第一節:アリスフィーナという者
【1】
一瞬の突風に弄ばれたアリスフィーナは、首のネッカチーフを解き、手櫛で髪を梳くと、先端を軽く纏めた。
アリスフィーナ――
姓名を「ラ・アリスフィーナ・ジークルーネ・エル・カウベル」と云う。
経済大国である、カウベル王国の王族に名を連ね、またジークルーネ家当主、王国大公爵位でもあった。
彼女は、王位継承権を永久に放棄し、魔導術の大家として国と民の為にその力を尽くし、見守り続ける事を、その名と魂に誓っていた。
悠久の時を生きるエルダー族の中でも、アリスフィーナは世界で唯一「寿命の概念が無い」完全なるエルダーという存在として、生を受けた。故に永遠――
エルダー達の殆どは、その寿命を全うする事無く、生きる事に飽いた彼等は、刃で自ら命を絶つか、石や木に身をやつし、眠り続ける緩やかなる死を選ぶ。
神々の始まりの子と云われる、古代種のエルダー族は、子を成す事にも積極性を欠き、長き生を漫然と過ごす胡乱な種族であった。
しかし、どんな物事にも例外があるように、アリスフィーナの父親は、慌ただしい生の人間族の世界に、強い興味を持った、所謂ところの変人であった。
アリスフィーナが、他のエルダーと一線を画する異質な存在として、この父親と、もう一人の要因が、深く繋がっていた。
即ち、アリスフィーナの母親である。
父アベルリオネルと、母エスリンは、人間族の国の冒険者ギルドで、運命的な出会いを果たす。
魔導師エスリンは、エルフ族の容姿をしていたが、それは正体を隠す仮の姿であった。
アリスフィーナの母親は、ホルスタ族という、神々から《 愛 》の加護を授かった、古代種であった。
ホルスタ族は元来、怒りや憎しみの感情が非常に希薄であり、その代わりに愛する事と、受け入れる事を至上とする本能を宿す、不幸な程に平和的な種族であった。
種族特性として、男児が生まれる事は稀であり、それ故、その歴史は凄惨を極める。
戦いや争いの感情から無縁で、従順なホルスタ達は、他人類にただ蹂躙され、犯され、奴隷に、商品に、慰み者にされ、見世物で殺されるという、古から辛苦の足跡を刻んできた。
それでも絶滅せずに今日まで在ったのは、古代種ゆえの寿命の長さと、ホルスタ族の愛を受け入れる、哀しいまでの本能で、子を残し続けた結果であった。
加えて、ホルスタ達は水さえ有れば、妊娠せずとも、栄養価の高い乳を自己生産して、辛うじて食い繋ぐ事ができた。せめて飢えぬようと、力の無い彼女達へ与えられた、愛の女神からの慈悲であった。
そしてある時、長く苦しい歴史を歩んできたホルスタ族に、転機が訪れる。
とある国の、人間族の貴族が山間の移動中、事故で重症を負う。それを偶然救い出したのが、ホルスタ族の、隠れ集落の住民であった。
満足に食べる物も無く、力なく瘦せ細った身体で、命を削って乳を搾り、それを与えられたその貴族は、辛うじて命を長ら得た。
そんな彼女達の献身的な愛情に、強く心を打たれたその貴族は、領地へホルスタの集落を招き入れた。
彼は、自分を最初に助けてくれた女性を妻として迎え、ホルスタ族の保護と安寧を呼びかけた。
大陸中に隠れ住んでいたホルスタ族は、広まった噂を聞きつけ、危険な旅を顧みず保護を求めて、続々と領地に集まってきた。
ホルスタ族の哀しみの歴史は、ここで、ようやく幕を閉じた――
彼こそが、カウベルの祖にして、エルザリス王国辺境太守、ヘンリー伯であった。
そして、安住の地を得たホルスタ族は、今までの不幸を払拭する、平穏な暮らしを手に入れた。
一族の中で特異とも云える、魔導術の才を持って生まれたエスリンは、カウベル領の僻地に居を構える「枯れ谷の魔女」に、77番目の弟子として師事するようになる。
エスリンは、生涯で三人の子を産んだ。
ホルスタ族の、平和を象徴する記念祭の日に産まれた、長女シンシア。
アベルリオネルとの間に産まれた、次女アリスフィーナ。
エスリンが冒険の先で宿した、運命の愛の聖女である、三女アイラ。
カウベル家最後の当主、ハインツ・カウベルも時を同じくして、アイラ生誕の年に産声を上げた。
果たして、奇跡の成せる御業なのだろうか。
アリスフィーナは、エルダーの加護「永らえるいのち」と、ホルスタの「愛するこころ」を、完全に覚醒した状態で、生まれてきたのである。
双方の完全なる血と特性は、彼女の中で融け合い混じり、やがて一つになった。
彼女はこれまでの生で、「もう終わりにしたい」と願う事が何度もあったが、他のエルダーのように、自害する事はなかった。
正確に云えば、できなかった――
死のうとしても、ホルスタの強い愛の本能が、自己愛として働き、アリスフィーナの心に枷をかけ、楔を打ち込んでくるのである。
自分でどうにかできない以上、外から終わらせて貰うしか、手だてが無かった。
しかし、魔導術を極めて、研鑽を重ねてきた彼女を害せる者など、何処にもいなかった。
そもそもホルスタ族は、本能的に闘争を嫌うので、尚更、死ねない理由が募るだけであった。
死するならば最早、奇跡的な事故に遭遇するのを、祈る事しかできないのである。
アリスフィーナが、それをはっきりと悟った時には、激しく嘆き、慟哭し、絶望の淵に突き落とされた事もあった。
だが彼女は、今もこうして、カウベルの地に立っている。それはつまり、そういう事なのだ。
アリスフィーナは、丘をゆっくりと歩き出した。
彼女が心から愛した者達は、父を除き、皆、遠い記憶の彼方の住人になってしまったが、その姿は今でも鮮明に蘇ってくる。
だからアリスフィーナは、生きていける。これまでも、そしてこれからも。
自分が覚えてさえいれば、皆もまた、永遠なのだから――
(そういえば……最近、笑っていませんね……)
彼女にとっての「最近」とは、十数年単位である。
