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第0章 4話 二番目の値は付けません

「あ、あ、あっ——」


 エレナが構えた両手の下で、水が桶(おけ)の縁(ふち)を越えて勢いよく溢(あふ)れ、机の上の紙を濡らして床に落ちた。前の席の男の子が椅子ごと飛びのいて、教室のあちこちで笑い声が立った。


 笑っている子たちの桶には、水が指の先ほども溜(た)まっていない。集めた水を桶まで運べずに、途中で空気に戻してしまう子も、まだ半分以上いる。


「集めすぎです、エレナさん。桶を見て、止めなさい」


「止めてます!」


「止めて、それですか……」


 止まったのは、先生が桶の縁に手をかざしてからだった。魔法の実技は週に二度。今日は空気から水を集めて、桶に落とす練習だ。エレナの魔力は人より多いらしくて、集まる水も人より多い。桶が同じ大きさなのが悪い、と本人は言う。


「ローズグレイス嬢は」


「はい」


 先生がクラリッサの桶を覗(のぞ)いた。底には指のひと節ぶんだけ水が溜まっている。一滴も桶の外へは落ちていない。


「正確ですね」


「はい」


「ただ、鐘までにこれでは、井戸のほうが早い」


「……はい」


 今度はこちらが笑われた。隣では、袖まで濡れたエレナがいちばん大きく笑っている。


 鐘が鳴って先生が出ていくと、教室に帰り支度の音が広がった。二人で机を拭(ふ)くあいだも、エレナはまだ笑っている。


「クラリッサの、ちょっとだけだったね」


「一滴もこぼしていないわ」


「先生も言ってた。井戸のほうが早いって」


「あなたのは洪水(こうずい)だわ」


 そうかも、と笑って、エレナは床を拭く布を取りに走った。


 入学から半年。授業が終わったあともこうして机を寄せて条文を読むのが、二人の決まりになっていた。誰が決めたのでもない。初日に寄せた机を、それきり戻さなかっただけだ。


「あとで条文、やる?」


「ええ。ヘイル先生の、水車小屋の——」


 廊下の足音が、教室の前で止まった。


 扉が開いて、黒髪の少女が一人で入ってきた。両脇の髪を後ろで留め、背に下ろした毛先が緩く波打っている。制服は同じで、襟(えり)の紐(ひも)の色だけが違う。別の組の色だ。付き添いも、案内の上級生もいない。


 扉の近くにいた係の少年が、椅子を鳴らして立った。腰が、声より先に折れた。


「アルクール様! ようこそ、あの、御用でしたら、私が——」


「ええ、御用よ。あなたには、ないけれど」


 折れかけた腰が、そのまま止まった。少女はそれを見なかった。帰り支度の手を止めた生徒たちのあいだを、鞄(かばん)にも、顔にも目をやらずに、まっすぐ窓際の寄せた机まで歩いてくる。足が速い。


 机の端に、薄い封筒を一つ置いた。置いてから、名乗った。


「イザベル・アルクールですわ。アルクール公爵家(こうしゃくけ)の」


 エレナが立った。勢いがよすぎて、椅子が後ろの机にぶつかる。


「え、えっと、エレナです。……家名は、ないです」


「存じておりますわ。ローズグレイス様も、ごきげんよう」


「ごきげんよう」



 入学式の広間で、向こうの列の先頭に立っていた黒髪を覚えている。挨拶(あいさつ)を交わしたのは、それきりだ。


 イザベルは教室を見回した。残っていた生徒は、鞄を持ったまま、誰も動かない。


「皆さまがいらして、ちょうどよろしいわ。あとで違う話になるのは嫌いですの。ここで申し上げます」


 誰に断ったのでもない声だった。


「エレナさん。アルクール公爵家は、あなたの学業を後援いたしますわ。学費と寮(りょう)は当然として、ご実家への手当、月ごとの品。それから書面。お渡しするものには、一枚ずつ受け取り証をお付けします。今の方の条件は存じませんわ。存じませんけれど、それより良くいたします。アルクールは、二番目の値は付けませんの」


