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第0章 2話 結ぶ前が、すべて

 クラリッサが七つになったころ、引き出しの石鹸(せっけん)は二代目になっていた。


 約束どおり縁(ふち)の厚い型で固められて、花の縁はもう欠けていない。白い粒はまだ残っているけれど、直すところは三つから二つに減った。三代目を待つのが、このごろのクラリッサの楽しみのひとつになっている。


 その三代目より先に、王都から客が来ることになった。


「本日のお客様は二組でございます」


 朝から、リナの櫛(くし)には一切の容赦(ようしゃ)がなかった。髪を引かれるたび、鏡の中の薄青い目が細くなる。


「王都の商会のご主人と——お嬢様、お動きにならない——それから、契約魔法をお使いになる御方(おかた)だそうでございます」


「契約魔法?」


「はい。よろしいですか、奥様がお加減の優れないぶん、本日のご挨拶(あいさつ)はお嬢様のお役目でございます。膝(ひざ)を折って、口上(こうじょう)を述べて、下がる。以上です」


「質問は?」


「なさらない前提のお支度です!」


 裏庭の一件以来、リナはますます用心深くなった。クラリッサはおとなしく髪を結われながら、鏡の中のリナに訊(き)いた。


「それで、魔法のお客様は何をしにいらっしゃるの?」


「蜜蝋(みつろう)と灯り油の、冬のお納めの契約だそうです。お屋敷と商会との。その場にお立ち会いくださるのだとか」


「契約に、魔法で立ち会うの?」


「あとから誰かが、契約書を書き換えられないようにするのだそうです」


「どうやって?」


「そこまでは存じません。わたくしが使えたら、お嬢様とのお約束にも困っておりませんよ」


 応接の間には、紙と墨と封蝋(ふうろう)、それから蜜蝋の見本の、蜂蜜(はちみつ)を薄めたような匂いが漂っていた。


 初めて入る部屋のはずなのに、この匂いの取り合わせを、鼻がなぜか知っていた。


 家令(かれい)を従えた父の向かいには、恰幅(かっぷく)のいい商会主。その隣に、灰色の外套(がいとう)をまとった年配の紳士がいた。契約魔法の使い手は、薄い革の鞄(かばん)をひとつ持ち、胸に銀の記章(きしょう)を留めているだけだった。


 クラリッサが膝を折って挨拶すると、商会主は腰を浮かせ、紳士は目の高さを合わせて礼を返した。これで、役目は終わりだ。リナの目配せに従って下がろうとしたとき、父が言った。


「残りなさい」


 クラリッサとリナは同時に止まった。家令が壁際の椅子を示し、クラリッサはおとなしく座った。


 家令が契約書を読み上げる。冬のあいだ、月に二度、蜜蝋と灯り油を納める。量と値段に続いて、雪で街道が閉じたときの話になった。


 期日を改めて荷を割り増すか、できなければ値を引く。蝋(ろう)の質が見本より落ちれば、突き返してよい。


 屋敷が支払いを遅らせたときには、翌月は利息を加えて払う。公爵家(こうしゃくけ)も、遅れれば払う。


 約束を守りなさい、とは言わない。破れたあとの道が、先に敷いてある。それも、両側に。


 右手の指が動きかけた。聞いたことを書き留めたくて、クラリッサは手袋の中で指を丸めた。


 読み合わせが終わると、商会主が額を拭(ぬぐ)った。


「文言(もんごん)に相違(そうい)ございません。それで、その、例のお立ち会いの儀(ぎ)を……」


「これへ」


 父が短く答える。商会主は父に向き直り、揉(も)み手のまま頭を下げた。


「公爵家を疑うようで、まことに心苦しいのでございますが。手前ども、以前よそ様との商(あきな)いで、写しを一枚だけ書き替えられて往生(おうじょう)いたしまして。ええ、もう、裁きにも持ち出せず、番頭(ばんとう)は寝込みますし……いえ、これは余計な話でございました」


「構わん。疑いを先に潰(つぶ)すのは、良い商いだ」


 父の返事は素っ気なかったが、商会主の肩は目に見えて下りた。


 三通の書面に、商会主、家令、最後に父が署名した。それを待って、灰色の紳士が立ち上がり、手袋を外した。


「では、通常契約として公証(こうしょう)いたします」


 その魔法には、詠唱(えいしょう)らしい詠唱もなかった。紳士は重ねられた三通の上に、手袋を外した手をかざしただけだった。


 変化は音もなく起きた。


 最初に気づいたのは、部屋の静けさの質が変わったことだった。誰も動いていないのに、空気が一枚、張り替えられた。


 それから紙の上の文字が、一段深く沈んだ。墨の黒が深まり、磨いた黒い石のような艶(つや)をまとい、三通の同じ場所が同じ順に、灯りを撥(は)ね返しはじめる。卓の燭台(しょくだい)の炎は揺れもしなかった。


 家庭教師の魔法は、目の前で何かが動く。火の粉が散り、水が輪を描く。これは逆だった。インクが乾き、紙が反り、人の手が書き足していく——ものが移ろっていく当たり前の全部が、この三通の上でだけ、止まった。