(昔はそんな事、ありませんでしたのに……)
アリスフィーナがカウベル家で、ホルスタのメイドとして奉公していた時には、毎日笑顔が溢れていた。同じくメイドの姉妹達がいて、心より愛するご主人のハインツと、その家族達が、共にいたからに他ならなかった。
理由も解っていたし、自覚もしていた。きっと自分は寂しいのだろうと。
魔導術を躍起になって、極めるまで学び研鑽してきたのも、その寂しさを紛らわす為に、何かに打ち込んでいたかったのだ。
今までも人肌が恋しくなると、自ら男達、時には女達に、温もりを求め続けてきたのも、根底にはやはり、寂しさから来るものが、あったからなのであろう。
更に、魔導術で孕まぬようにも出来たので、そこは遠慮する事は無かった。
特に、子供が欲しいと思った事も無かったが、長い生涯で、母と同じ三人ぐらいはいつか産んでもいいかな、と考えるだけであった。
「そういえば……夕食は、王に誘われていたのでしたね」
【2】
カウベル王宮「天輪城:セラフィ・ベル・ロンド」は、人間族やエルフ族のような、石造りの尖塔を持つ建築物ではなく、円輪状の巨大な屋敷であった。
その広大な中央中庭に、玉座のある王の館が鎮座する佇まいで、極めて独特な形状であり、他国では、このような城は見られなかった。
「ようこそ参られた! 先生よ!」
アリスフィーナは、王族が住まう、王の館の貴賓室に招かれていた。
豪奢な調度品が立ち並び、白い大理石のテーブルの上座には、大柄な男が座っていた。
男は、先端を丸く削った角を生やしており、口髭を蓄えた、銀髪の偉丈夫であった。見た目は30代半ばといった風体である。
隣には、穏やかな微笑みをたたえた、20代後半の女性が静かに座っていた。男と同じく、先端を丸く削られたごく短い角が生えており、角の下から横へ伸びるように、山羊のような垂れた耳があった。
ふっくらと肉付きがよく、特に、乳房が迫り出ているのが目立った。
二人とも若々しく、気力が満ちた年齢に見えるが、100年以上生きていた。
これこそが、ホルスタ族の肉体的特徴であり、その人物の最盛期で、老いが止まるのであった。
個人差はあるが、概ね男性は30代から40前半の働き盛りの辺り、女性は20代半ばから30歳前後の子を授かりやすく、産むに適した頃合いである。
平均寿命は200年から、長くて300年程であり、この事が判明したのは、ホルスタ族が、カウベル領に住まうようになってからであった。
それまでは、痩せ型の種族だと思われていたが、十分な栄養状態を保てば、彼女のような体型が標準的なのである。
それは、いかに彼女達ホルスタの民の、苦難に満ちた歴史だったのかを物語っていた。
「ブレナハン王陛下、先生はよして下さいと……」
アリスフィーナは小さな溜息を吐くと、首を左右に振った。
「まぁまぁ今宵は三人だけの、ごく私的な小さな夜会ですから。ねぇ、先生」
ホルスタの女性は手を合わせ、にこやかに笑いかける。
「王后陛下まで……モゥ……。解りましたよ、マリアンヌ。しばしの間、貴方達の先生に戻りましょう」
「流石は先生、そうでなくてはな!」
アリスフィーナは、かつて家庭教師として、ブレナハンと許嫁のマリアンヌに、学問と魔導術を教えていたのである。
彼等だけではなく、これまでの王族の多くの者が、アリスフィーナの生徒であった。
「しかし、こうやって、先生と三人で食卓を囲むのは、実に久しいな。あの頃を思い出す」
上品な料理が次々と並べられ、ブレナハンは、上機嫌でカウベル名産の、冷えた乳で割った蒸留酒を呷った。
「そうですね、三人だけというのも、貴方達に教鞭を振るっていた時以来でしょうかね」
「懐かしいです……毎日、新しい知識を得られて、楽しくて仕方がありませんでした」
「マリアンヌは優等生でしたからね、とても教え甲斐がありましたよ。ブレナハンは、攻撃魔術ばかり覚えようとしていましたが……」
アリスフィーナは、半開きの目をジロリと王へ向けた。
「いっ、いや……まぁ致し方なかろう……。ホルスタの王子は、我一人だった故な。将来一族を率いる者として、武名ある男でありたいと思っていただけよ……!」
ブレナハンは、バツの悪そうに、視線を逸らし頭を掻いた。
ホルスタ達の暮らしが豊かになっても、やはり、男児は生まれて来ず、一時代に多くて三人がこれまでの最高人数であった。
ホルスタの男は「純血」と呼ばれ、闘争心を持ち各々強い魔力を帯びており、その戦闘能力は、まさに種族の護り手であった。
ホルスタの聖女アイラと、ハインツの間に儲けられた、カウベル初代国王ジークランド以降、王家には必ず、一人の男児が生まれるようになった。
だが不思議な事に、いくら側室や妾を増やしても、一人以上は生まれてこなかった。
過去に幼い王子が事故で亡くなる悲劇が起こり、国中が嘆き哀しんだが、二年後には、新しい王子が生まれてきたのである。
この事から王家は、「一人だけ」確実に男児を得る伝統が根付いた。
ブレナハンは、初代王から七代目に当たる。
まだ若かったが気概に富み、穏やかな治世を布く、良き王であった。
「まぁ、正しき政を為しているので、良しとします……」
ブレナハンは元鬼教師の赦しを得ると、やれやれと嘆息した。楽しい食事会が、説教部屋になっては、たまったものではない。
「そういえば、前からお聞きしたかったのですが、先生は、エルダーのお姿でいる事が多いですが、何か、ご理由でもあるのですか?」
マリアンヌが、小首を傾げて訊いた。
「ああ……言っていませんでしたか。私は、ホルスタの加護が強すぎますからね。周囲への影響もありますので、『変身魔法』で、普段はホルスタの特性を、できるだけ抑えているのです」
それを聞いたマリアンヌは「それは、なるほど……確かに……」と呟いた。
「それと……」
