第0章 5話 君の目は確かだ
「五通目ですわ」
封筒が、エレナの机の端に置かれた。
入学して二度目の冬。放課後の教室には、もう数人しか残っていない。扉の係の少年も、今では黙って脇へ寄る。一年のあいだに、教室のほうが慣れた。
「四通目との違いは、三枚目の裏でしてよ。ご実家への手当を、冬のぶんだけ厚くしましたの。薪の値が上がりましたから」
「あ……ありがとうございます」
エレナは封筒を受け取り、引き出しの四通に重ねた。
「読みます。読みますけど、あの、私が決めることじゃ」
「ええ。取り次ぎの方にも、同じものを出しておりますわ。お返事は、まだ。一年で一行しか下さらないお役所ですもの、まだ、で驚きはしませんことよ」
約束どおり、写しはこちらにも毎回来る。読むたびに条件が良くなっていて、読むだけの側としては正直、面白い。
「ローズグレイス様、ご感想は」
「よく書けているわ」
「当然でしてよ」
「あの、イザベル様」
エレナが引き出しから手を離した。
「私、今の方にお世話になりたいです」
イザベルは、鞄を持ち上げかけて止まった。
「どこが足りませんの」
「うちのことまで考えてくださって、ありがたいです。でも、今の方にも入学前からよくしていただいてます。替えてほしいとは、思っていないんです」
「……お役所のお返事とは、別に?」
「はい。私が、です」
イザベルはこちらを見たが、クラリッサが黙っているとエレナへ向き直った。
「もっと早く仰ればよろしかったのに」
「ごめんなさい。ちゃんとお返事してなくて」
「条件を直せばよいのだと、思っておりましたわ」
エレナは俯いた。イザベルは机に残っていたこちらの写しへ目を落とし、鞄を持ち直す。
「では、書き直すのはこれで終わりにいたします」
「……はい。ありがとうございます」
「お礼は、もういただきましたわ」
イザベルはすぐにこちらを向いた。
「それから、ローズグレイス様。今日は、あなたにもお話がありましてよ」
「殿下のお茶。わたくしは、先週でしたの」
エレナが顔を上げた。クラリッサはペンを置いた。王宮から文が来ていることは、母から聞いている。日取りは、四日あとだ。
「順は王宮のお決めですって。わたくしが先」
「……そう」
「順に、ということは、比べられるということでしてよ」
「ええ」
「せいぜい、減点なさらないことね」
言い終えて、イザベルは歩き出さなかった。足の速い人が、まだそこに立っている。
「あの方、わたくしを——」
「いえ。何でもなくてよ。ごきげんよう」
今度は本当に歩き出して、開いたままの扉から出ていった。廊下の足音が遠くなるまで、エレナは扉を見ていた。
「……殿下と、お茶?」
「順に呼ばれているだけよ」
「すごいね。何を話すの」
「口上と、天気と」
「殿下を前にして、天気だけ?」
「天気よ」
エレナは扉へ目をやった。
「イザベル様、何を言いかけたんだろう。あの方、って」
「分からないわ」
「減点って、なんの減点?」
「……それも、分からないわ」
*
「減点でございますよ、お嬢様」
朝から、リナの櫛は止まらなかった。婚約という言葉は、まだ屋敷の誰も口にしない。ただ、候補として名の挙がりはじめた家の娘たちを、王宮が順にお茶へ呼んでいるらしいと、母が教えてくれた。
比べられるということも、減点という言葉も、イザベルから聞いた。リナはその言葉をたちまち気に入った。
「アルクールのお嬢様が、わざわざ仰りに来られたのでしょう。先に行かれた方の仰ることですから、侍女としては信じるほかございません」
「何が減点になるのかは、言わなかったわ」
「ですから、全部でございます。よろしいですか、御前では、口上、お茶、相槌。以上でございます。授業で習った条文のお話もなさらない」
「……どうして」
「先日の夕食では、スープが冷めるまでお話しになりました」
「リナが、どこが面白いのかって訊いたからよ」
「お茶の席で、同じことをなさっては困ります」
「短く話せばいいのでしょう」
「短くできますか」
「…………」
「いま間が空きましたね!?」
「空いていないわ」
「とにかく、にこやかに、可愛らしく、でございます」
「リナ。できない注文はやめて」
「ご自分で仰いますか……」
櫛が、後ろ髪の同じ場所を三度通った。
「殿下って、どんな方なの」
「学園でお見かけしていらっしゃるのは、お嬢様のほうでございましょう」