 後ろの席で、誰かの鞄が床に落ちた。


「え、ええ?」


 声が先に出て、それから助けを求める目がこちらへ来た。クラリッサは動かなかった。申し出は、エレナに向いている。


「……あの、ありがとうございます。でも、それ、私が決めることじゃ、ないと思います」


「あら。どなたがお決めになるの」


「うちの親と……取り次ぎの方と。支援してくださっている方が、もう、いるので」


「存じております。ですから、その方より良くすると申し上げましたの。比べてごらんなさいな。今、ここで」


「比べるって、何と、ですか」


「では、まず、いただいているものを」


 エレナは、順に言った。


「学費と、寮と。うちへの仕送りと。月に一度、布とか糸とか、お菓子とか。あと、お手紙」


「書面は」


「お手紙です」


「受け取り証は」


「ないです……」


「最初に訊(き)いたら、取り次ぎの方が、そういうものだからって。ご恩に受け取り証は付けないものだって」


 イザベルの唇が、きゅっと結ばれた。


「そういうもの、で紙を省くお家を、わたくし、存じませんわ」


「はい」


 エレナは素直に頷(うなず)いたが、分かった顔には見えなかった。


「入学の週に、うちの家令(かれい)から特別課程の取り次ぎへ、文を出させましたの。同じ内容でしてよ。お返事が来たのが先週。一行でしたわ。支援者は決まっております、と。理由もお名前もなし。ご本人に伺(うかが)いもしないで、決まっております、はおかしいでしょう? ですから、ご本人のところへ参りましたの」


「……はい。あの、私、そのお手紙のこと、知らなくて」


「でしょうね」


「ごめんなさい」


「あなたが謝ることではありませんわ。それで、その方のお名前は」


「存じません」


 イザベルの次の言葉が、来なかった。ここまで、間というものを置いたことのない人だったのに。


「……ご存じない」


「はい。お手紙にも、書いてなくて。でも、いい方です」


「名前のない方が」


「はい」


 教室の誰も喋(しゃべ)らなかった。イザベルは封筒を見て、エレナを見て、それから息を吸った。


「……ずるいわ」


 その一言は、声が低かった。言ってから、本人が驚いた顔をした。


「いえ。ずるくは、ありませんわね。先に見つけた方の、正当な取り分ですもの」


 直した声は、さっきの高さに戻っていた。


「分かりましたわ。今日は、お顔つなぎということにいたします」


「お、お顔つなぎ……」


「封筒は置いて参りますわ。読むだけならただですもの。受け取り証は要りませんことよ、下書きですから」


 エレナは封筒を両手で受け取って、どこに置いていいか分からない顔のまま、結局胸に抱えた。


「あの、イザベル様。ありがとうございます」


「礼はよろしくてよ。契約基礎でのお話は、別の組まで聞こえておりますのよ。あなたの目は、評価しておりますの。それに、契約魔法の使い手は、国の宝でしてよ。宝は、どの棚に納めるかまで決まって、初めて宝ですの」