「大公閣下に於かれましては、最近また、乳の納品が滞っているとか。貴女の物は、特別製ですから替えが利かんのです。もう、二年分も予約が溜っておられますぞ!」
「って、口煩く言う人達がいるからですよ……」
王陛下の言葉に、肩を竦ませる大公爵。
ホルスタ乳製品は、カウベル王国の特産品であり、山羊の乳とは全く比べ物にならない品質で、他では真似できない、云わば独占状態にある。
この国を、経済大国たらしめる、大きな要因であった。
これこそが、当時のハインツ・カウベルの狙いであり、ホルスタの民を護る為の、最善手であると云えた。
「それはいけませんわね、先生。お客様達を待たせては……ふふっ……」
マリアンヌは、口に手を当て上品に笑った。
「そんなものは、ある程度渋っているぐらいが丁度良いのです。勝手に、価値も上がりますからね。とは云え、溜めすぎるのも悪手ですので、近い内に、三ヶ月分ほどまとめて納品しますよ」
パタパタと手を振るアリスフィーナ。
訝しむような視線で腕を組むブレナハン。
「ちなみに、直近のご予約の方は、どちら様ですか?」
「神聖中央アガルトラント教国の、聖王陛下から、20瓶のご予約を頂戴しております。その他、各国の偉い方々、著名人や大商会からも、まだかまだかと、責付かれている身にもなって頂きたい!」
「うっ……!」
ブレナハンが一気に捲し立て、今度は、アリスフィーナがバツの悪い顔をする番だった。
「わ、わかりました……聖王陛下の分だけは、明日にでも納品させて頂きます……後は、追々……」
「わたくしも、ロイヤレット・シリーズの販売責任者でもありますし、我が国の誇る『ブランディス』を冠する、アリス先生にも頑張って頂かねば、ですわね……!」
マリアンヌも、これはと追撃をする。
アリスフィーナにとって、今夜は、久しぶりの楽しい食事会となり、自然と会話も進む。
「ところで先生は、結婚はせぬのか? 今まで、引く手数多だったろうに」
「数多過ぎるからこそ、できないのですよ。恨みは、なるだけ買いたくはありませんからね」
アリスフィーナは、ナプキンで軽く口を拭きながら答えた。
「ふむ……」
「それに、私はかつて、死を従えるだの、大娼婦などと称された魔女ですよ。それでは、生まれてくる子供が、可哀そうではありませんか。人々の謗りを、受けてしまいます」
「そんな事は……誰も……」
マリアンヌが、傷ましい表情を浮かべる。
「先生よ、子供はいいぞ。生きる活力になる。この子の為ならばと、な」
「結婚も良いものですよ。例え許嫁であったとしても、この人の妻になれて、わたくしは幸せです」
「貴方達がオシドリ夫婦で子沢山なのは、この国にとって、とても良い事です。ですが、私には……」
アリスフィーナは、少し寂しげに笑った。
『…………』
国王夫妻は、少し困った様に顔を見合わせた。
「先生、実はだな、会ってやって欲しい人物がおるのだ」
ブレナハンは、意を決した様に口を開いた。
「はて、どなた様でしょうか?」
「最近引退した、フェルディナンド元宰相は知っていよう。彼だ」
「ええ、赤髪の宰相様ですよね。人間族であっても、現役を退くには、まだまだお若い方だったかと」
王は、少し沈痛な面持ちで続けた。
「これは、公にはしておらなんだが……あの男は、胸の病に犯されてしまっていてな。医師団が云うには、もう、あまり長くは生きれんそうだ」
「何と……そんな素振りは一度も……!」
アリスフィーナは、目を開いて驚いた。
「有能で、惜しい男だったが、こればかりは……な……。本人の希望でな、アリス先生と会って話がしたいそうだ。今は気候の良い地の実家で、ゆっくりと静養しておる」
彼女は顎に手を当て目を瞑り、しばらく考えを巡らせた。
やがて口を開き――
「解りました。お会い致しましょう」
【3】
フェルディナンド・ミュゼーは39歳の人間族であり、カウベル国の田舎の農村出身であったが、幼い頃から機転が利く、頭の良い子供で、両親が苦労をして、王都へと進学させたのであった。
それからは、本人の努力も相まって、首席で学校を卒業すると、カウベルの役に立ちたいと思い、王城勤めの役人の職に就く。
その後、その才覚はどんどん輝きを増し、気付けば28歳の若さで宰相の座へと昇り詰めていた。そして才知辣腕を振るい、十年以上に渡り、カウベルの政治に一役買っていた人物である。
(そう云えば、顔を合わせる度に「納品!納品!」と、目を吊り上げて、言われていましたね……。実は、苦手なんですよね……あの方……)
さて、会ったところでどうしたものかと、思いを巡らせている間に、大公家の馬車は、元宰相の家の前に着いた。
それは、片田舎には不釣り合いな程に、立派な家であった。脇に見える小さな建物は、旧邸宅だろうか。現在は、離れか物置として、使われているのであろう。
(きっと、親孝行をしたのですね……案外と、良い方なのかもしれません。少なくとも、ご両親にとっては、ですが……)
呼び鐘を鳴らすと、人間族の女中が出てきて、伺っておりますと中へ通された。
案内された部屋は、落ち着いた雰囲気の書斎で、ソファに深く腰を掛けた元宰相が、読書を嗜んでいた。
「フェルディナンド様。国王陛下のご紹介に預かり、アリスフィーナ・ジークルーネが罷り越しました」
アリスフィーナは、ほんの軽く膝を折り、軽やかに挨拶の言葉を送った。
今や一般人となった彼に対して、大仰な挨拶は却って無礼だと、彼女は理解していた。
アリスフィーナに気付いたフェルディナンドは、慌てて立とうとするが、彼女は手でそれを制した。
「どうか、お座りになったままで。存じておりますので」
限りなく、優しい口調と眼差しで諭す。
すると、元宰相は少し照れ臭そうに、咳払いをして姿勢を正し、アリスフィーナに向き合った。