「壇上のご挨拶と、遠目の背中だけよ。お話ししたことはないもの。あれは、どんな方、のうちに入らないわ」
「では、侍女の耳をお貸しします。先にお茶へ伺ったお家の話では、その——口数の少ないご令嬢から順に、お帰りが早いそうでございます」
「……私、早いわね」
「ですから! にこやかに、可愛らしく、と申し上げているのです」
「それで、殿下はどんな方なの」
「ですから、それを本日お確かめに参るのです」
*
談話の間は、天井が屋敷の広間の倍も高かった。長椅子と卓がひと組、季節の花がひと瓶、壁際には年配の侍従がひとりきり。
正面に座る王太子レオポルトは、遠目に見ていたとおりの金の髪で、近くで見ると、思っていたより上背があった。
「学園には、慣れたか」
「はい。つつがなく過ごしております」
「それは何より」
口上は済んだ。殿下が王都の冬は寒いと言い、こちらが、はい、と答えて、天気の話も済んだ。
「雪は、好きか」
「道が閉じますので、荷が遅れます」
深い青の目が、じっとこちらを見ていた。
「……好き嫌いで申しますと、好きでございます」
「そうか」
壁際で、侍従の眉が上がった。
「学園では、何がいちばん面白い」
「契約基礎でございます」
「ほう。どこが」
先日の授業の話をしかけて、止まった。条文から説明したら長くなるし、そこを省いたら面白いところが伝わらない。短くできますか、と訊いたリナの顔が浮かんだ。
「……申し上げられません」
「なぜ」
「侍女に、止められておりますので」
「侍女に?」
「はい」
殿下は茶器を持ったまま、こちらを見た。何か言いかけて、やめた。侍従の眉が、さっきより上がった。
これが減点なら、もうされている。口上、お茶、相槌。リナの言った三つのうち、口上は終わり、お茶は手の中にあって、相槌は、相手が喋らないと打てない。
黙っているうちに、目が勝手に動いた。
殿下の右肩の向こうに、壁一面の織物が掛かっている。王家の系譜だ。歴代の名が金糸で織られ、縁組の線が銀糸で渡る、見事なものだった。見事なのだけれど、左下の一画が目に刺さって、見まいとするほど目が行った。
「クラリッサ嬢」
「はい」
「さっきから、私の顔の横を見ているな」
殿下が、自分の右肩を親指で指していた。クラリッサは茶器を置き、置くあいだに言い逃れを三つ考えて、三つとも捨てた。
「織物を、拝見しておりました」
「見事だろう。祖父の代からある」
「見事でございます」
「……その顔は、見事、の顔ではないな」
返事に詰まった。
「学園の廊下で、君は時々その顔をしている。何かを照らし合わせる顔だ。それがいま、うちの壁に向いている。何を照らし合わせた」
見られていた。壇上と遠目の背中しか知らないつもりでいた相手が、こちらの顔の癖を知っていた。廊下で、いつ、どの顔を見られたのか、ひとつも思い当たらない。知らないでいたのは、私のほうだけだ。
「……お気を悪くなさいませんか」
「中身によるな」
「では申し上げられません」
「また侍女か」
「いいえ。これは、私の考えで」
「悪くしない。約束しよう。ここまで言わせておいて帰すほうが、よほど気分が悪い」
殿下は口の端で笑って、身を乗り出した。年上らしい余裕の顔が、そこだけ年相応に崩れた。クラリッサは織物の左下を指した。
「三代前の、アデライド王女殿下でございます。ご縁組の線が、オルレイ公の兄君のほうへ渡っております。私がお稽古で習いました系図では、王女殿下が嫁がれたのは弟君のほうです」
「……どちらだったかな」
「弟君です。兄君は生涯お独り身で、家督は弟君の御子が継いでおります。ですのでこの線ですと、いま王家と縁続きの家が、変わってしまいます」
「待ってくれ。誰の子が、どこを継いだって?」
「オルレイ公の弟君の御子です。つまり王女殿下から見て——」
「分かった。いい。あとで系図で頼む」
殿下はもう立ち上がって、織物の前まで歩いていた。銀の線を指で辿り、名前をひとつずつ目で数え、それから壁際を振り返った。
「どうだ」
年配の侍従は、織物を見もせずに答えた。
「恐れながら——王統譜のほうが、先々代の御代に改められてございます。オルレイ公家のお申し立てで、兄君から弟君へ。織物は、それより前の写しのままかと」
「なぜ直っていない」
「王家の宝物に針をお入れなさいませ、とは、どなたも仰い出せませんので。……取り替えのお沙汰には、王族のお指図が要ります」
