第0章 8話 またあとで
用具所で荷車と幕の支柱を借り、荷を積み替えた。代価の布一巻と縄一巻を渡していると、隣の荷車が動き出した。
「クラリッサさん。お先に」
イザベルの組だった。荷台には空樽が載っている。
「ええ。またあとで」
イザベルの組を見送り、クラリッサたちは川沿いの加工場へ向かった。
*
加工場の小屋から、職人が二人がかりで戸板を運び出していた。クラリッサたちは荷車を道の端へ寄せ、通り過ぎるのを待った。
「ボネさんは、いらっしゃいますか」
「私だ。学園の子たちだね」
「はい。板材を包むお仕事を引き受けたいのですが」
前掛けに木くずを付けた男が、軒下へ招いた。札を挟んだ板の山と、布で包まれた見本が並んでいる。
「頼むのは、この列だ。用具を渡す前に、全部包んでもらう」
担当ごとに現物を確かめると、梱包も、飲み水作りも、薪の乾燥も、見積もった時間で済みそうだった。
クラリッサは隣の炊事場で食事の交換条件を確認し、ボネのところへ戻った。
「先に用具をお借りできませんか。板材の梱包には六人残りますので、そのあいだに、ほかの者が飲み水作りと薪の乾燥を始めたいのです」
「六人ね」
ボネは皆を見渡したあと、さっき職人が運んでいた戸板へ顔を向けた。
「それなら、あれも頼めるか。十二枚、全部包んで荷積み台へ出してほしい。あと六人、つけてもらえるなら、用具は今渡す」
ボネは戸板を運んでいた職人たちを指した。
「あの二人を、次の注文に回したくてね」
「いつまでに終えれば、よろしいのですか」
「昼前には荷積み台へ。客が取りに来るんだ。包む布と縄は、うちのを使っていい」
クラリッサは戸板を見た。これを引き受ければ、組の半分が荷造りに残る。
「相談してもよろしいですか」
「ああ。無理なら、元の順番で構わんよ」
ボネが職人のところへ戻ると、ユーグが戸板を持ち上げて確かめた。梱包担当の二人も来て、持つ場所を相談している。
「六人は要るな。運ぶほうと包むほうに分かれたい」
「飲み水作りの担当から抜くなら、できあがるのも遅くなると思う」
エレナが川へ続く坂を見た。
「魔法で浄水しているあいだに、桶を運んでもらうつもりだったから」
クラリッサは、干し場に出された四束の薪へ目を向けた。濡れた薪とは別に、小屋のかまど脇にも薪が積まれている。
近くの職人に尋ねると、そちらは燃やすために乾かしてあるのだという。
「ボネさん。戸板の仕事も引き受けるなら、薪を乾いたものに替えていただくことはできますか」
「うちで使う分だからなあ。どれだけ要る?」
「待って」
バスティアンが、クラリッサのそばへ来た。
「それ、薪の乾燥を担当する僕たちが、荷造りに回るってこと?」
「取り替えていただけるなら、そう相談したいわ」
「でも、査定にも響くらしいだろ。だったら、魔法を使うところを見てもらったほうが……」
「あほ」
ユーグが戸板から手を離した。
「査定の話が本当なら、組を勝たせるために仕事を替わるのだって、評価されるだろ」
「……それもそうか」
バスティアンは、同じ担当の生徒たちへ顔を向けた。一人が戸板を指した。
「運ぶほうにまわるよ」
「じゃあ、僕も。ユーグ、持ち方を教えてくれる?」
「こっちへ来い。角をぶつけると、やり直しになる」
クラリッサは彼らが戸板へ向かうのを見てから、ボネに向き直った。
「薪は四束です。その量を替えていただけるなら、こちらの六人で戸板の梱包も引き受けたいのですが」
ボネはかまどの脇を見て、職人を一人呼んだ。
「あれは、あと何日分あった?」
「三日分です。奥のも使えば」
「なら、四束出してやってくれ」
ボネはクラリッサへ向き直った。
「それでいい。戸板のほうも頼んだよ」
「はい。ありがとうございます」
先に用具と乾いた薪を渡すこと、戸板十二枚を昼前までに包んで荷積み台へ出すこと。変更した条件を貸出票へ書き足し、読み合わせて互いに署名した。
布と縄、それに代価の食材二籠を渡すと、ボネが用具小屋を開けた。
エレナたちが桶と樽を川へ運び出し、マノンたちは乾いた薪を受け取って、荷車へ積み始めた。
クラリッサも桶を持って川へ下り、飲み水作りを手伝うことにした。汲んだ水をエレナたちのところへ運び、空になった桶を持って水際へ戻る。はじめは足元ばかり見ていたが、何度か往復するうちに、濡れずに立てる石も分かってきた。
