第0章 6話 呼びに来るまで
「殿下とは、今も話すか」
父に訊かれて、クラリッサは飲みかけの茶を置いた。
十五になった年の春、学園から王都の屋敷へ戻った翌日の午後だった。
父の書斎に母がいるのは珍しい。窓際の椅子に掛けて、今日は縫い物も持たずに、父と娘の話を聞いている。冬のあいだ母を悩ませていた咳も、このごろは落ち着いている。
「廊下でお会いすれば。先週もお話ししました。織物がようやく直ったと。休暇に入ったら見せるから王都にいろ、と」
「その招きも来ている」
父は机の上の封筒を取り上げた。その下に、もう一通あった。
「先に、こちらだ」
立ち上がって受け取った封筒には、王家の印があった。中の紙には、三行しか書かれていない。
王太子レオポルト殿下の御婚約につき、ローズグレイス公爵家長女クラリッサを内々に定む。正式の沙汰は追って下す。それまで、口外を禁ず。
自分の名前が、王宮の誰かの字で書いてある。二度読んで、二度目は名前の横だけを読んだ。
読み終えて、座ってよいのか分からなかった。さっきまで座っていた椅子なのに、もう茶を飲む話ではなかった。
「内示だ。正式の沙汰までは、口外するな」
「……はい」
母が椅子を引いてくれた。腰を下ろし、紙を膝に置いた。知っている字を読んでいるだけなのに、息を吸うのを忘れていた。
「どんな方だ」
顔を上げた。父は机を離れて、向かいの椅子に掛けていた。
「お父様も、殿下とはお話しになるでしょう」
「軍務の話はな。お前には、どうだ」
どんな方、と訊かれて、最初に出てきたのは織物でも暦でもなかった。
「……お話が長いです」
「まあ」
母が笑った。
「長いって、どんなお話をなさるの?」
「二番目のお妃さまの暦です。あのお茶の次の春に、廊下で呼び止められました。書庫番を三人巻き込んで、ひと月かかったのだそうです。建国の年に暦が替わっていて、それで婚礼の日付がふた通りあるのだと。答えはそれだけなのに、最初にどの本を開いたかから始まって。暦が替わったところまでは私も調べておりましたので、途中でそう申し上げましたら、最後まで聞け、と」
「あなたに?」
「私に、です」
母は父を見た。父は黙っている。
「それからも、ときどき呼び止められます。織物はまだ染めているとか、針を入れるお許しがまだだとか。廊下の途中までで、殿下は上級生の棟へ行かれますから。あまり長いと、エレナが先に教室へ戻ります」
「あなたは戻らないの」
「あとで続きを伺うほうが、面倒ですもの」
言ってから、膝の紙へ目を落とした。先週は、染め直した糸が光でどう見えるか、という話だった。詳しく訊いたのは、こちらだった。
「……でも、鐘には間に合っています。いつも」
「ですって、あなた」
「聞いている」
父はそれだけ言って、もう一通を差し出した。
「明後日だ。招きの文はリナへ渡しなさい」
「……私、いつまで家にいるのでしょう」
訊くつもりのなかったことが出た。
「学園は卒業する。それは変えん」
「休暇も、お戻りになるのよ」
母が言って、膝から落ちかけていた紙を拾ってくれた。
「お母様は、いつお聞きになったのですか」
「今朝よ。あなたがお散歩に出ているあいだに。戻るまで黙っていらっしゃい、ですって」
「家令に言ったのだ」
「わたくしにも仰いましてよ。二度も」
父は返事をせずに茶を飲んだ。母の声が弾んでいる。
「今夜は皆で食べましょうね。それから、今年の夏は、わたくしとの約束も空けておいてね。お茶のお相手まで、みんな殿下に取られたくはありませんもの」
茶器を持つと、まだ温かかった。それが意外で、すぐには飲めなかった。
*
「……お嬢様の、でございますか」
部屋へ戻って話すと、リナは持っていた布を作業台へ置いた。ほころびを縫っていたらしく、針にまだ糸が付いている。
「ええ。だから誰にも——」
言い終わる前に、抱きつかれた。
「お嬢様!」
肩を抱く力が、思ったより強かった。顔の横にリナの頬があって、耳のそばで息が弾んでいる。それから、同じ勢いで離れた。
「し、失礼いたしました! お髪が。いえ、お髪はあとで。旦那様は、ほかに何と」