「つまり、知っている者はずっといて、言い出せる者がいなかったわけだ」
殿下は織物へ向き直り、それからこちらを見た。
「近くで見るか」
「……よろしいのですか」
「見つけた本人がいちばん遠くにいるほうがおかしいだろう。ほら」
近くで見ると、銀糸は幾筋も重ねられていた。間違った先へ渡された線も、ほかの線と同じように丁寧に織られている。織り手は、渡された写しの通りに仕事をしただけなのだ。
「それにしても、君、どこで覚えた」
「家系図のお稽古が、いちばん長うございましたので」
「王家の分までか」
「王家の分は、基本でございます」
「基本」
殿下は繰り返して、声を上げて笑った。侍従が咳払いをしたが、止まらなかった。
「なら、あちらはどうだ」
殿下が指したのは、織物の右上だった。
「建国王の御代の、二番目のお妃の一画。家庭教師が、ここだけは毎回話を逸らす」
「存じません」
「即答か」
「お稽古に出て参りませんでしたので。逸らされる事情のほうは、殿下がお調べになるほかないかと」
「調べたら、次は私が教える側だな」
「そうは申しておりません」
言ってから、悔しかったので付け足した。
「……ですが、先にお調べになった方が教える側です」
「言ったな。覚えておく」
殿下は織物へ向き直り、線の渡り先をもう一度確かめた。
「ここは直させよう。私が言えば済むなら、今日言えばいい。間違いは、見つかった時に直すのがいちばん安い」
「あの。お直しの折には、どなたの咎にもなさらないでくださいませ。織り手の方は写しの通りに織られただけですし、言い出せなかった方々にも、事情がございました」
「それより、ほかにもあるか。あるならいまのうちに全部見つけてくれ。君の目は確かだ」
咎の話への返事はなかった。殿下はもう織物の続きを見ている。クラリッサは一拍だけその横顔を見て、それから、問われた通りに織物へ目を戻した。
刻限でございます、と壁際から声がして、殿下は織物から手を下ろした。卓の上では、注ぎ直された茶がまた冷めきっていた。
「今日の口上は、互いに済んだことにしよう。同じ学園にいて、初めて話すのが王宮の口上というのも、考えてみれば妙な話だ」
「はい」
「織物が直ったら、検分に来てくれ。君の目で」
「私で、よろしいのですか」
「見つけた者が検分する。それがいちばん早い」
「……承知いたしました」
「それと、次は庭も頼みたい。あちらは母上のお好みだから、誰も口を挟まない」
「王妃陛下のお庭の粗は、見つけても申し上げられません」
「なら、見つけるだけ見つけて、私にだけ言えばいい」
それは、口上のどこにも載っていない台詞だった。クラリッサは膝を折って、載っていない返事をした。
「善処いたします」
*
帰りの馬車が動き出すなり、リナが身を乗り出してきた。
「首尾は。……何も、ございませんでしたね?」
「殿下の後ろの織物がね、いまの王統譜より古いままだったの。三代前の王女殿下のご縁組の線が、兄君のほうへ渡っていて」
「…………それを」
「ええ」
「殿下に」
「訊かれたのよ。何を照らし合わせた、って」
「訊かれ……」
リナは口を開けたまま、しばらく閉じなかった。
「お嬢様のお顔を見て、お訊きになったのですか」
「顔の横を見ていたら、ばれたの」
「顔の横……。もう結構でございます、心の臓に響きますので……。それで、その、お叱りは」
「なかったわ。直したら検分に来い、ですって」
「けん……。次が、あるのですか」
「あるみたい。庭の分も頼まれたもの」
「どうしてお茶に伺って、お仕事を増やして帰っていらっしゃるのです!」
リナは頭を抱え、抱えたまま指を折って何かを数えはじめ、数えきれなかったのか、途中で諦めて背もたれへ戻った。
「……それで。減点は」
「さあ。天気の話は、すぐ終わったの」
「早いお帰りではございませんでしたよ。控えの間で、お茶を二度いただきました」
「織物の分よ」
「織物の分……」
リナはもう一度頭を抱えかけて、やめた。クラリッサは窓の外を流れていく王宮の塀を眺めた。
学園の廊下で、君は時々その顔をしている、と言われた。どの顔なのか、鏡で見たことがない。見たことのない顔は、隠しようがない。明日から学園の廊下を、どんな顔をして歩けばいいのか。
「リナ」
「なんでございましょう」
「殿下って、変わった方ね」
「……お嬢様がそれを仰いますか」




