伝え下されば解ります」
騎士は、両手で包み込む様に指輪を受領すると「お預かり致します」と短く言い、正門横の御用扉に消える。
そして、待つこと半刻後――御用門から、重々しい司祭服に身を包んだ初老の男が、全速力でアリスフィーナ達の馬車に駆け寄ってきた。
「はぁはぁ……た、大変おまた……せ、しました……! アリスフィーナ様!」
初老の司祭は、両手を膝に付き、肩で息を吐きながら苦しそうに挨拶をした。
「お久しぶりでございます、マーカス様」
アリスフィーナは、レナードの手を借り馬車を降りると、活力回復の術をマーカスに施した。
「いやぁ、お恥ずかしい。最近、めっきりと体力が落ちてしまいまして……」
拡大鏡をかけた、人の良さそうな顔立ちの司祭は、頭に手を当てて軽く下げる。
「いえいえ、全速力のお出迎え、痛み入ります。此方こそ、先触れも無く突然の来訪、どうかお赦し下さいませ」
アリスフィーナはそう言うと、ドレスの裾を軽く持ち、脚を折り正式な淑女の挨拶を贈る。レナードは、先程の聖堂騎士から指輪を受け取ると、アリスフィーナに返す。
「ささ、中へ、貴賓室にて、聖王猊下がお待ちです」
「なっ……! 聖王……陛下……!」
レナードが、思わず上擦った声を漏らす。
(まぁ……そうなるだろうとは思っていたが……何故に……?)
カイゼルは、表情一つ動かさずに後に続いた。
エルサレン大聖堂の中は、見た目通りの豪奢な巨大な通路で、壁には多くの祈りの言葉が刻まれていた。驚くほど静かであったが、時折、讃美歌のような声が耳に入ってくる。
広大な中庭の回廊を歩くと、陽射しが雲間から降りる神秘的な光の柱の様に降り注いでいる。
「広いですね……まるで迷宮のようです」
カイゼルが呟くと、マーカス司祭が「はっはっ、私も若い頃苦労したものです。毎日迷子でしたよ。まあ、その迷子のおかげで、アリスフィーナ様とお知り合いになれたのは、幸運でしたよ」と笑いながら答える。
「ふふっ……そういえば、そんな事もありましたねぇ」
口に手を当てて笑うアリスフィーナを見て、カイゼルは自国以外の人間と会話している母親を、奇妙な感覚で眺めた。
(……何故だか。母上が、私の知らない、別人に見える……)
二階へ上がる大きな階段の壁には、様々な聖人達を描いた絵画が飾られており、中には、聖女アイラの肖像画もあった。髪の色は違っていたが、アリスフィーナを思わせる、目元と柔らかな微笑みは、同じ雰囲気を漂わせていた。
その時、不意にカイゼルは、一枚の絵画が目に留まった。
中央に光りの剣を構えた黒髪の男、その後ろには剣士・女司祭・ローブを目深に被った女魔導師の姿があった。
《 聖絶勇者:ミハイルと三賢者 》という題名で飾られている。
カイゼルはローブの女魔導師を一瞥すると、前を歩くアリスフィーナに目を向けた。
(……まさか……な……)
やがて一行は、聖堂騎士が警護する、両開きの扉の前に案内された。
マーカス司祭が、中の部屋に設置してある鐘と繋がっている、呼び紐を軽く二回引く。騎士に扉を開けて貰うと中へと入り、アリスフィーナ達を招いた。
「猊下。アリスフィーナ様、御一行をお連れ致しました」
中の部屋は、貴族の貴賓室とは違い華美な装飾なども無く、絨毯は深い緑色を基調とした、落ち着いた佇まいであった。
テーブルを挟んだ正面には、白い法衣に、黒地に金刺繍のストールを纏った、白い髭を蓄えた高齢聖職者が穏やかな笑みを浮かべ、背筋を伸ばしソファに座っていた。
彼こそが、第56代目神聖中央アガルトラント教国、聖王カストル・イェブラヒム・アガルトラントその人であった。
この大陸の中心人物である。
マーカス司祭は、聖王の左後ろに控えるように立った。
アリスフィーナは、落ち着いた足取りで中へ進むと、聖王の前で胸に手を当て、頭を下げ深く跪いた。
「カストル聖王陛下。大変ご無沙汰しております。アリスフィーナにございます」
カイゼルとレナードも少し慌てて、同じように跪いた。
カストル聖王は、柔和な笑みを崩すことなく口を開いた。
「お久しぶりでございますな。アリスフィーナ殿。でも、前にも言ったと思いますが、貴女に限って、そんなに畏まらないでと。アリスフィーナ殿との会談は、例え、大儀式よりも優先されるべきものなのだから」
カイゼルは、頭を下げながら刮目した。大陸の信仰、経済、権力の中心人物から、そこまで言わしめる母親の有り様を。
アリスフィーナは面を上げると、困ったように微笑んだ。
「私も前に言いましたが、それでは他の者への示しがつきません。ですから、私も他の皆様方と同じように、陛下に跪くことをどうかお赦し下さい、と……」
カストル聖王は顎に手をやり「あれ、そうでしたっけ? はっはっはっ……!」と、座るように促した。
「失礼致します……」
アリスフィーナは、カイゼルとレナードに立つように言い、音も無くソファに座った。カイゼルもそれに倣い、アリスフィーナの隣に腰を降ろした。レナードは、彼女の後ろに控えて立った。
「ん? レナード様も、どうぞお座りなさいな?」
「い、いえっ……私はここで、はい……」
その様子を見たカストル聖王は、もう一度笑った。
「まあ、人によっては、控える席の方が、落ち着くという方々もおりますからな。お好きになさるがよろしかろう」
「そうでございます。私なんて、この位置で立つのが、半分仕事のようなものですからな」
マーカス司祭の言葉に、レナードは赤面して軽く頭を下げた。
「そう云えば、アリスフィーナ殿。この前は、注文の品をありがとうございます。至光神に供物として捧げた後、きちんと頂戴しましたよ。何とも、美味しゅう御座いました、お礼を言います」
瞬間、アリスフィーナは、ビクっと身体を強張らせる。
「……その、あの時は大変、大変、お待たせした模様で、申し訳ございませんでした……。仕事でなにぶん、彼方此方と、飛び回っていたものですから……ほっほっほっ!」
カイゼルは真顔になり、母親を見つめた。
(……この人、聖王陛下に堂々と嘘を付いている……凄いな……)
「で、そろそろ紹介して下さいませんかな。そちらの若人は、どちら様ですかな?」
カストル聖王に視線を向けられたカイゼルは、無表情を装いながらも、背中に冷たい汗が流れるのを感じていた。
(……この声と眼差し……何もかもが見透かされているような……母上とは別種の畏敬を感じる……絶対に敵に回してはならない……それに、背に光が観えるのは幻覚だろうか……?)