「宝だなんて、そんな……私なんて、ぜんぜん」


「謙遜(けんそん)は値を下げますわ。おやめなさい」


 それから、イザベルはこちらを見た。


 深い紫の瞳と、挨拶のときより長く目が合った。何かを言いかけて、イザベルは口を閉じた。


「ローズグレイス様。ずいぶんと、お早いこと」


「何が?」


 イザベルは答えなかった。


「また参りますわ」


 扉が閉まると、教室じゅうが一度に息を吐いた。係の少年は椅子に腰を落とし、何か言いかけてやめた。


「……声の大きい人だったね」


 エレナが封筒を抱えたまま言った。


「うちのお父さんみたい」


 声の大きい、雑貨屋の主人。あの黒髪に髭(ひげ)を足して、店の奥から出てくるところを思い浮かべたら、頬が勝手に緩んだ。


「……そう」


「いま笑った」


「笑っていないわ」


「クラリッサ、なんで、早いって言われたの?」


「分からないわ」


 本当に分からなかった。


     *


 数日後の午後、エレナが補講に出ているあいだに、渡り廊下でイザベル・アルクールと会った。


 向こうから来る足の速さで、誰か分かった。人通りの多い時刻で、脇を抜けていく生徒たちが、抜けてから振り返る。


「ローズグレイス様。お時間をいただきますわ」


「ええ。次の授業ま——」


「囲っていらっしゃるのね」


 こちらの返事は、要らなかったらしい。


「何を」


「エレナさんを」


「初日に、あの子を条文の相手にお取りになりましたわね」


 早い、というのは、そういうことか。


「取ってはいないわ。一緒に直そうと言っただけよ」


「放課後は毎日、条文を読ませて」


「読ませてはいない。一緒に読んでいるの」


「一緒に、ね」


 イザベルは、その言葉を一度、自分の口で言ってみた。


「支援の方のお名前は、伏せておいで」


「知らないわ」


「ご存じない」


「私の知ることではないもの。エレナのことよ」


「ほら」


 当たった、という顔だった。


「先に見つけて、先に押さえて、他家に値を付けさせない。わたくしなら、そういたしますもの」


「読み違いよ」


「では、初日にあの子をお選びになったのは、読み違い?」


 選んだ。それは事実だ。初日、この子と同じことを、私もした。組む相手を選ぶ目でエレナを見て、気づいてやめた。


「……エレナは物ではないわ」


「物でないものに値を付けるのが、公爵家の仕事でしてよ。お宅も」


 違う、と言うことはできる。けれど、どこが違うのかをイザベルに通じる言葉で言えなかった。


 イザベルの顔が、そこで変わった。


「物扱い、と仰(おっしゃ)りたいのね」


 声が、廊下の端まで届く高さになった。


「わたくしの家では、値を付けるのは大事にすることでしてよ。値の付いていないものは、誰も守りませんわ。誰の勘定にも載らないものは、無くなっても誰も気づかない。お宅だって、蔵に錠(じょう)を掛けるのは、中に値のあるものが入っているからですわ。エレナさんを守っているのは何ですの。名前のない方の、書面のない約束? それで守れると、本気で仰るの?」


 息継ぎがなかった。廊下の人の流れが、止まっていた。


「わたくしは、あなたより——」


 口は開いたままで、続きが出てこなかった。何を言おうとしたのか、クラリッサには分からなかった。


 イザベルは口を閉じて、開けて、別の言葉を出した。


「……順番は、まだ付いておりませんことよ」


「アルクールは降りませんわ。書面のない席は、空いている席ですもの。お覚悟なさって」


 言い終わる前に、もう歩き出していた。歩きながら、まだ喋っている。


「それと、次は書面をお持ちしますわ! あなたにも写しを差し上げますから、読んでから物と仰って! それから——」


 角を曲がっても、声はしばらく聞こえていた。何を言っているかまでは、もう分からなかった。


 廊下の人の流れが、戻ってきた。


 何の覚悟をすればいいのだろう。どうやらイザベルは、名前のない支援の方を、私か、私の家だと思っているらしい。


 気づけば、次の授業が始まっていた。クラリッサは急いで踵(きびす)を返した。


     *


 放課後の教室で、クラリッサは水車小屋の文例を広げていた。端が波打っている。減った年、の下に、エレナの字で、粉の順番、と書き足してある。


 扉が音を立てて開いた。


「クラリッサ! 聞いて」


 エレナだった。補講から走って戻ったらしく、顔が赤い。


「補講の帰りに、イザベル様に会った」


「……廊下で?」


「補講の部屋の前。待ってたの。それでね、評価しておりますって、もう一回言われた。それから、また参りますって。私に、また来るんだって!」


「そう」


「褒(ほ)められてるんだよね、これ」


「……そうね」


「封筒も、読んだよ。すごかった。数字が、うちの店の一年分より大きい」


「それで」


「それでって?」


「どうするの」


「どうもしないよ。だって、私が決めることじゃないもん」


 エレナは封筒を鞄にしまって、寄せた机の向こうに座った。クラリッサは文例の紙を、その前へ押した。


「それで、粉の順番って何」


「減った年に、どっちの村が先に挽(ひ)くか。水の順番だけじゃ足りなくて、粉の順番もいるの。水を先に引いても、小屋の中で待たされたら同じだから」


「小屋の中で待たされるの?」


「待たされるよ。うちの店、粉屋の前で半日待ったことある」


 鐘が鳴った。


 寮の門が閉まる前の鐘だ。クラリッサは手を止めなかった。粉の順番の下に、もう一行足せそうな気がしていた。


「クラリッサ、鐘!」


 手首を掴(つか)まれ、そのまま扉のほうへ引かれた。慌(あわ)てて立ち上がる。ペンが机に転がり、紙が一枚床に落ちて、拾う暇はなかった。


 廊下を走る。走りながら、エレナが振り向いた。


「早く! 門番のおじさん、鐘の数、数えてるから!」


「数えて、どうなるの」


「九つ目で閉める! いま四つ!」


 中庭の落ち葉を蹴散(けち)らして、門の手前でようやく追いついたとき、門番は鐘の綱に手を掛けたまま二人を見て、それから綱を放した。


「間に合った……」


 エレナは膝に手をついて息をしている。クラリッサも、しばらく声が出なかった。


 寮までの道は、暗くなりかけていた。


「エレナ」


「なに」


「支援してくださっている方の名前、本当に知らないの?」


「知らないよ」


 息の整いきらない声で、エレナは即答した。


「でも、いい方だよ。お手紙、毎月くれるし。字が、すごくきれいなの」


「そう」


「なんで?」


「……いいえ。訊いてみただけ」


 知らないわ、と廊下で答えたときは、何とも思わなかった。半年、隣で条文を読んでいて、訊いたことが一度もない。


「クラリッサ、早く。冷えるよ」


 先に行く背中を、追いかけた。


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