第0章 3話 一緒に直してくれる?
入学式の朝は、雨だった。
王立学園の玄関広間は、外套の雫を落とす新入生でひしめいていた。従者に傘を畳ませる子もいれば、家紋入りの外套を預ける子もいる。そのあいだを、自分の荷を自分で抱えた子が、身を縮めて通っていく。
貴族の学び舎といっても王立である以上、ここに並ぶ顔ぶれは、屋敷の茶会よりずっと広いらしい。
クラリッサはその隅で、革箱と睨み合っていた。
今朝、馬車へ乗り込む直前に父から渡された筆記具の箱だった。「学園で使いなさい」。それだけ言って、父は屋敷へ戻っていった。
包みを解いたのは馬車の中で、いざ中を見ようとしたら、銀の留め具がびくとも動かない。押しても、引いても、爪を立てても駄目だった。
手元を見ていたリナが、荷を抱えた従者に気づいて立つ位置を替えた。クラリッサと荷物の間に入り、また留め具へ目を戻す。父から護衛も任されているので、人混みではいつも、こうしてそばにいてくれる。
「お嬢様、わたくしがお預かりして、職人に見せて参りましょうか」
「今日はいいの。お父様からいただいたその日に人へ回すのは、負けた気がするもの」
「どなたとの勝負でございます?」
「箱と」
リナが天井を仰いだ、その横から声がした。
「あの、それ、押したら駄目なやつかもしれません」
濡れた外套を腕に抱えた少女が立っていた。栗色の髪が肩の上で結ばれ、毛先からまだ雨の匂いがする。制服は真新しいのに、抱えた外套の裏地には、ほころびを繕った跡があった。もう片方の手には、名前を書いた木の札。
少女は言ってから、木札を握った手で自分の口を押さえた。
「すみません、勝手に」
「いいえ。どうして駄目だと?」
「うちの店の薬箱と、同じ金具に見えたので。それ、押すと逆に噛むんです。いったん上へ持ち上げて、それから横へ」
言われた通りにすると、留め具は音もなく横へ滑り、蓋は拍子抜けするほど軽く開いた。中で銀のペン軸が三本、行儀よく並んでいる。
「開いた!」
少女の声が広間に響き、当人があわてて口を押さえる。押さえたまま、目だけで笑っていた。
玄関番が進み出て、少女の木札を受け取り、外套掛けの端へ掛けた。乾ききらない墨で、エレナ、とだけある。家名のための余白が、札の半分を白いまま残していた。
「助かりました。ありがとう、エレナさん」
「はい! ……えっ。あの、どうして名前を」
「あちらに」
木札を指すと、少女は札と自分を二度見比べた。
「名乗るのを忘れてました。エレナです。……いま名乗る意味、なくなっちゃいましたけど」
「意味ならあるわ。札は挨拶をしないもの。クラリッサ・ローズグレイスです」
「ローズグレイス……様」
エレナの腰が深く折れた。折れすぎて、腕の外套がずるりと落ちかける。クラリッサが端をつかみ、エレナもつかみ、濡れた布を二人で持つ形になった。エレナが顔を上げた拍子に、琥珀色の目とまともに合う。
「す、すみません」
「外套は無事よ。それより、そんなに折れると、次はあなたが転ぶわ」
「はい。……あ、はいっ」
返事の後半が跳ねた。リナが後ろで、咳払いのふりをして笑いをこらえていた。
*
教室に入ると、雨の匂いは薄れ、新しい紙と墨の匂いが勝った。
机も椅子も子どもの背丈に合わせて低い。なのに正面には王家の紋章が掲げられ、床板の目まで一直線に揃っている。背を丸めたら、そこだけ線が乱れそうな部屋だった。
担任は、マルグリット・ヘイルと名乗った。声の輪郭のはっきりした女の教師で、契約基礎も受け持つという。
出席が取られていく。
「クラリッサ・ローズグレイス」
「はい」
立って、礼をして、座る。どこかの席で、ローズグレイス、と囁く声がした。四大公爵家の名は、十二歳の教室でも仕事をする。
いくつか名が続いて、教師の目が名簿の下段で止まった。
「エレナ」
家名が続かなかった。
教室の空気が僅かにゆらぐ。
「はいっ!」
声が天井に届きそうだった。後ろの席で誰かが吹き出しかけ、エレナは立ったまま、礼をやり直した。