「ああ、申し訳ございません、遅くなってしまいましたね。さ、聖王陛下にご挨拶なさい」
母親に促され、カイゼルは背筋を伸ばし胸に手を当て、カストル聖王に向き直った。
「座したままで御免下さい。聖王陛下。アリスフィーナ・ジークルーネの長子、カイゼルに御座います。以後、お見知りおきの程、何卒、宜しくお願い申し上げます――」
深々と頭を下げるカイゼル。同時に、淡々と流暢に言葉を吐く自分に、驚いていた。
「ほぅ! やはり、やはり! 髪と瞳の色が同じだった故、もしやと……!」
カストル聖王は身を乗り出すように、カイゼルとアリスフィーナ交互に、まじまじと見つめた。
修道服の尼僧が入室し、恭しく紅茶を三脚、テーブルに静かに置き、レナードに小首を傾げ尋ねた。彼が頭を軽く下げると、ゆるやかに退出する。
最初にカストル聖王が茶を啜ると、倣い、アリスフィーナが音を立てずに頂く。カイゼルもその後、一口大きく飲むと、やはり音も立てず皿へと紅茶茶碗を置いた。
「アリスフィーナ殿。一目窺った時に感じました。雰囲気が随分と柔らかくなっていらして、まるで、神の恩寵が、増しておられているかの如く……」
「そうですか……そのように、見えるのですね……」
アリスフィーナはやや耳を伏せ、頬を染めた。
カストル聖王は更に身を乗り出し、アリスフィーナに耳打ちするように囁いた。
「で、沢山と励んだのでしょうか?」
アリスフィーナはにやける様に――
「それはもう……有頂天の如くで御座います……!」
耳打ちを返す。カイゼルが項垂れる。
「はっはっはっはっ! 善哉!善哉! なんと目出度き事よ!」
「ほっほっほっほっ! モゥ! 陛下ったらぁ!」
聖王陛下の肩を「パシーン!」とはたくアリスフィーナ。
(……なんだこれ…………)
戸惑いよりも、疑問が浮かぶカイゼルであった。
「これは、是が非でも『聖王日誌』に記さねばなりませんな。前世、後世の聖王に自慢できますからな。まさかこの私が、アリスフィーナ殿の長子に油を塗れるなど、聖王冥利に尽きますわい!」
「『聖王日誌』……? 何ですかそれは?」
若干、遠慮が無くなってきた、というよりも、もはや遠慮するのが馬鹿馬鹿しいと思ったカイゼルが、素朴な問いを投げ掛ける。
「カイゼル、良かったですね! 『聖王日誌』に名を刻んで頂けるのですよ! 快挙です!快挙!」
(……なんだそれ…………)
疑問よりも、更に、戸惑いが浮かぶカイゼルであった。
一方、レナードは、脇の汗が止まらなかった。
「ときにカイゼル君。見えていましたね? 光が」
カイゼルは再び、背筋の凍る気配を感じ、身を強張らせる。
「はい……聖王陛下の、内というより、背後から差し込むような光の束が……」
次は、アリスフィーナが目を見張る番であった。
「カイゼル……! 貴方……!?」
「そうですか……本殿司祭マーカス、至光神の『聖油』をお願いします」
「はい、猊下……」
恭しく頭を下げたマーカス司祭は、表の聖堂騎士に言伝を指示する。
アリスフィーナとカストル聖王が、長女の話で盛り上がっているところに、手配していた聖油が届く。
カストル聖王は聖油を受け取り、ゆっくりと立ち上がると、大きく息を吸い、カイゼルへ告げる。
『 カイゼル・ジークルーネ・アル・カウベルよ。汝、至光神の御名に於いて、彼の祝福を受けずんば、合切を改め、恭順の意志を此処に…… 』
カイゼルは静粛な面持ちで立ち上がると、一歩退き、交差させた両手を胸に当て、跪く。
聖王は油を指先に漬け、カイゼルの額に聖印を刻む。
『 カストル・イェブラヒム・アガルトラントが祝福を授けん。汝に光の路が有らんことを…… 』
後の世にレナードは語る。
まさしくその姿は《 皇帝の戴冠 》であったと。
【4】
夕刻の光に照らされる聖地は、吟遊詩人の詩の如く、落日の宝石となって辺りを照らす。
アリスフィーナ達は客馬車に乗り、ノルン達が待つ宿舎へと返す。
「どうでしたか? カイゼル! 感動的でしたよね!?」
「…………」
レナードは同情するように、カイゼルに「お疲れさん」と、労いの言葉を贈った。
カイゼルは無言で、額を擦ると、手についた油を嗅ぐ。そして眉間に皺を寄せ――
「ねとねとして、気持ち悪いです……なんなんですか、これ……」
吐き捨てる様に呟くカイゼルに、噴き出すアリスフィーナ。
「あっはっはっはっ! ですよね! べたべたですよね! ほっほっほっほっ!」
アリスフィーナは、レナードの肩をバンバン叩きながら大笑いする。
叩かれているのに、彼は何故だか嬉しそうであった。
「……しかも、臭いし……今日は、厄日か……」
【5】
アリスフィーナは、アガルトラントで、一ヶ月の滞在中に、カイゼルに様々な経験をさせてゆく。
神々、聖人の神殿。地下納骨堂。空中庭園。大図書館。大学校。医療病院。魔導師協会。冒険者ギルド。行政府。裁判所。聖堂騎士団本部――
多岐にわたる場所へ連れて回った。