「では、失礼してこのままで。まさか、本当にお会いできるとは、思っておりませんでしたもので」
彼はそう言うと、自身と向かいのソファに座るようにと手で促した。
アリスフィーナは「では、失礼をば」と、ドレスの衣擦れの音も立てずに座った。
彼女は、仕事場以外のフェルディナンドを見たのは初めてであり、今まで抱いていた印象とは、まるで別人であるのを意識した。
決して二枚目では無かったが、しっかりとした背筋と落ち着いた物腰、少しだけはにかんだ穏やかな目元。これが彼の本来の姿であると、彼女は正しく理解した。
「少し……お痩せになられましたか……?」
「お恥ずかしながら……無様な姿をお見せしまして、申し訳ございません。アリスフィーナ様」
「いいえ……てっきり、私は貴方に嫌われていると、思っていたものでして……」
それを聞いたフェルディナンドは、頭に手を当てながら、言い訳の様に答えた。
「そんな滅相も……確かに、在職中は警戒こそしておりましたが、嫌うだなんて、そんな事は毛頭ございませんよ。寧ろ……」
「寧ろ?」
アリスフィーナは、覗き込むように首を傾げ、フェルディナンドの言葉を待った。
「……あまりにも美しく聡明で、私など近寄り難い存在であり、最初は傾国の美姫だと、手前勝手に思い違いをしていただけですから。そのまま照れ隠しにズルズルと……王国宰相だというのに、情けない限りです……」
彼はそう言うと、幾分か皺の増えた顔を真っ赤にして、少し俯き手を組んだ。
「それに、現役時は、気が張っていた、というのもありましたので……その……」
アリスフィーナは、胸の奥から湧きだす、暖かな感覚を心地良く感じていた。
「先日、納品は済ませてきましたよ? ほんの一ヶ月分だけですが……!」
彼女は、悪戯っぽくフェルディナンドを見つめて、自然と微笑んだ。
「いやぁ、当時は小姑の様に申し訳ない……! はっはっはっ!」
いつしか、二人の間には、温かな空気が漂っていた。
女中が、そっと、二人に紅茶を差し出して、一礼して下がる。
二人は紅茶をゆっくりと飲み、一息着いた。
「済みません。少し、舞い上がってしまいました。えっと、何の話だったか……」
アリスフィーナは目を細めて、少し身を乗り出す。
「貴方様が、実は私を好いていた、という話ですわ」
「えっ、あっいや……そうですね。その通りです……! 私は、分不相応にもアリスフィーナ様、貴女様をお慕い申しておりました」
彼は、いよいよ観念したのか、自分の胸の内を曝け出した。
「当初、この想いは、しまったまま、墓まで持って行くつもりでした。ですが、己の死期を悟ると、欲深くなるものだと、今更ながら思い知りました……」
「はい……」
「自分がこれまで成してきた爪痕を、どんな形でもいいので、残しておきたいという欲求が、日に日に募ってゆき、暇を請う際に、陛下に相談させて頂いた次第です。どうか、定命の儚い叶わぬ願いと思って、笑ってやって下さい……」
フェルディナンドは、深々と頭を下げた。
アリスフィーナは、項垂れるフェルディナンドをじっと見つめると、その手を宝物でも扱うように、そっと、両手で大事そうに包んだ。
「いいえ、笑いません。ですが、本当に私でよいのですか……? 人類の歴史に、悪女として名を刻んできた、この私で……?」
赤髪の元宰相は、大きく首を振って、手を強く握り返した。
「私は貴女がいいのです! 貴女だけが欲しかったのです! アリスフィーナ!」
人の想いというのは、何と熱く尊いものなのだろうかと、胸の内に灯った火に、焦がされる感覚を覚え、身を委ねる。
彼女は、眼に涙を浮かべて静かに応えた――
「恋人の契約、謹んで承りました。フェルディナンド様……!」
頬を染めアリスフィーナは、フェルディナンドと、深く口付けを交わした。
本日のところは顔見せという事で、アリスフィーナは、フェルディナンドの両親に挨拶を済ますと、三日後にまた訪ねると約束を残し、帰路に就いた。
アリスフィーナは、馬車の窓から外を眺めながら、頬と胸に手を当て、先程のフェルディナンドの告白を、想い返していた。
そっと、唇に指を這わすと、自然と頬が紅潮してくるのが解る。
(私はまだ……こんなにも、笑えるではないですか……)
【4】
三日後の正午前、アリスフィーナは、再びフェルディナンドを訪ねた。
本日は馬車ではなく、村の入口付近の木陰に、瞬導転移の術で移動した。
魔導術の存在が公になっているとはいえ、市井の民はおろか、増してや長閑な村落だと、村人達に恐れを抱かせてしまうだろう、という配慮である。
先日の様に案内されると、フェルディナントはやや緊張した面持ちで、今度は立って出迎えた。
二人は、一瞬視線を交わすと、気恥ずかしそうに顔を赤らめ、目を伏せた。
いい大人だからこそ、照れる事もあるのだった。
「ア、アリスフィーナ殿、お待ちしておりま……」
フェルディナンドは、顔を上げしっかりと向き合い、挨拶の言葉を発したが、最後まで言えなかった。
花をあしらった、白い鍔広の貴婦人帽子。
ゆるく三つ編みに纏められた、長い金髪。
落ち着いた緑色の、ゆったりとした、膝下までのワンピースドレス。
やや荒い網目の、精緻に編み込まれた、白いニットショール。
上品な意匠を凝らした、白いパンプス。
両手に、大きめのバスケットを持った、本日のアリスフィーナの出で立ちである。
何より彼の目を惹いたのは、彼女の醸し出す、雰囲気と体型であった。
先日会った時よりも、豊満さが増しており、ふわりとしたワンピース越しでも、身体のシルエットが浮かび上がっている。
特に胸周りは、明らかに、存在感の主張が激しくなっていた。
エルダー化の変身魔法を解除した、アリスフィーナ本来の身体である。
その証拠に、エルダーの耳はそのままに、側頭部から垂れるように、ホルスタの耳も生えていた。