「正式のお知らせまでは内々に、と。だから誰にも言わないでね。それから、これ」
招きの文を渡すと、リナは読んで、顔を上げた。
「明後日!?」
「織物を見に伺うの。お出かけの服を頼んだでしょう。あれが明後日になったのよ」
「明後日……。お出かけの服では、足りません」
「織物を見るだけよ」
「見るだけでも、でございます。王家のお話でございますから」
リナは文を鏡台の端へ置き、日付が見えるように向きを直した。それから衣装棚の扉を開け、中を見ながら喋り続けた。
「旦那様がお喜びで、奥様がお喜びで。それで、お嬢様は」
問われて、困った。誰に言ってよいか、いつ王宮へ行くか、休暇には帰れるのか。考えたことならいくつもあるのに、喜んでいるかと訊かれると、どれも役に立たなかった。
「まだ、よく。ただ、明後日のことを考えると、落ち着かないの」
リナがこちらを振り向き、しばらく黙っていた。やがて、いつもの調子で口を開いた。
「では、お会いしてからでございますね。殿下からは何も仰せでない、と」
「先週は、織物の話だけだったわ」
「織物のお話だけ」
「ええ」
「お嬢様。学園の皆さまは、まだご存じないのでございますね」
「私が今知ったばかりだし、休暇中だもの。口外禁止なら知られていないと思うわ」
「知られたら、大変でございますよ」
リナは作業台へ戻って、針を取り上げた。直しているのは、学園で着る普段着の袖だ。戻ったばかりなのに、もう次に着る日のために直している。
「お背が、伸びましたね。袖を直すたびに分かります」
「しばらく前からよ」
「存じております。さっき抱きついたときに、なおさら分かりました! あ、奥様には……」
「言わないわ」
*
王宮の控えの間で、クラリッサは出された茶に口を付けられずにいた。
前に来たときは、名を確かめられて、しばらく待った。今日は馬車を降りるとすぐに女官が迎えに来て、こちらが礼を終えるまで頭を下げていた。
控えの間にも付いてきて、寒くはないか、窓を閉めようか、茶を替えようか、と訊いてくる。
「このままで結構です。ありがとう」
答えたあとも、女官はそばにいた。茶器を持ち上げただけで、砂糖壺の蓋が開く。茶器を置き、手を膝に戻した。
壁際のリナが、こちらに頷いた。髪は崩れていない、服も大丈夫、と朝から三度言われている。扉が開いたときには、ほっとして立ち上がった。
*
談話の間で、殿下は窓辺へ椅子を運ばせているところだった。
「そちらでは暗い。もう少し、こっちへ」
侍従がこちらの名を告げると、殿下は椅子の背から手を離した。
「来たか。見せたいものがある」
「お招きいただき、ありがとうございます。このたびは、父のもとへも、ご丁重なお知らせを賜りまして」
「うん」
「父母ともに、ありがたく承っております」
朝、母に聞いて覚えたとおりに言えた。これでよいはずだった。
ところが殿下は、まだ待っている。自分のことも言わなければならないのか。それは、母と練習していない。
「驚いたか」
「はい」
「私も聞いた。公爵は何と」
「口外するな、と」
「それはうちも同じだ」
殿下が笑ったので、ようやく息をつけた。
「それから、殿下はどんな方かと、訊かれました」
「軍務卿にか。君は何と言った」
ここは、言わずにおいてよいところだった。訊かれたのだから、仕方がない。
「……お話が長いと」
壁際で侍従が目を伏せた。殿下は額に手を当てた。
「それを公爵に言ったのか」
「鐘には間に合っていると、申し上げました」
「そういう問題ではない」
笑いながら歩き出した殿下に付いていった。壁に掛かっていた織物が、腰の高さの台へ斜めに広げられていた。椅子を運ばせていたのは、その前に座るためだったらしい。
「掛けてしまうと見えにくいのでな。先に君に見せることにした。どうだ」
銀の線が、オルレイ公の弟君へ渡っていた。隣の線と、近くの名と、渡り先を確かめる。直したところだけ、窓の光を受けて白く光っていた。
「直した線だけ、糸の色が明るうございます」
「職人にも言った。五十年ほど待てば揃うそうだ」
「長うございますね」
「針を入れるまでに一年以上かかった。まだ染めていると言われるよりはいい」