中でも、カイゼルの興味を一番引いたのは「行政府」であった。このような巨大都市が、どのように運営・管理されているのか、彼は強い関心を示した。
案内役の多くの役人に様々な質問を重ね、その答えを分析し、己の中に吸収してゆく。
国の運営情報が集まってくる「統合管理局」では、独り言を呟きながら、運営組織図表を食い入る様に、熱心に学習していた。
(……やはり、あの方の血を、しっかりと受け継いでいるのですね……)
アリスフィーナはカイゼルを、深く優しい眼差しで見つめた。
「わぁっ! とても似合っていますよ!」
本日は、カイゼルの服を新調しに、聖王御用達の服飾店に赴いていた。
「母上……これは、少し派手なのでは……?」
上着は黒地を基調とした、腰丈までのスーツコート。これでもかと、金糸で複雑な紋様の刺繡が施されており、厳粛な迫力があった。
中衣は、真逆の鮮烈な白色で装飾は無く、襟元は広がらず首の半ばで真っすぐに留められていた。
ホーズもやはり黒地で、従来の膝下までの形ではなく、足首まで伸びており、下半身が全体的に締まっている印象を与えた。
足元の茶色のショートブーツは、光沢を放つ処理が施されている。丹念になめした獣皮を、丁寧に詰め縫われ、二本の装飾金具で留められていた。
「なぁにを言っているのですか! 今までが地味過ぎたのです! 首元なんて、ボワっとしただっさい襟巻ではなく、とてもすっきりしていて、装飾をしないのが逆に清潔感があって……モゥ!素敵! それでこそ母上の子です!」
アリスフィーナは鼻息を荒くして、手を組み、あらゆる角度から着飾った息子を愛でた。
流石に恥ずかしくなったのか、カイゼルは腕を組んで少し目を伏せたが、母親が満足するまでは動かずに立っていてやる。
「では、次は髪を整えに参りますよ! 私もついでに梳いて貰います!」
カイゼルは半目になり、口端を少し歪め、軽く溜息を吐いた。
二人が宿舎に戻ると、カイゼルを見たレナードは、口をぽかーんと開けて、しばらく固まっていた。
「お、驚いた……今朝まで、目付きの悪い毒舌坊主だったのが、王子様になって帰ってくるとは……」
「カイゼル様! なんと、なんと凛々しきお姿! 眼福でノルンは幸せです!」
ノルンは手を組み、目を見開いて珍しく興奮して評した。
「坊ちゃま! 肩で揃えた御髪も、ようお似合いですよ! とっても格好いいです!」
ラーナは両手を口に当てて、はしゃぐように褒め称えた。
「そうでしょう! ええ、そうでしょうとも! 私のカイゼルは、世界一『おっとこまえ』なのですから!」
アリスフィーナは、両手を腰に当てて、何故か踏ん反り返って言い放った。
無表情を保っていたカイゼルは、皆の喜ぶ顔を見て、思わずはにかんだ笑みを見せた。
(まぁ……たまにはいいか……)
一行がアガルトラントに着いてから、はや一ヶ月が経ち、アリスフィーナとカイゼルは、カストル聖王に暇を告げた。
彼女等が発つ際には、聖王自ら見送りに参じ、中央神殿区出口まで、聖堂騎士の剣礼の花道が作られた。
「一体何事か?」と、大勢の人だかりも集まり、その様子は、さながら祝賀行進であったという。
ここからは北上し、アリスト王国を縦断しつつ、エルベリオン帝国を目指す。
アリスト王国の歴史も古く「十二国群雄期」初期である、聖王歴22年に端を発する。
エルスリード王朝崩壊と共に、大陸中に散った豪族・諸侯がいる中、荒れた広大な土地に集まった数多くの農奴や村落の住人達が、小さな領主を担ぎ上げ「アリスト王国」を名乗る。
穏やかな性格の王家の元、農奴達は懸命に土地を開発し、やがて国土の半分が田畑となり、大陸中の実に三割以上の穀物・野菜の生産を預かる台所国家と発展してゆく。
アリスト王国は過去に二度、大きな厄災に見舞われた。
聖王歴223年に、エルスリード王朝伝に記録されている《 深紅の赤竜フォルクレス 》が襲来する。多数の人々が犠牲となり、大穀倉地帯が無残に焼き払われる事態となる。
同年、アガルトラント東方の、「多種族集合国家クレセントライン王国」狼人族の《 炎の聖女:ユリア・レーゼラ 》が、討伐に赴く。
翌年、聖女と竜の激しい戦い末、全身に神の炎を降ろした《 炎の聖女:ユリア・レーゼラ 》が、悪竜に重症を与え《 深紅の赤竜フォルクレス 》は逃亡。
聖女はそのまま神の炎に捲かれ、女神の許へと旅立つ。アリスト王国救国の聖女となり、聖人の列に加わる事となる。
二度目の危機は、大陸大戦時。聖王歴525年、西方の「ファルメリア共和国」の諸侯が、アリスト国民達が必至で作り上げた、肥沃な土地を狙って進軍を開始する。
アリスト王国と「生産通商計画」で、永世同盟国である西方「商業国家サザーラント王国」が援軍を派遣するも、両国は、ともに非戦闘国家であったので、たちまち防戦一方となる。
翌年、アガルトラント聖王はこの事態に、ファルメリア共和国とアリスト王国に、仲裁と停戦交渉を持ち掛けるが、ファルメリア側が拒否。戦火が止まる事は無かった。