「よろしくお願いいたします」
二度目は整っていたが、整いすぎてこわばって聞こえる。
教師は名簿へ印を入れてから、顔を上げた。
「ご存じの方もいるでしょう。エレナさんは契約魔法の使い手として、特別課程で本学園に加わります。実務の補講と並行しますが、この教室では皆さんと同じ生徒です。どうぞそのように」
契約魔法。
その一語で、屋敷の応接の間で見た光景がふいに戻ってきた。銀の記章の、灰色の紳士。紙を転がり落ちた墨の玉。国の宝、と誰かが言った声も。
あの時の使い手は大人だった。いま頭を下げているのは、けさ薬箱の金具の話をした、外套に継ぎのある女の子だ。
教室のあちこちで、背筋が伸びるのと、視線が交わされるのが、同時に起きた。感心と値踏みは、こんなに似た顔をするものらしい。
最初の授業は、その契約基礎だった。
ヘイル先生は黒板に、文例を書いた。
一、北の養鶏場は、学園の厨房へ毎朝、卵を二百個納める。
二、ひびの入った卵は、数に入れない。
三、納入が遅れた日は、翌朝までに不足を納めれば、咎めない。
四、遅れのあった月は、月末の代金から一割を減じる。
「このまま結んだ場合、どこで揉めるでしょう。ひとつで構いません、印を付けてみてください」
番号を振って並んだ条文を目で追ううち、妙な既視感がした。前にも、こういう並びを長く読んでいた気がする。学園は今日が初めてなのに。……夢で、かしら。
既視感の出どころを探すより先に、手が動いていた。毎朝の時刻。ひびの判定を誰がするか。卵の大きさ。それから、三と四のあいだに線を一本。
「ローズグレイス嬢、いかがですか」
「毎朝の時刻が決まっていません。ひびの有無を誰が判定するかも。それと、三条と四条は両立しません。咎めないと書きながら、代金を減じています。どちらが優先か、定めるべきです」
「よい指摘です。三条と四条について、ほかに気づいた方は——」
椅子の脚が、床を擦った。
エレナが立っていた。手は挙がっていない。立ってから自分でそれに気づいた顔をしたが、座り直しはしなかった。
「エレナさん、どうぞ。次からは手を挙げてくださいね」
「はい。あ、すみません……。あの……それ、両方とも、使われます」
「両方?」
前の席の少年が振り向いた。エレナはうなずいて、黒板を指した。
「直してもらえるならいいんです。でも、このまま判子を押したら、咎めない、も、一割引く、も、両方ほんものです。それで、お金を払う日になったら、払う側が、都合のいい方を読みます」
教室がしんとした。
「うちは雑貨屋なんですけど、品物を納めた先との契約に、こういうのがあって。片方の紙には、荷が遅れても構わないって書いてあって、別の紙には、遅れたら代金を引くって書いてあって。父は、構わないって言われた方を覚えてたんです。でも月末には、遅れたからって、もらえるお金が減っていて。あの、間違いで書いたんだとしても、判子を押したら、間違いの方がほんものに——」
言葉の終わりが、だんだん速くなる。エレナはそこで息が切れたのか、口を閉じ、耳を赤くした。
「……すみません。長くなりました」
「いいえ、大事な話です」
ヘイル先生はチョークを持ち直した。
「ローズグレイス嬢は、直すべき場所として指摘しました。エレナさんは、直さないまま結んだら何が起きるかを話しました。契約を読む目は、この二つで一組です。——では三条と四条、皆さんならどう直しますか」
クラリッサは、自分の紙に引いた一本の線を見た。
自分は、間違っているから直せばいいと思った。エレナは、その間違いを都合よく使う人がいると知っていた。一緒に読めば、自分だけでは見落とすことにも気づけそうだった。
考えがそこまで進んでから、エレナを仕入れ先のように品定めしていることに気づき、ペンを置いた。
後半は、二人一組で文例を直す時間になった。
周りの席は、目配せだけで組を決めていく。クラリッサの隣は空いたままだった。四大公爵家の名は、こういう時にも仕事をする。