最初の樽がいっぱいになったところで、クラリッサは桶を置いた。
戸板のほうはどうなっただろう。バスティアンたちには急に仕事を替わってもらったし、六人は要るとユーグが言っていた。
「私、戸板のほうを見てくるわ」
エレナが頷くのを見て、川岸を離れた。
坂を上がったところで蹄の音が聞こえ、クラリッサは道の端へ寄った。幌を掛けた馬車がすぐ脇を通る。
不意に、腕を掴まれた。
荷台から伸びた男の手だった。その瞬間、護身用の魔具である胸飾りが鋭く鳴り、制服の上にローズグレイスの家紋が浮かび上がった。
胸飾りの力が男の腕を押し返すと、手甲に光が走った。男は歯を食いしばり、クラリッサの腕を掴んだまま離さない。声を出すより早く足が地面を離れ、引き上げられた腰が荷台の縁にぶつかった。
「おい、何をしてる!」
外で誰かが叫んだ。荷台にはもう一人、頬のこけた細身の男がいた。その男に腕を抱え込まれ、クラリッサは荷台へ引きずり込まれた。
顔を上げると、幌の隙間に前掛けの男が見える。こちらへ走り出す姿に、夢中で手を伸ばした。
「たすけ——」
短い髭で顎を覆った男が、革の手袋で口を塞いだ。馬車が速度を上げ、床についた肘が滑る。男の手をどけようと両手を掛けたが、相手は顔をしかめるだけだった。
「押さえてろ」
髭の男の向こうで、痩せた男が幌を下ろした。外の景色は隠れたが、声だけはまだ聞こえる。何を言っているのか聞き取ろうとして、クラリッサは自分の喉が鳴っているのに気づいた。口を塞がれたまま叫ぼうとしていたのだ。
どうして。守りが、働いたのに。
魔力を放出した胸飾りは光を失っていた。髭の男の手甲に残る光も、細い溝に沿って消えていく。男はクラリッサの肩を押さえ直し、手甲をはめた手の指を何度か曲げ伸ばしした。
「痺れたか」
「早く嵌めろ」
痩せた男が、鎖で繋がれた金属の輪を取り出した。クラリッサが身体を起こそうとすると、肩を押し戻され、片腕を背中へ回される。腕を捻られた痛みに息が詰まり、首を振っても、口を塞ぐ手は離れなかった。
外にはまだ人がいる。ここにいると知らせたいのに、出せるのは喉の奥で潰れた声だけだった。
馬車の揺れで、腰の水筒が床に当たった。中で跳ねる水の音に、クラリッサははっとした。水なら、手を使わずに動かせる。男の顔に浴びせれば、この手が離れるかもしれない。
目を閉じ、頭の中で詠唱を始めた。水筒の水を引き上げると、栓につかえて止まる。背中で手首を引かれ、危うく集中が途切れかけた。それでも、今度は栓ごと押し上げるつもりで水を動かす。栓が抜け、水が勢いよく吹き出した。
その水を、すぐ上にある髭の男の顔へぶつけた。
「ゔっ!」
男が息を詰まらせて顔を背けた途端、口を塞いでいた手が離れる。肩の押さえも緩み、クラリッサは身をよじって、痩せた男に掴まれていた腕を引き抜いた。手枷が床に落ちて鳴った。
「助けて!」
「クラリッサ!」
名前を呼ぶ声に、幌の裾を持ち上げた。道を走ってくるユーグが見える。その後ろにも人がいた。クラリッサは膝で荷台を進み、外へ身を乗り出した。
「ユーグ!」
彼の手がこちらへ伸びた。クラリッサも腕を伸ばしたが、届かない。もっと前へ出ようとしたところで足首を掴まれ、身体ごと引き戻された。顎が床を打ち、口の中に血の味が広がる。
「この野郎っ」
床に手をついて身を起こそうとしたが、髭の男にみぞおちを蹴り上げられた。
声も出せずに身体が折れた。腹をかばおうとした手が床を滑り、頬が板に擦れる。
「……っ」
口を開けているのに息が入ってこない。
「よせ。押さえてろ、枷を嵌める」
男がまた足を上げかけたところへ、痩せた男が割って入った。クラリッサは身を縮めたまま、腹に寄せた腕を背中へ回される。冷たい金属が両手首を囲み、鍵の回る音がした。
ほんの一息でいいから、吸いたかった。ようやく息が入ってきたときには、涙で板目が滲んでいた。
「ほかに何を持ってる」
髭の男は返事を待たずに腰の水筒を外し、残りの水を幌の外へ捨てた。
肩から鞄を引き抜かれ、地図が床へ落ちた。もう手を伸ばそうとは思えなかった。
ユーグは、まだ追ってきているだろうか。
顔を幌へ向け、呼ぼうとしたが、喉から出たのは息ばかりで、名前にならなかった。