聖王歴528年、既にアリスト側は、国土の半分以上を占領され、万事休すとなった。
しかし、侵略戦争を誅せんと教国軍、聖堂騎士連隊がアリスト王国の戦場と、ファルメリア共和国に強襲。軍団規模と装備、圧倒的練度の差で半月と経たず、戦場とファルメリアを制圧。
ファルメリア共和国は、地図上から消え、アリスト王国は辛うじて生き残り、アガルトラントと、サザーラントの支援の元、再び大地を耕す日々を取り戻す。
農耕を愛する優しい国民性は、今日まで変わらず、豊穣の神の恩寵深き平和な国である。
アリスフィーナ達の馬車は、国境を越え、街道を一路北へ目指す。
今まで、アガルトラントの超近代化の市街にいた為、長閑な風景が逆に旅人達の目に新鮮に映っていた。
「母上はこの国には来た事が?」
窓から、外の景色を眺めていたカイゼルが尋ねた。
「ええ、何度も。ここの小麦で作ったパンは絶品ですよ。特に王室御用達の物は、『ふわふわ』の『もちもち』で、一度食べると中毒になります」
アリスフィーナは、その味を思い出すように、身振り手振りで説明した。
「それに、こんな格言もあります。『食うに困れば、アリストで鍬を振るえ。さすれば明日から、パンが食える――』と」
人差し指を立てて、大陸随一の生き字引が、その知識の一欠片を披露する。
「なんかいいですね、そういうの。それに――」
「ええ……似ていますね……」
二人の瞼の裏に、カウベルの片田舎にある、フェルディナンドの実家の田園風景が浮かぶ。
(……あの時、貴方と一緒に食べたパン……とても美味しかった……)
波打つ黄金の夏麦が、アリスフィーナの追憶と共に、風に揺れた。
ノルンとラーナは、主人の想いを察し、少し涙ぐんだ。
途中、農家から新鮮な小麦の束を沢山分けて貰うと、野営地でその日の夕食の為に加工する事になった。当然、相場よりも、かなり高く買い取った物である。
(金貨で麦買う人達なんて、初めて見た……まあ、もう大抵の事では、驚かなくなったが……)
レナードも、ジークルーネ家から「常識の枠」を、散々吹き飛ばされてきたので、段々と毒されてきている自らを自覚した。
「やはり、パンを美味しく頂くのであれば、付け合わせはアレしかありませんね、ラーナ」
「はい、アリス様。お野菜も分けて貰っていますので、カウベル名物はお任せ下さい! 晩の分の乳をそのまま使います」
「小麦は、こちらで精製しておきますので、お願いしますね」
いつものように、天幕の準備はレナードが、馬の世話はカイゼルが、二人とも手慣れた様子で仕事をこなす。本日は珍しく、アリスフィーナに、何やら出番があるそうなので、興味深く見物する事にした。
「さてっ! やりますか!」
大きく深い鍋を、幾つか用意したアリスフィーナは、麦束の山を目の前にして、背伸びをして首を左右に振る。どうやら準備運動のようである。
様々な《 魔導の最奥 》を極めた彼女は、まず物理結界を張る。そして《 魔導の最奥 》同士を複数組み合わせ、千差万別の結果を導く。
アリスフィーナは、少し顎を引き、両手を少し開く。
「別れて、集まりなさい」
すると麦束が宙に浮き、驚くべき速さで高速回転を始め、穂先の実と他の不要な部分が、あっという間に分離し、実の部分だけが深鍋に貯まってゆく。
「ふふん♪ 濡れて、吸いなさい ふんふーん♪」
鼻歌混じりに《 圧縮命令 》を紡ぐと、鍋の麦が湿り気を帯び、実を包む皮がふやけてくる。
「こんなものでしょうか…… 乾いて、剥がれ去りなさい」
アリスフィーナは鍋を覗き込み、状態を確認すると、追加の命令を出す。瞬時に乾燥した麦の実の皮が、一斉に鍋の外に放り出される。
その様子をカイゼルは、感嘆の表情で見つめている。レナードは、呆けたように口を開けていた。
「微細等分に、分かたれなさい ふふーんふん♪」
真っ白な小麦の実が、一瞬で粉になり鍋に沈み込む。
「素晴らしい……流れるようなこのきめ細やかさ……」
アリスフィーナは、小麦の粉を手で掬い、出来栄えを確かめる。仕上げとばかりに手をかざし、命令を下す。
「不純な物よ、疾く舞い散りなさい」
小麦粉の鍋から黒い粉が浮き出し、風に舞って中空に消えた。
そして最後に鍋の前で手を組み、小麦粉を見つめた。
「美味しくなぁれ♥」
何も起こらなかった。
「やはり……とてつもないな……」
カイゼルは、アリスフィーナの、小麦粉精製を見て呟いた。レナードが近づいて尋ねる。
「なぁカイゼル君。何だか凄いのは解るんだが、何がどう凄いんだ? 鼻歌混じりに、~なさい、~なさい、って言っておられたが……」
魔導術を知らない人種からすれば、色々やっている間に、小麦粉ができた、ぐらいの印象なのだろう。
「ノルーン! 小麦粉ができましたよー!」
「はぁーい! こちらも石窯の用意ができました!」