振り向くと、エレナが冊子を胸に抱えて立っていた。
「エレナさん。三条と四条、一緒に直してくれる?」
「私で、いいんですか」
「両方使われる、と言った人がいいの」
エレナの顔がぱっと晴れた。けれど周りを見回すと、少し笑顔を引っ込めた。
机を寄せると、エレナは冊子より先に、黒板を写したクラリッサの紙へ指を伸ばした。断りを入れる間も惜しいという速さで、一条、二条と辿っていく。
「ここ、朝のうちって、鐘の何回目までか決めるといいです。あと、ひびは、受け取る時に厨房の人と一緒に数えるって書けば、あとから割れたのと分けられます」
「割れる前提なのね」
「卵ですから。荷車は揺れるので」
真顔だった。クラリッサは笑いそうになるのをこらえ、紙に、受け取るときに、双方で数を確かめる、と書いた。
「ローズグレイス様は、字がきれいですね」
「クラリッサで結構よ。家名は長いもの」
「クラリッサ様」
様は残った。クラリッサが眉を寄せると、エレナはあわてて言った。
「だ、だめでしたか」
「だめではないわ。今日のところは」
エレナはなぜだか嬉しそうに、はい、と言った。
提出の鐘が鳴る頃には、文例は行間まで黒くなっていた。時刻、検数、原因の区分、支払いの割り方。ヘイル先生は二人の紙を長めに読み、条件が多いですね、と言った。
「毎朝、卵が届くための条件です。罰するための契約ではありませんから」
クラリッサが答えると、隣でエレナが息を吸う音がした。横目でうかがうと、まぶしいものを見た顔をしていた。
「次は、削る練習をしましょう。必要な条件だけ残して短く。……ですが、三条と四条の直し方は、この組がいちばん実際的でした」
授業が終わると、廊下から補講の集合を呼ぶ声がした。エレナが弾かれたように立つ。
「行かなきゃ。あの、クラリッサ様、今日はありがとうございました。留め具と、卵と……ええと、とにかく全部です!」
「全部って……」
訊き返そうとした時には、もう廊下の角へ制服の裾が消えるところだった。
*
最初の学期が終わり、休暇で王都の屋敷へ戻った日の夕方、クラリッサは帰着の挨拶のため、父の書斎を訪ねた。
父は机の書類から顔を上げ、座りなさい、とだけ言って、また一枚に署名した。暖炉の火はまだ入っていない。インクと革の匂いのする、寒くも暖かくもない部屋だった。
学園のことをいくつか訊かれた。寮の食事、礼法の教師、剣術を取らなかった理由。クラリッサが短く答えるたび、父は書類へ目を戻しては、また上げた。
「契約基礎は、面白いです。いちばん」
「そうか」
ペンが署名をひとつ済ませる。
「契約のしくみは、見えてきたか」
クラリッサは、膝の上で手を重ねた。
「道を先に書いておくことまでは、以前、お父様の契約に立ち会わせていただいたときに。学園では、その先をひとつ知りました」
「言ってみなさい」
「道が二枚書いてあると、選ぶのは書いた側でも、正しい側でもありません。払う側です」
父のペンが止まった。
「誰に習った」
「同級生です。エレナという、雑貨屋の娘で……契約魔法の使い手です。家の店が、そういう契約で損をするのを見てきたそうです」
父はしばらく黙っていた。窓の外で、庭師が梯子を運ぶ音がする。それから、ペンを置いた。
「……そうか」
それだけだった。話は寮の門限のことに移り、ほどなく、もう行きなさい、になった。クラリッサが扉の前で礼をすると、背中に声が届いた。
「クラリッサ」
「はい」
「次の休みも、聞かせなさい」
振り向いた時には、父はもう書類に戻っていた。
廊下に出ると、リナが壁際で待っていた。
「長うございましたね。お叱りで?」
「いいえ。宿題をいただいたわ」
「入学祝いに開かない留め具、休暇に宿題……閣下の贈り物は、どうしてこう手強いのでしょうね」
留め具の開け方なら、もう知っている。クラリッサは廊下の先へ歩き出した。次の休みまでに話せることを、頭の中で数えはじめながら。