「ご、ご機嫌よう……フェルディナンド様……。その様に見つめられると、流石の私も、少し照れてしまいますわ……」
瞳はやや潤み、身体全体から漂う、しっとりとした艶やかな色香。
「えぇ……済みません……すっかり見惚れてしまいまして……どうぞ、お掛け下さい」
元々惹かれてこそいたが、それでも尚、一瞬で心を溶かされ、アリスフィーナの虜になったフェルディナンドは、持てる理性を振り絞って紳士的に振舞った。
それは、アリスフィーナが元来持つ、女性的魅力と、ホルスタの愛の加護の力の一端であった。
彼女が本気で魔力を乗せ、指向的に解き放てば、魅了の精神操作まで可能である。
使い方次第で、恐ろしい力を発揮するが、そこまでの強い加護を持つ者は、ホルスタの歴史でも、ほんの一握りであった。
アリスフィーナは、ソファに腰を掛けると、ほっと一息を吐いた。
「それが、本来のホルスタのお姿なのですね……話には伺っておりましたが、初めて拝見致しました。とても、そう、美しいです……とても……」
「おかげで、少し太ってしまって、お恥ずかしい限りです……ですが、恋人に隠し事は少ない方が良いかと思い、頑張って勇気を出してみました……!」
と、照れながら微笑むアリスフィーナに、更に、胸を撃ち抜かれるフェルディナンドであった。
「わ、私の事はどうか、フェルディと、お呼び下さい!」
「解りました、フェルディ様。では私の事もアリスと……」
「はい。改めまして、ようこそ、アリス……」
フェルディナンドは、やはりまだ照れが残るのか、指で頬を掻いた。
「ところでフェルディ様、昼食はもうお済になられましたか? もし、まだでしたらご一緒しませんか? 今日は、秋晴れの暖かな日ですので、お加減が良ければ外で座りながら……」
アリスフィーナは、持参のバスケットを持ち上げてみせた。
「ええ、是非とも!」
穏やかな風がそよぐ中、庭先のベンチで並んで座る二人。
アリスフィーナは、いそいそとバスケットを開けて、小さなテーブルに柔らかな白パンと乳の瓶、グラスを二つ並べた。
二枚に薄く切られた白パンの間には、上等な塩漬け肉にチーズとレタス、潰したゆで卵が挟まれていた。
「今朝、作ってきましたの。おかわりもありますからね」
アリスフィーナは、言いながら乳の瓶を開けグラスに注ぐ。真っ白な乳が、とくとくとグラスを満たしてゆく。混じりけの無い、美しく波打つ乳であった。
「お体を、障らない程度に冷やしていますので、どうぞ召し上がって下さい」
「これは……まさか……!」
驚きの表情で、乳の注がれたグラスを凝視するフェルディナンド。
「恋人特権です!」
アリスフィーナは、少し得意げに人差し指を立てて、飲むよう促した。
「では……頂きます」
フェルディナンドは、ゆっくりとグラスに口を着け、一口飲むと、舌に稲妻のような衝撃を受けた。
「美味い……美味すぎる……! 市販のホルスタの乳より遥かに濃厚で甘味が強い! それでいて流れるような喉越し……! これが……」
「ふふ……喜んで頂けたようで何よりです。さぁさ、パンも頂きましょう。これは口を大きく開けて、豪快にかぶり付くのが、美味しい食べ方なのですよ!」
二人は、微笑ましく昼食を始めた。
フェルディナンドは貪るように乳を飲み、パンを頬張る。まるで、小さな男の子に戻ったかの様な姿に、アリスフィーナは、目を細めて優しい笑みを浮かべた。
「ふぅ……ご馳走様です。いつ以来だろうか、こんなにも美味いと感じた食事は……」
「お粗末様でした。私の乳には食欲・精力増進の効果もありますので、そのおかげかもしれませんね」
「いや、それだけではないよ……アリス、貴女のおかげだ……」
長閑な田園風景を眺めながら、ゆっくりとした、優しい時間が流れた。収穫中の作物の黄金の束が、風に揺れている。
「良い所ですね、ここは……。気持ちが落ち着きます……」
「そうだね……アリス。私はね、この地を与えてくれたカウベルに、恩返しがしたかった。この平和な場所を守りたかったんだよ」
「10年間以上も、守ってこられましたよ……フェルディ様……」
アリスフィーナは、そっと、フェルディナンドの手を握った。
「もしも叶うのであれば……いや……私は、働き過ぎていたのかもしれないな……」
フェルディナンドは、少し寂しげに笑った。
アリスフィーナは、フェルディナンドの口を、たおやかに唇で塞いだ。
そして、部屋に戻った二人は、互いを求め結ばれた――
アリスフィーナは、フェルディナンドの体に負担をかけないよう、柔らかく、包み込むように受け入れつつ、情熱的に愛し合った。
彼女は、今まで経験してきたどの性交よりも、深い充足感と、心まで満たされた想いで、幸せを感じていた。
それから二人は、三日おきに顔を合わせ、会えない三日間は、想いを募らせ逢瀬を重ねた。
フェルディナンドの調子が良い時は、王都にお忍びのように出掛け、アリスフィーナは自分の屋敷に招待するなど、二人の時間を満喫した。
【5】
幸せな日々の中、アリスフィーナは、ある日突然に、倒れそうになる程の強い吐き気を覚え、三日間は動けずにいた。
こんな経験は、彼女の長い人生の中で、初めての事であった。
アリスフィーナは恋人に、心配は要らないと、使いを送り養生に徹したが、フェルディナンドの方から慌てて見舞いに訪ねてきた。
「モゥ……心配は不要だと……私は貴方のお体の……方が……」
ベッドに力無く横たわるアリスフィーナは、弱々しい声で恋人を嗜めた。
「それはそうだが……これは流石に心配にもなるさ」
フェルディナンドは、アリスフィーナの手を握りながら、沈痛な面持ちで恋人を見つめた。
「フェルディナンド様、アリスフィーナ様はご懐妊なされました。おめでとうございます」
傍仕えのホルスタが、フェルディナンドにそっと囁いた。