 クラリッサは、自分が息を詰めていたことに、あとから気づいた。


「お検(あらた)めを」


 紳士が商会主に、ごく普通のペンを差し出した。商会主は慣れた手つきで控えの余白に何か書きつけ——ようとして、失敗した。


 書けないのではない。墨が、乗らない。


 ペン先から落ちた墨は、葉の上の水滴のように玉になり、字の形にならないまま紙面を転がって、縁からこぼれて消えた。商会主は面白がって二度、三度とペンを走らせ、そのたびに墨は玉になって逃げた。


「刃物でも、お試しください」


 紳士が言った。家令が書状用の小刀を差し出す。商会主は一瞬ためらってから、署名の端に刃をあてた。


 紙の表は、薄く削(そ)げた。だが文字は削れなかった。墨は紙のもっと深いところに沈んでいて、刃の届く場所には、もういなかった。


 小刀が、音を立てないように卓へ戻された。


「結構。……結構でございます」


 繰り返す声は、来たときとは別人のように低かった。


 商会主は控えの一通を、布を敷いた木箱へ納めた。紙一枚のために、とクラリッサは思いかけて、やめた。あの艶を見たあとでは、ただの紙一枚とはいえない。


 訊くなら今しかない。クラリッサが椅子を下りたのと、リナの手が伸びたのは同時だった。袖をつかまれる前に一歩前へ出る。


「あの」


 部屋じゅうの目が集まった。背後でリナが凍りつくのが、見なくても分かった。


「間違いが書いてあったときは、どう直すのですか」


 灰色の紳士は、ゆっくりと二度まばたきをした。


「……もう一度、伺(うかが)っても?」


「書き間違いです。間違いごと固まってしまったら、もう直せないように見えます」


 短い沈黙があった。商会主が父の顔色をうかがう。父は動かなかった。


「直せません」


 紳士は言った。


「間違いごと、固まります。直したいときは、皆さまがもう一度この場をお作りになって、新しい紙で結び直すほかございません。——ですから、読み合わせにいちばん時間をかけるのです。固める手間は、ご覧のとおり一瞬ですので」


「結ぶ前が、すべて」


「左様(さよう)」


 紳士は初めて、目もとをやわらげた。


 クラリッサは一礼して椅子に戻った。


 刺繍(ししゅう)なら、解いてやり直せばいい。けれど、この紙は間違いごと固まってしまう。それなのに商会主は上機嫌で、蝋の見本の講釈(こうしゃく)を父相手に始めていた。


 間違いが直せないと決まっているから、間違える前に、全員が真剣になる。


 変な魔法だ、とクラリッサは思った。火も水も出さない。何も壊さない。人を真剣にさせるだけの魔法。


 茶が替わり、場が緩んで、大人たちの話は冬の街道の様子へ流れていった。クラリッサの出る幕は、もうなかった。


「しかし、ようございましたな。ああいう御方に、王都からわざわざお運びいただけるとは」


 壁際で、家臣のひとりが家令にささやくのが聞こえた。


「契約魔法をお使いになる方は、数がおられませんからな。国の宝でございますよ。うちの領にもお一方いてくだされば、と、つくづく思いますな」


 声には本物の敬意があった。


 けれど——


 クラリッサは灰色の紳士の背中を見た。さっきの声は、珍しい品を見つけて「うちにもひとつ」と話す声に、少し似ていた。


 紳士は外した手袋をはめ直していた。指を一本ずつ革に収める手つきは丁寧だった。さっきの声が聞こえたのかどうかは、分からなかった。


 客が発ったのは夕暮れ前だった。見送りの列から解放されるなり、リナの小言が始まった。


「ご挨拶だけと、あれほど申し上げました」


「残りなさいって言われたもの」


「お残りになることと、お立ちになってご質問なさることは別でございます! 心の臓がいくつあっても足りません」


「でも、答えてくださったわ」


「それは……そうですが」


 リナは廊下の前後をうかがい、声を落とした。


「……あの御方、お答えのあいだ、ずっと嬉しそうにしていらっしゃいました」


「嬉しそうに?」


「はい。ですからきっと、悪いご質問ではございませんでした。……ですが二度となさらないでくださいませ」


「どっちなの」


 リナが歩き出しかけたところで、クラリッサは呼び止めた。


「ねえ。あの方、お名前は何とおっしゃるの」


「……お名前、でございますか」


 リナは少し考えた。


「申し訳ございません。わたくしも存じません」


 国の宝だとは、何度も聞いた。けれどクラリッサも、あの人を何と呼べばよいのか知らなかった。


 夜、勉強部屋で、クラリッサは書き取りの羽根ペンを置いた。


「リナ。私がした約束って、いくつあるかしら」


 燭台の芯を整えていたリナは、振り向きもせずに指を折り始めた。


「並んで叱(しか)られてくださる件。今夜、書き取りを一枚仕上げる件。奥様のお加減のよい日に、刺繍をお見せする件……」


「よく覚えてるのね」


「忘れますと、わたくしが困る約束ばかりですので」


「じゃあ、リナが私の公証人ね」


「はい?」


「今日のあの方よ。私が約束を破りそうになったら、ああやって弾いてちょうだい。墨の玉みたいに、ころんと」


 リナはようやく振り向いて、燭台を掲げたまましばらく考え、それから心の底から嫌そうな顔をした。


「主を弾く侍女(じじょ)が、どこにおりますか」


「ここに」


「威張(いば)ることでもございません! ……では、公証人として申し上げます。今夜の書き取り、まずは一枚仕上げていただきます」


「宿題まで取り立てるの?」


「お約束ですから」


「公証人って、そんなに偉いの……」


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