殿下は手前の椅子をこちらへ勧め、自分は台の端に立ったまま、直した部分を覗きこんだ。
「咎の件だが、誰も罰していない。古い写しのとおりに織ったのだから、それでよいとした。人のいないところに咎は置けません、と侍従が言うのでな」
壁際の侍従は、動かなかった。
「……ありがとうございます」
糸の話ばかりしていて、あの日に頼んだことを忘れかけていた。これだけは、今日、自分から訊いておくべきだった。
「ここでよいのか、線は」
「はい。こちらで合っています」
今度は、ためらわずに答えられた。殿下は台から離れて、侍従に掛け直すよう言った。
*
庭への扉を抜けると、風が暖かかった。
付き添いの女官とリナが後ろに続き、侍従が殿下に道を示す。王妃は午後のお茶に別棟へいらして、こちらの庭にはお戻りにならないという。
「いまなら、ゆっくり見られる」
殿下はそう言って歩き出したが、すぐには進めなかった。花壇の前の庭師が手を止めて礼をし、先の分かれ道でも、鉢を抱えた庭師が端へ寄る。殿下の行く先を、みんなが見ている。
池のほとりまで来て、ようやく人影が途切れたところで、殿下は足を止めた。
「あれはどうだ。向こうの腰掛け」
小さな橋を渡った先に、白い石の腰掛けがあった。池の見える場所なのに、背を向けて置いてある。座った人が見るのは、高く刈り揃えた生け垣だけだった。
「反対向きであれば、池が見えますね」
「だろう。母上にそう言ったが、あれでいいと」
「では、あれでよろしいのでは」
「君まで言うのか」
殿下が不満そうな顔をした。クラリッサは、もう一度腰掛けを見た。王妃陛下が気に入っておいでなら、自分は放っておく。殿下は、そうもいかないらしい。
「お座りになったことは」
「ない。座っても生け垣だ」
腰掛けには日が当たっていた。
「座ってみませんか」
「構わんが。何も見えんぞ」
「暖かそうですので」
殿下は先に橋を渡った。クラリッサが続き、リナたちは橋の手前で足を止めた。
殿下が座り、隣を勧めた。裾を整えて腰を下ろすと、思ったとおり、石は日に温まっていた。刈り揃えた葉が目の高さまで続いて、二人の影が落ちている。
長椅子ほどの広さがあったのに、座ってみると、近かった。
池の水音が後ろから聞こえた。風が通るたびに枝が擦れる。
肩越しに橋を見た。リナと女官が話していて、侍従は道のほうを向いている。控えの間では、茶器を持つだけで砂糖壺が開いた。ここへは、誰も付いてこなかった。
「殿下」
「なんだ」
「王妃陛下も、ここへはお一人で?」
「そうだ。お茶の用意ができても、なかなか戻っていらっしゃらない」
「よほど、この場所がお好きなのですね」
殿下も後ろを見た。それから、生け垣に向き直った。
「母上に訊いてみるか」
「腰掛けのことを?」
「向きのことをだ。また、あれでいいと言われるかもしれん」
殿下は笑って、足を前へ伸ばした。クラリッサも背を預けかけて、やめた。礼法の稽古で覚えた座り方が、こんなところでまで出る。
「もう、戻るか」
「いいえ」
返事が速すぎた。殿下がこちらを向いたので、慌てて付け足した。
「その、お時間がよろしければ」
「まだ呼びに来ていない。構わんだろう」
殿下は座り直した。クラリッサは息を吐いた。まだここにいられる。
石が暖かかった。生け垣が高くて、誰も付いてこない。王妃陛下がお戻りにならないわけだと思った。自分の返事が速かったのも、たぶん同じだ。
池の向こうで人の声がした。庭師が空の鉢を運んでいく。姿が見えなくなるまで待ってから、クラリッサは背を石に預けた。
殿下は何も言わなかった。自分も黙っていた。学園なら次の授業のことを考える頃だったが、今日は、呼びに来るまでここにいてよかった。
橋の向こうで、侍従がこちらへ一礼した。殿下は手を上げて応じ、立ち上がった。
「戻らねば。庭の続きは夏に頼む」
クラリッサも立って、裾を払った。
「はい」
リナが橋の向こうから迎えに来た。訊きたそうな顔をしていて、殿下が近くにいるので口を閉じている。
馬車に乗ったら、今度はこちらから話そうと思った。