「えっ……? つまりは妊娠した、と。私の子供を……?」
アリスフィーナは、顔を赤らめ頷いた。
「うちのメイドは……皆、子持ちですから……すぐに解ったそうです……」
居並ぶメイド達が「うんうん」と頷いた。
「何と、何と……あぁ……アリス……ありがとう……!」
フェルディナンドは跪き、感謝の熱い涙を流した。
アリスフィーナは悪阻が落ち着くと、ひとまず王と王妃に目通りを願い出て、子を授かった事を報告した。
ブレナハンとマリアンヌは、まるで自分の事のように喜び、アリスフィーナに祝福の言葉を贈った。
王からは、男児でも女児でも、最初の子には「カウベル」の姓を与えるよう賜った。
つまりそれは、産まれてくる子は、王族の一員として認めるという事である。
フェルディナンドとは、流産の危険性を考慮して、直接の行為以外の方法で、その後も愛し合った。
彼は、アリスフィーナのお腹が、月日が経つにつれて徐々に大きくなってゆくのを、喜んで見守った。
エルダー化の変身魔法は、体型を変える事により、胎児にどんな影響があるか解らない以上、妊娠中は封印する事にした。
何より彼女自身が、ホルスタのままで産む事を望んでいたのだった。
アリスフィーナはお腹を優しく撫でながら、ついこの前まで、子供を産む事には興味が無い、と言い張っていた自分が、噓のようだと思った。
今は、自らの腹の中で、新たな命が徐々に育まれるにつれて、無常の喜びと、無限の愛情が湧きあがって来るのを感じていた。
「これが、母親になってゆく……という事なのでしょうか……」
一千年近く生きても、世の中には、まだまだ知らない事があるものだと、まるで他人事の様に感心する。
マリアンヌは、王妃業務の合間を縫って、時々訪ねてきた。
そして妊娠中の食生活やら役に立つ知恵等、様々な事を自身の経験から、アリスフィーナへ語って聞かせた。
アリスフィーナは、かつて自分が教える方だったのが、教えられる側に回る、不思議で貴重な体験を楽しんだ。そして、母親の大先輩である教え子を、頼もしそうに見つめた。
安定期に入ったアリスフィーナは、ある事実に気付く。妊娠中は、乳の出が恐ろしく良い事に。
よしそれならばと、今の内に、溜った負債を一気に消化してやろうと目論んだ。
この体では、本業の外交官は無理なので、別の仕事に勤しんだ方が建設的で、精神衛生上にも良いというものである。
時は過ぎ、すっかり大きなお腹になったアリスフィーナは、いよいよ初産の予定日を迎える。
出産は自宅の大公邸で行う事にし、数日前からフェルディナンドとも、一緒に暮らしていた。
陣中見舞いに訪れたブレナハンは、宮廷医師団を派遣しようと提案をするも、アリスフィーナのメイドである、ホルスタベテラン母親衆が「初産の母体が緊張しますので、私共でお産のお手伝いはします」と、きっぱり断られてしまう。
「……まあ、妻の時もそうだったが、こういう時の男共は、何の役に立たないどころか、一緒にいると本気で邪魔者扱いされる故、さっさと退散するぞ」
「ア、アリス!頑張っておくれよ! って王よ、そんな引っ張らないで下さい……」
アリスフィーナは、ブレナハンに引きずられるようにされ、出ていくフェルディナンドに、笑いながら手を振り見送った。
アリスフィーナは、出産部屋に選んだ小さな客間全体に、結界と持続性の浄化の術を施すと、ベッドに腰を掛けて、緊張した面持ちで水を飲んだ。
「アリスフィーナ様、私達ホルスタの身体は、骨盤も腰回りも丈夫で、分娩も比較的早い種族です。貴女様もご立派な安産型ですし、私共もおりますので、どうかご安心下さいませ」
「アリス様、任せて下さいね!」
「絶対に健康な赤ちゃん産んでもらうぞー!」
「おー! やったるでー!」
「ノルン……皆も、宜しくお願いしますね……んっ……? あれっ……いっ……た……」
アリスフィーナは眉を顰めて、お腹をさすった。
「早速、陣痛が始まりましたね、予定通りで素晴らしいです。初産はここからが少し長いので、まずは、お食事を頂きましょうか。お産は体力勝負ですから!」
「はぁ……食事ですか……お産って大変なのですね……。皆さん、当たり前の様に産んでいらっしゃいますので、てっきり……」
アリスフィーナは、温めた乳に浸した白パン二つと、蒸して柔らかく煮込んだ鳥肉のスープを、時折訪れる陣痛を堪えながら、ゆっくりと食べた。
彼女は、段々と陣痛が起こる間隔が短くなるにつれ、痛みが増してくるのを感じていた。
そして、五刻後に、本出産が始まった――
「んぁああっ! 痛いぃっ! 痛ぁいいっ! ぁぐぅっ!」
「はい、痛いですね。我慢して、練習した呼吸を繰り返して、しっかりいきんでいきましょう!」
ノルンは、痛みを訴えるアリスフィーナを、あしらうようにしながら、お産の呼吸を促した。
「すーっ……ふぅぅぅぅんーっ! すーっ……ふぅぅぅぅんーっ! ふーっ! ふーっ!」
【6】
本出産が始まってから二刻後――
控えの客室では、目を瞑り腕を組み、どっしりと構え座っているブレナハンと、対照的に神妙な顔付きで、忙しなく脚を振るわせているフェルディナンドが、今か今かと待っていた。
「落ち着かんか、元宰相。貴様の方が先にへばってしまうぞ」
「お産に入ってから、もう七刻も経っています……もしや、何かあったら……!」
「人間族の初産なら、もっと長いぞ。第一、お産ごときで先生が死ぬわけ無かろう。そもそもあの方は、基本的に殺しても死なん。それより、貴様の例の病気の方はどうなんだ?」
「ええ、見ての通り、小康状態を保てています。全て、アリスのおかげですよ。今は、私の体の事なんかより、彼女と赤子の心配を……あぁっ神様……!」
(現役時代は「鬼畜宰相」だの「鉄仮面」等と云われていた男が、変われば変わるものよ。先生は一体、どんな魔法を使ったのだ……?)