「そうですね……簡単に言うと、私が確認できたのは、魔力を操って、約50行程以上の儀式級の魔導術を展開していた、という事です」
「儀式級……?」
「詳細説明は省きますが……例えば、国の一級魔導師が、三人掛かりで術を練り上げたとして、約四ヶ月かかる工程です。私でも全力の掛かりきりで、丸三ヶ月はかかると思います」
「君でも、三ヶ月……! それを、この短時間に……!?」
カイゼルは額に指を当て、眉間に皺を寄せる。
「レナード、済みません。比較対象がいないので、正確な答えが出せません。なにせ、わざわざ魔導術を用いて『小麦粉』を作ろうとした人類を、存じ上げないので……」
「いやいやいや、君が謝るな、聞いたのは私なんだから……つまりは、アリスフィーナ様が、『常識の枠』外の事を「いつものように」やられただけだと……」
「はい。そういう事ですね」
「ちなみに、一番最後のアレは?」
レナードの問いに、カイゼルは首を振り――さぁ……? 私も知らない呪文でしたので、呪詛の類か何かなのでは……?――と、答えた。
「うおおおおおっ! っぱこれですね! カウベル国民としては! 乳のシチューと白パン! 文字通り、おふくろの味ですよ!」
「はぁい! たんと召し上がって下さいね! 私とノルンさんが、一生懸命搾りました!」
ラーナが、自分の胸を手で跳ねて揺する。
「お口に合えば良いのですが……」
ノルンが頬に手を当て恥じらう。
「…………」
「何ですか、カイゼル? もしかして、母上のおっぱいが欲しかったのですか?」
「ちがっ……!」
こうして今夜も、家族の食卓が賑わうのであった。
【6】
アリスフィーナ達は、二週間をかけ、アリスト王国を北へ縦断した。
国境付近の草原で《 炎の聖女:ユリア・レーゼラ 》の像が、彼女達を見送るかの様に鎮座していた。
彼女はクレセントラインの国民だったが、アリスト王国では救国の聖女として、豊穣の神と同様に信仰されていた。
飽きるほどに、散々眺めてきた田園風景だったが、いざ離れるとなると、不思議と後ろ髪引かれる郷愁が、胸の内に残る。アリスト王国とは、そのような国であった。
ノルンとラーナは旅の途中、沢山の麦を買い集め、大量の小麦粉にしてもらい、北の地の遠征に備えた。
アリスフィーナの「温度操作」と「維持保全」の最奥で編んだ、温熱保管の術で、いざという時にも暖かなパンが食べられるよう、馬車に常備しておく。
カウベル使節団が、王国を発ってから、はや二ヶ月が経とうとしていた。
「皇帝晩餐会」まで、一ヶ月間の猶予がある。
国境線から、会場である帝都ノイエ・シュタットまで、三週間もあれば、余裕を持って到着できる旅程であった。
「とうとう、北の入口まで着いてしまいましたねぇ……」
アリスフィーナが、ぽつりと呟いた。
一行は曇り空の広がる、エルベリオン帝国、旧北部エルスリードの地に足を踏み入れた。
国境詰所で入国待ちしている間も、アリスフィーナはどことなく、憂鬱な顔付きをしている。
「アリスフィーナ様、どこか御加減でも?」
ノルンが心配になり、声を掛ける。アリスフィーナは、大丈夫だと、軽く手を振る。
「昔から、この国は空気が重いと云いますか、雰囲気と匂いも……ですね。そのうち解ります」
カイゼルは母親の顔を一瞥すると、窓の空を眺めた。
(北方の主、エルベリオン帝国……)
エルベリオン帝国――元エルスリード統一王朝の本拠点、朝廷の都の国である。「落日の都」とも云われるこの国は、聖王歴30年に「新生エルスリード帝国」とし、崩壊した王朝の建て直しを図る。
国に残った、忠義厚き臣下達の尽力により、30余年の歳月を掛けて見事復興を果たす。
聖王歴72年には、戦火で焼け落ちた帝国南東の、芸術の都「フェルリン市国」の復興を他の十一国へ呼び掛け、聖王歴80年に「フェルリン市国」復興祭が催された。
十二国の代表が集まり、「大陸百年の友誼」の調印式が宣言・締結される。
聖王歴518年「新生エルスリード帝国」にて内戦が勃発。「大陸大戦」の皮切りとなった。
独立を掲げる北西の「ランダメリア家」との戦いは、苛烈を極め、実に聖王歴537まで続いた。多くの血と涙が流れ、独立を認める形で終戦。
以後、北西部は「ランダメリア大公国」、北部中央から東は、新生エルスリード改め「エルベリオン帝国」として、北方を二分した。
朝廷時代から連綿と続く、古き伝統と格式を重んじ、皇帝家の血を絶やさずに、今日まで至る、誇り高き騎士の国であった。
一行は、アリスフィーナの「憂鬱」の理由が何であるかを、最初に立ち寄った街で知る事になる。
北の玄関街、最初に立ち寄った大きな街、オルデン騎士伯が治める「オルデン・シュタイン」は、大きな屋敷が建ち並ぶ、立派な都市であった。
ただし、立派なのは、あくまで「佇まい」の話であった。
「ぐっ……これは……!」
最初の犠牲者は、御者を兼任していたレナードである。
鼻を押さえて、彼は思わず馬車を止めた。
「どうしましたか? レナード!」
カイゼルが慌てて、客室小窓を開けようとするが「ダメだ! 開けるな!カイゼル君!」はっとして手を離すカイゼル。
嗅覚が鋭敏なアリスフィーナは、既に指で鼻を摘まんで「如何ともし難い顔」で眉間に皺を寄せている。
ノルンが鼻を「スンスン……」と鳴らして、顔を顰める。
一方、ラーナは「ほえ?」と、きょとんとしていた。
「匂い……いや、この場合、臭いか……」
カイゼルは即座に状況を分析した。
「ぞどどおじでず、ガイゼフ。ごでが、ぼっぼーめいぶず。『ぎだどごーずい』でふ」
「母上。何をおっしゃっているのか、面白いぐらい解りません」
表情を変えずに切り返すカイゼル。
「ご、ごれば……ぢびじい……!」
ノルンが堪らず、アリスフィーナの膝に顔を埋める。
「皆さんどうしたんですか? アリス様もノルンさんも、何だか苦しそうです……」
「だーだ、あだだ、ずごびでふで……」
「埒が明きませんね……【最奥:魔力操作】――【最奥:最奥複合】――【最奥:物質操作】――【最奥:圧力操作】――【最奥:反射操作】――【最奥:領域拡大】――大気の壁よ、我が周囲を覆い、動かざる時を保て――空圧反遮断!」
カイゼルが素早く魔導術を成就させると、アリスフィーナは大きく息を吐いた。ノルンも咳込みながら、水を呷った。
「はぁ……上手ですよ……カイゼル……良く出来ました……『反射』も入れたのが、とてもいいですね……うぇっ!」
「私の術ですからね、そう長くは保てませんよ。レナード! 大気の結界を張りました、急ぎこちらに!」
カイゼルの声で、レナードは客車に飛び入り、ラーナの膝に倒れ込む。
「しっ……死ぬかと思った……! カイゼル君、助かった……ありがとう……! はぁぁぁああ……強烈過ぎる……! なんだこれは……」
ホルスタのメイド、ラーナは顔を少し赤らめた。
「で、母上。先程の『 ぞどどおじでず、ガイゼフ。ごでが、ぼっぼーめいぶず。ぎだどごーずい、でふ』とは?」
「……貴方、解ってて言っていますね……?」
「私だけが理解できても、仕方がありませんから。ここは、情報共有しましょう」
知っていて、黙っていた仕返しとばかりに、カイゼルが言い放つ。
アリスフィーナは咳払いを一つ、精一杯の、威厳らしきものを保つように口を開く。
「その通りです、カイゼル。これが、北方名物『北の香水』です。勿論、皮肉ですが……」
「はぁ……? 香……水……?」と、レナード。
「何ですかそれは? これが香水!?」口走るノルン。
「簡単に言えば、エルスリード……いえ、エルベリオンという国は、見てくれは立派なのですが、『実』が伴わぬ、伝統や誇りが先走り過ぎている、云わば、虚構と退廃の国なのです。特に衛生面は最悪です。戦力軍は、持ち合わせておりませんが、上下水道を完備している、我等がカウベルとは真逆ですね」
それを聞いたレナードは、身を震わせる。
「で、では……路面が異常にぬかるんでいたのは……」
レナードの目を覆いたくなるような事実を、彼女は答える。
「ご想像の通りですよ、レナード様。馬糞やその他家畜の糞尿、一般家庭のそれまで、彼等は道端に捨てます。そしてそれを誰も処理しません、民草にも浸透している『誇り』とやらで。年に一回、雇われの魔導師が『浄化の術』を掛けにくるぐらいです」
「そして……今は……夏場過ぎ……乾燥と臭いの充満が……うっぷ……」
ラーナが、慌ててノルンの背中を擦る。
「だからと言って、この国が『弱い』とは言えません。現状、アガルトラントの聖堂騎士団と、まともに渡り合えるのは、エルベリオンの騎士団だけです。西の大国、ドレスディーンでさえ、今は北方に劣ります」
アリスフィーナの各国の力関係を、真剣な眼差しで聞き入るカイゼル。
「ともかく、今は、慣れるしかないです……呼吸はなるべく鼻で。吐きそうになったら吐く。もう先に言っておきますが、帝都は、こんなものではありませんよ、と……」
レナードは、ラーナの膝上に倒れていたのに気付くと、謝りながら飛びのく。微笑みながら、首を振るラーナ。
彼は、アリスフィーナの言葉に座り込む。
「やれやれ……これでは、色町どころではないな……」
ボソリと独り言を漏らす。それを耳にしたラーナが、ムスっとした表情で唇を尖らせた。
一行は、悪臭に悩まされながら、一件の高級な宿に飛び込んだ。貴族を相手にする商売ならば、多少は臭いの対処もマシだろう、という考えである。
その考えは的を射ており、高級宿の敷地内だけは掃除の手が行き届いていた。
アリスフィーナは、二階の一番良い部屋を二つ取り、何はともあれまずは風呂で、汚れと臭いを落としたかった。カイゼルとレナードの服は、花の香りを付けた浄化の術で洗浄し、自分とメイド二人は収納門から、新しい着替えを出した。
「ですが、意外と食事はイケるんですよね、不思議と……」
アリスフィーナは、エルベリオン名物の、ヴィルストという、香辛料の効いた肉の腸詰めを、術で冷やした黒エールで胃に流し込みながら評する。