その時、メイドが扉を開けて、客室へと入ってきた。
「フェルディナンド様、ブレナハン陛下。男児がお産まれになられました。安産にて、母子共に健康でございます」
「ああ……良かった……! 本当に……!」
メイドは出産室に案内をすると、フェルディナンドへ向き直った。
「フェルディナンド様、産まれたばかりの赤ん坊は、音の聞こえ方が響くような感覚ですので、くれぐれも大きな音は、お気を付けて下さいませ」
「わ、わかった……」
フェルディナンドは、大きく深呼吸をする。
そして、ゆっくりと扉を開け中に入った。
アリスフィーナは産湯で綺麗になり、ほかほかと産着を着せられた、我が子を胸に抱くと、確かな重みと共に、命の尊さを感じた。
半ば、放心状態で彼女は、産まれたばかりの子を見つめた。
不思議と体が自然と動き、乳を与えた。すると赤子は、そうするのが当たり前の様に、懸命に吸い始める。
瞬間、アリスフィーナの内から、一気に愛の波動が迸り、我が子への愛おしさが湧き上がる。
「あぁ……あぁ……何と、何と可愛いのでしょうか……! 生まれてきてくれて、ありがとう。私の坊や……」
はらはらと大粒の涙が溢れ出し、女神の祝福《 ティアーズ・ドロップ 》の様に、赤子の頬に流れ落ちた。
その慈愛溢れる光景に、メイド達も涙を浮かべて、アリスフィーナにそっと寄り添った。
アリスフィーナは初乳を与え終わると、右腕でしっかりと首を支えて抱き、左手でゆっくりと背をさすりながら、指で優しくとんとんと刺激を与えた。
「沢山飲みましたねぇ、偉いですよ。はい、とーんとん……とーんとん……いい子……いい子……」
すると赤子は「かぷっ」と可愛い声でげっぷをした。彼女は愛らしさの余り、頬ずりをする。
「アリス様、お上手です。ご経験が……?」
「え……?」
不意に、アリスフィーナの脳裏に、記憶が蘇る。
姉である乳母のシンシアが乳を与え、その後に、自分が抱いてあやしていたハインツの事を。
どうして、今まで忘れていたのだろうか?――
それは、無意識に記憶に蓋をして、思い出さないように、していただけであった。
何故なら、切なさで、胸が張り裂けそうになるから。
失うのが、怖かったから――
(そう……私は、本当は、ずっと子供が欲しかったのですね……。未熟なアリスフィーナ……気付くのが遅過ぎですよ……)
「今、思い出しました。かつて、ハインツ様にこうしていたようです……」
「まぁ……何と、ハインツ様……!」
メイド達は改めて《 生ける伝説 》を目の当たりにして、感嘆の溜息を吐いた。
その時、出産室の扉が静かに開いた。
フェルディナンドは部屋に入り、半身を起こして赤子を抱き、女神のような慈愛を放つアリスフィーナを見止めると、身が震えた。
「ほら、坊や。お父様が、お見えになりましたよ……」
「アリス……母親になった君は、本当に綺麗だよ……お疲れ様。そして、初めまして、我が子よ……」
フェルディナンドは、アリスフィーナと軽く口付けを交わし、息子に優しく微笑んだ。
「息子を、抱いてあげて下さい。お父様」
父親になったばかりの男は、メイド達にあれこれ注意されながら、しっかりと抱き上げた。
「私が父親になれただなんて……嬉しいなぁ……」
フェルディナンドは、目に涙を溜めながら呟いた。
「お疲れ様だな、先生よ。さっきの、こ奴の狼狽ぶりを見せてやりたかったぞ」
ブレナハンは、声量を抑え、アリスフィーナを労った。
「ふふ……なんだか想像がつきますね……。フェルディ様、どうかこの子に、名を授けてあげて下さいな」
「私が、かい……? いいのか?」
「貴方だから、いいのです……」
アリスフィーナは、告白された時に受け取った言葉を、今度はフェルディナンドへと贈った。
「貴様の男が試される時ぞ、しくじれば、一生言われ続けるからな!」
フェルディナンドは、恨めしそうな視線で元上司を見上げると、はっとした表情を浮かべた。
「では……カイゼル……と……」
「カイゼル……! 良き名です……!」
アリスフィーナは、目を丸くして口に手を当てた。
ブレナハンは少し引きつった顔で、元部下を睨みつけた。
「ほぅ……古の言葉で《 皇帝 》とは。貴様、俺に喧嘩を売りたいようだな……!」
「私の、自慢の息子ですからね……! これぐらい強き名でなければ、ですよ……!」
アリスフィーナとメイド達は、クスクスと笑みを漏らした。
後のカウベルの世に「王家の懐刀」と称され、同時に立派に父親の跡を継ぎ「冷血宰相」「鉄仮面」と呼ばれるようになる、カイゼル・ジークルーネ・アル・カウベルが、ここに誕生した。
【7】
それからアリスフィーナは、1年間、自分の屋敷で我が子の成長を見守った。フェルディナンドは、三日おきに大公家と自宅を行き来する、通い妻ならぬ通い夫となった。
子が生まれても、結婚をすることは無かったが、恋人同士は毎日が幸せだった。
フェルディナンドの病は、時々臥せる事はあったものの、概ね小康状態を保っており、大事に至る事はなかった。
それでも彼は、カイゼルが物心つく頃には、自分の事は父ではなく、親戚の叔父だと教えて欲しいとアリスフィーナに頼んだ。ほどなく父無し子にさせるのは、あまりに不憫だ、という想いからである。
しかし、アリスフィーナは、それをぴしゃりと断った。
「何を言うのですか。例え、そうなったとしても、この子にはちゃんと自分を愛してくれた、優しい父親の面影が残ります。ですからその尊いお時間を、カイゼルにも与えてやって下さい。この子が大人になっても、自分には、立派な父上がいたのだ、という事を忘れないように……。なので、父親の座からは降ろしません!」
アリスフィーナの、ぐうの音も出ない正論に、切れ者の元宰相も、押し黙るしかなかった。
「それに……まだ、貴方との御子が……欲しいですもの……」
四つの耳を垂れ下げ、顔を真っ赤に染めて、眼を伏せるアリスフィーナ。
(……可愛いが過ぎる……! これは、是が非でも長生きせねば……!)