「本当だ……美味しいですね。これは……」
珍しくカイゼルも褒める。
「エールもコクが深くて、腸詰めと良く合いますね。飲み過ぎないよう、気を付けないとな……」
と、いいつつレナードは、三杯目のエールを注ぎ足す。
「このカルトフの薄切りを、油で揚げたのもなかなか……」
「キュベーの酢漬けも、クセになりますね!」
ノルンとラーナも、久しぶりに、人の作った料理に舌鼓を打った。今夜の二人は、いつものメイド服ではなく、洒落たナイトドレスに身を包んでいる。
銀髪を結い上げたノルンと、ふわりとした、茶色の長い巻き毛を垂らしたラーナ。どこの社交界に出しても恥ずかしくない、淑女然としていた。
「先程、調理場を覗かせてもらいましたが、そこは普通に、気を使っているようで、安心しましたよ」
アリスフィーナも、二杯目のエールを、喉を鳴らしながら飲んだ。
旅の家族は、客室で海外の料理を快く楽しんだ。
レナードは夜の夕涼みとばかりに、中庭の長椅子に座り、煙管に火を付けて食後の一服と洒落込んでいた。街中ほどの悪臭は無いので、幾分か落ち着けた。
「お休みになられないのですか? レナード様。お疲れでしょうに」
エントランスを抜けて、中庭に出てきたラーナが、レナードに声を掛けた。
目尻が少し下がった、柔和で優し気な眼差しの彼女は、メイド服の時とは、また違った魅力に溢れていた。波打つ長い髪が、北の夜風にふわりと流れている。
「ラーナさん。ええ、少し、エールを覚ましに……です」
「ふふ。私も、久しぶりに頂いてしまいました。お隣、いいですか?」
レナードは立ち上がると、手を椅子に向け「どうぞ」と招く。そして彼女が座る間際に、チーフを広げて着地場所にそっと敷いた。ラーナは、目線で礼を言うと静かに座った。
「あっ、済みません、煙管、消しましょうか?」
「いえ、大丈夫です。亡くなった主人も好きでしたので……」
「……そうですか、それは御気の毒、です」
「五年も前の話です。気遣って下さって、ありがとうございます。ところでレナード様は、ずっとカウベルに住んでいらっしゃったのです?」
薄く煙を吐きながらレナードが口を開く。
「いえ、当時は冒険者を営んでいました。七年前に、西の視察で各地を回っておられた、ブレナハン陛下に拾われて、カウベルへ。色々旅をしていましたから、読み書きも多少の語学も嗜んでいたので、戦える文官として、引き立てて下さって。陛下は私の恩人ですね」
ラーナは口に手を当て「まあ、陛下から直接のお声掛けとは……やっぱり、優秀なお方でしたのね」と再認識した。
「いやそんな……おかげであっち行け、こっち行けと、便利にコキ使われていますよ……」
「ふふ……それは、信頼が厚い証拠ですね」
二人は顔を合わせて笑い合った。
「私からも一つ、よいでしょうか? あの、お子様は、いらっしゃるので?」
「はい。ジークルーネ家のメイド達は、全員子持ちの熟練母親軍団ですから。私も、三人の娘がいますよ」
「それは……お母様に似て、可愛い娘さん達なのでしょうね」
「書記官殿はお上手ですね。はい、とても可愛いですよ。もう、三人ともとっくに独立して、子持ちですから。私、こう見えても、130歳のおばあちゃんなんです!」
目尻を下げて、にっこりと笑うラーナ。
「ホルスタの女性は皆、若々しいですからね。ですが、おばあちゃんという感覚はまるで……」
アリスフィーナは二階のテラスから、中庭の二人の様子を、腕組みをしながら指を「トントン」として、じっと見ていた。
「母上、野暮は駄目ですからね」
「そうですよ、アリスフィーナ様。『人の恋路を邪魔する者は、豚に噛まれて何とやら』です」
「そんな豚は腸詰にして、食べてあげますよ」
結局、黒エールを5杯飲み、半ば赤ら顔で、鼻息を荒くしながら言い放つ。
「まあ、あの二人は、アリストからこっち、互いの距離を縮めていましたから、こうなるのも時間の問題だったのでは」
アリスフィーナは、大きく息を吐いた。
「ラーナは、そんな必要も無いのに、どこかで自分を責めていますからね……。普段の明るさは、その裏返しです……って貴方達も、そうやって、覗きにきてるではないですか?」
「部下の健康状態の把握も、仕事ですから」
「レナードは友人です。後で、冷やかす口実が要るのですよ」
「カイゼル……貴方その内、大事なお友達を無くしますよ……? 母上ちょっと心配……」
二人の会話は徐々に弾みだし、レナードが頭を掻いて笑う。
「モゥ! ラーナは、最愛のご主人を亡くしてから、ずっと寂しい想いをしているのです! 愛想笑いなんてしていないで、さっさと抱き締めておあげなさい! この『へたれナード!』」
「ぶっ……!」
瞬間、カイゼルは噴き出し、口を押さえて後ろを向いた。ノルンも両手で顔を覆い、肩を震わせた。
(……油断した……! この人に隙を見せると、有り得ない角度からぶっこんで来る……!)
「メイドのお仕事は、交代制で四日住み込みで入って、三日は家に帰るんです。でもおうちは、がらぁんとしてて……なぁんにもなくて……気晴らしに料理の研究をしても、結局自分で食べて……」
レナードはラーナの独白を、無言で聴いた。
「でも……この旅で、私の作った料理を『美味しい、美味しい!』と、毎日おかわりをして、喜んでくれる人と、出会ってしまいました……あの人を、裏切ってしまうかもしれないのに……!」
ラーナの目尻に、涙が零れんばかりに溜まりだす。
ホルスタの「愛するこころ」は、広く、そして深い――
レナードはそっと、彼女の目尻に指を差し伸べ、優しく涙を掬った。
「私……いえ、俺なら、料理の研究を、お手伝いできると思いますよ」
「わたし……おばあちゃんですよ……」
「はい……」
「まだ……死んだ主人の影を、引きずっている女なんですよ……」
「はい……」
「でしたら……色町なんかに行かないで……」
「はい……」
風が吹いた――
「好きだよ。ラーナ」
「わたしも、愛しています! レナード!」
中庭の花が、三つの月に照らされて、舞い踊った。
【7】
互いの唇を、ゆっくりと離す二人。
少し、照れ臭そうに微笑むレナード。
これ以上にない、幸せな笑みを浮かべるラーナ。
「やりましたね! ラーナ! 素敵ですよ!」
(とても、綺麗な笑顔です……)
テラスから拳を上げ、声を張り上げるアリスフィーナ。
拍手を贈るノルン。二人を祝福するような眼差しのカイゼル。
少し驚きながらも、照れながら頭を下げるラーナ。
愕然とした表情のレナード。
「ええっ……ひょっとして……全部観られてたっ……!?」
ラーナが笑いながら、レナードの手をとって、エントランスへ導いた。
「おめでとうございます、レナード。大人の男性の格好良さが、よく解りましたよ」
「カイゼル君も人が悪いよ……まあ『格好良さ』は、否定しない……!」
軽く握手を交わす二人。
「これでめでたく、ジークルーネ家入りですね」
「いや、私は王宮仕えなのだが……」
カイゼルの言葉に、少し戸惑うレナード。
「母上が、貴方のような優秀な人材を、野放しにすると思いますか? 母上から逃げられる者など、この地上には、誰一人として存在しません。大公府勤務は確定かと」
「なにそれこわい」
背筋を震わせるレナード。
「尤も、先程までは『さっさと抱き締めろ!この、へたれナード!』と、喚いていましたが」
「なにそれひどい」
ラーナとアリスフィーナは、両手を合わせて喜びを分かち合っていた。
「アリス様! 年甲斐もなく、ちょっと頑張っちゃいました!」
「やっと、自分を許せるようになったのですね。偉いですよ、ラーナ」
アリスフィーナは、ラーナをぎゅっと抱き締めた。
「それに女は、いくつになっても『愛と恋』が、生きる原動力なのですから!」
「アリスフィーナ様が言うと、この世の誰よりも、説得力がある言葉ですね」
ノルンがラーナの頭を撫でながら頷いた。
三人は、抱き合いながら顔を綻ばせた。
客室の前――
「坊ちゃま……そんなお気遣い、申し訳ないです……」
「遠慮しないでいいですよ、ラーナ。二人の気持ちが結ばれた、めでたい日ですからね。そんな二人を別の部屋にするなど、ジークルーネ家の長子として、できようはずがありません」
「カイゼル君……」
そんな長男の様子を「この子ったら、わかってんじゃーん」とばかりに、ほくそ笑むアリスフィーナ。
そしてラーナに向かって「ビッ!」と、親指を立てて見せる。
(いいですか、ラーナ! 二度と「色町」なんて単語を吐けぬよう、徹底的に骨抜きにしてしまいなさい!)
ラーナは熱の籠った視線で、アリスフィーナに頷いて見せる。
(はい! アリス様! 熟練ホルスタの手管で、必ずや!)
レナードは頭を少し下げ、胸に手を当て、手をラーナに差し伸べた。
ラーナは頬を染め、膝を軽く折り、レナードの手を取った。
レナードにエスコートされたラーナは、部屋へと導かれて行った。
「良いお作法です」
ノルンが頷いて評した。
「扉と壁よ、音と衝撃を飲み込みなさい」
アリスフィーナが二人の部屋に向かって、完全防音と衝撃封じの術を施した。
「さぁて……後は若い二人に任せて、私達も休みましょう。今日は、疲れました」
背伸びをして、首元を軽く叩いた。
「まあ……何となく、予想はできましたが……」
広いベッドに横たわるカイゼルの両脇には、髪を解き、薄手の夜着に着替えた、アリスフィーナとノルンがぴったりと寄り添っていた。
「でしたら観念して、おとなしく、私達の抱き枕になる事です。ふあぁ……」
アリスフィーナが大きな欠伸をした。
「もう一台ベッドがあるのに、これ、一緒に寝る意味あります?」
可愛らしい刺繍が施された、就寝帽をかぶせられたカイゼルが、ごく当たり前の疑問を吐く。
「カイゼル様、昔を思い出しますね。広く敷いたお布団に、皆で大の字になって……」
「それ……かなり、前の話ですよ。ノルン」
両腕と両脚を完全に極められ、身動きがとれないカイゼルは、全てを諦めて目を瞑った。
そして、北の大地の夜は更けていった――
翌朝目覚めたカイゼルは、ベッドで180度回転をして、万歳しながら大口を開け、涎を垂らしている母親の姿を目撃する。
(……何をどうしたら、こうなるんだ……)
第二節:北方からの招待状(下)に続く――――