フェルディナンドは拳を握り、改めて誓いを経てた。
その誓い通りに、彼は生きた。
医師団からは、長くても3年以内にはと告げられていたが、4年以上経っても彼は生きていた。
フェルディナンドは、カイゼルに文字を教え、政治の話をよく聞かせた。
彼は普通の子供とは少し違い、物静かな子であり、母親譲りの蒼い瞳と金髪で、既に貫禄めいた何かを感じさせた。
そしてカイゼルが5歳の時に、アリスフィーナは、第二児の長女を産んだ。
長男と同じくハーフエルダーの子で、父親譲りの赤髪であった。
アリスフィーナは、その燃えるような、美しい赤い髪に薔薇を見て、ローザリアと名付けた。
彼女こそ、大陸東部エルフの大国である、アライズヘイムの正室王妃となる運命を持って、生まれた子であった。
ローザリア・ハイネス・アウストゥール・アライズヘイム、その名を冠する未来に辿り着くには、まだ、多くの歳月を要する。
フェルディナンドは、現役を退いた後は絶望の日々を送っていたが、アリスフィーナと出会った日から6年間、毎日が、光輝いた美しい生を謳歌した。
そして、次女が産まれてから半年後に、ついにその時が訪れた。
フェルディナンドの胸を、突如として激しい痛みが襲った。自宅で倒れた彼は、三日間昏睡状態を彷徨う。
彼が意識を取り戻した時、目の前には、泣き腫らした顔のアリスフィーナが手を握っていた。
「お寝坊さんですね……カイゼルに笑われてしまいますよ……」
「あぁ……すまない……。どのぐらい寝ていたのだろうか……」
「三日間です。御加減は? 何か飲めそうですか?」
フェルディナンドは、まだ、何とか身体が動くのを確認すると、アリスフィーナの手を借りて、ゆっくりと身を起こした。
アリスフィーナは、魔導術で瞬時に温めた乳を、フェルディナンドに飲ませた。
「ふぅ……やはり美味い……。まだ、少しだけ、時間が残されているようだ……。アリス、済まないが両親を呼んでくれないかな?」
アリスフィーナは、静かに頷くと席を立った。
フェルディナンドは、それから二日間、短い昏睡と覚醒を繰り返した。
アリスフィーナはせめてと、痛みを取り除く術をかけてやる事しかできなかった。
そして三日目の夕刻、おそらく、最期の覚醒を悟ったアリスフィーナは、カイゼルとローザリアを連れてきた。
ローザリアを、そっと、フェルディナンドに近づけてやると、彼は娘の頬に口付けをした。
「お母さんの様に……美人で……優しい人に……なりな……さい……」
フェルディナンドは、僅かに微笑んだ。
「カイゼル、お父様に最後のお別れを……」
カイゼルは、しっかりとした足取りで、父親の元に来るとその手を握った。
「カイゼル……お前は、賢く……強い、子だ……二人を……頼んだよ……」
「はい、父上。母上と妹は、私が守ります。だから、心配しないで下さい!」
息子の心強い言葉に、満足そうに頷く父親。アリスフィーナの目から、涙が零れ落ちた。
「……アリス……アリ……ス……」
「ここに居ますよ……フェルディ様……」
「ぁ……あいして……ぃるよ……アリ……ス……フィーナ……」
アリスフィーナは、彼の手を取り自分の頬に当てた。
「私も心から……愛していますよ……! フェルディナンド……!」
フェルディナンドの目から、一筋の涙が流れる。
「……あり……が……と……ぅ……」
フェルディナンド・ミュゼーは、恋人と子供達に見守られ、45年の生涯を閉じた――
カウベル王国元宰相、フェルディナンド・ミュゼーの葬儀は、村の小さな教会で厳かに行われ、王夫妻と、長女の王女と末の王子も参列した。
アリスフィーナは、彼の両親の希望でカイゼルを伴い、親族の席に就いた。カイゼルは、泣き濡れる祖母を支えるように寄り添った。
命を全うした身体と魂を、女神の御許へと還す聖火の儀は、アリスフィーナ自身が執り行った。
魔導術で編んだ、優しい緑色の火でその亡骸を灯し、フェルディナンドを、祈りと共に見送った。
残った灰は大地に還し、骨は集められ、村の共同墓地で墓標に埋葬された。
両親は先に返し、参列者達が挨拶を告げて去った後も、アリスフィーナはローザリアを抱き、カイゼルと共に墓前に佇んでいた。
もう沢山泣いたから、恋人が好きだと言ってくれた笑顔で、彼女は別れを告げる――
「さようなら、赤髪の素敵な宰相さん。私に愛をいっぱいくれて、ありがとう。私の愛を受け取ってくれて、ありがとう。私を母親にしてくれて、ありがとう。私にこの子達を授けてくれて、ありがとう……」
沈む夕日が、アリスフィーナの涙を、宝石のように煌めかせた。
「私は、貴方の事を、ずっと忘れません。この先も……」
泣くのを、目一杯我慢しているカイゼルを抱き寄せる。
「だって、私は《 永遠のアリスフィーナ 》なのだから――」
アリスフィーナはこの後も、数多くの子供達を儲ける事となる。
このお伽話は、彼女とその子供達と、人々が紡ぐ、常しえの愛の物語――
《 永遠のアリスフィーナ 》第一節:アリスフィーナという者――(終)




