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第0章 1話 へたなんだもの

 クラリッサ・ローズグレイスは、リュミエール王国四大公爵家(こうしゃくけ)のひとつ、ローズグレイス家の長女として生まれた。物心ついたときには、一日は礼法(れいほう)と家系図と刺繍(ししゅう)のお稽古(けいこ)で埋まっていた。


 屋敷は広いのに、歩いてよい場所は決められている。決められているだけで、守ったことはあまりない。お稽古の合間はぜんぶ探検に使った。六歳の春が終わるころには、まだ足を踏み入れていない場所は裏庭だけになっていた。


 その裏庭から、へんな匂いが流れてきた。


「リナ。あの匂い、何かしら」


「匂い、でございますか」


「煙と……油? 焦げたのとも違うわ。裏のほうから来てる」


 嫌な匂いのはずだった。なのに、鼻がもっと嗅(か)ぎたがっている。お香とも薔薇(ばら)とも違って、それは何かが出来上がっていく最中の匂いだった。


 礼法の稽古を終えて廊下へ出たところだった。付き添いの侍女(じじょ)リナは、濃い茶色の髪を二本の三つ編みにして、襟足(えりあし)の後ろから揃えて垂らしている。窓の外へ一度だけ視線を泳がせてから、諦(あきら)めたように答えた。


「洗濯場でございます。裏庭の。……お嬢様、お顔がもう行く気になっておられます」


「なっていないわ」


「では反対側の薔薇園へご案内を」


「薔薇は逃げないもの。匂いは今だけよ」


 言い切ったときには、もう歩き出していた。リナが小走りで追ってくる。


「叱(しか)られますっ。お嬢様より先にわたくしがです!」


「じゃあ私も並んで叱られてあげる」


「並んで叱られる令嬢(れいじょう)がどこにおりますか!」


「ここに」


「威張(いば)ることでもございません! ……お嬢様、おやつの時間が近うございます。今日は蜂蜜(はちみつ)の——」


「あとでいただくわ」


「即答……」


 リナの嘆きを背中で聞き流して、勝手口の脇を抜ける。屋敷に六年暮らして、こういう抜け道を先に覚えてしまうのは、我ながらどうかと思う。


 裏庭へ下りる石段は、表の庭の石段より急で、下りきった先はまるで別の国だった。張られた綱に白い洗濯物がいくつも膨らみ、石畳(いしだたみ)の溝を灰色の泡が流れ、その奥で大きな鍋がひとつ、とろりとした湯気を上げている。湯気は空へまっすぐ立ちのぼり、干した敷布(しきふ)の白と混ざって見えなくなった。


 鍋を囲んでいたのは洗濯係の女がふたり。木べらが底をこするたび、どろ、と重い音がした。


 年かさのほうが先に気づいて、跳ねるように腰を折った。


「おっ、お嬢様!? ここは汚れます、その、お召し物が」


「汚さないわ。たぶん」


「たぶん!?」


 女は言いながら、前掛けの下へ両手をさっと隠した。隠れる前に見えてしまった。指の節が赤く割れて、ところどころに血の色が滲(にじ)んでいる。


 クラリッサは頬にかかった白に近い銀色の髪を払い、鍋のそばまで進んだ。肩へ伸びてきたリナの手が、触れる寸前で止まる。鍋の中では、黄みがかった油と濁った灰汁(あく)が、ゆっくり渦を巻いていた。


「石鹸(せっけん)を煮ているのね」


「は、はい。洗い場で使う分は、買わずにこちらで。灰汁と、厨房(ちゅうぼう)の残り油でございます」


「灰と油。それに火加減と、混ぜる順番」


 するりと口から出た。出てから、クラリッサは自分の言葉に立ち止まった。


 順番って、何。


 誰にも習っていない。家庭教師が教えるのは花の名前と家系図で、母が教えてくれるのは刺繍と香り袋の縫い方で、父は仕事の話をまだ一度もしてくれない。灰と油を煮る話なんて、この屋敷の誰が六歳の令嬢にするだろう。


 鍋の湯気が、ふっと白く濃くなった。


 その白の向こうに、別の白が見えた。継ぎ目のない白い床。壁を這(は)う銀色の管。揃いの白い帽子をかぶった人たちがガラス越しに大きな釜(かま)をのぞきこんでいて、誰かの手が、湯気の上へ長い木の櫂(かい)を差し入れ——


「お嬢様?」


 リナの声で、白い床は消えた。目の前には濡れた石畳と、鍋と、心配そうな顔が三つ。


「いま、どちらを見ておいででした」


「鍋よ」


 嘘は言っていない。ただ、鍋の向こうに一瞬あった景色のことは、説明のしようがなかった。知らないはずのことを、なぜか知っている。分かるのはそれだけだった。


 目が勝手に木べらの先を追っていた。いまは速い。もっとゆっくりでいい。なぜか、見ただけで分かってしまう。


 ここにはペンも紙もないのに、右手の指が何かを書き留めようと動きかける。クラリッサは手袋の上からその指を握りこんだ。


 首を振って、あらためて年かさの女を見上げた。


「ねえ。その手、灰汁で荒れるの?」


「お、お見苦しいものを。冬よりはましでございますよ」


「見苦しいかどうかじゃなくて、痛むかどうかを訊(き)きたいの」


「……洗い場の者は、みんなこうです。仕事のうちですから」


 仕事のうち。その言い方が、なぜだか胸の奥に引っかかった。針で刺されたあとに、じわりと痛みが広がるようだった。


 クラリッサは鍋の表面をのぞきこんだ。泡のあいだに、白い粒がいくつも浮いている。


「この粒、灰汁の溶け残りでしょう。布に残れば生地が傷むし、手にも刺さるわ。煮る前にこせばいいのよ。布を二枚重ねて」


「こ、こす……はあ」


「それから火が強いわ。底ばかり煮えると混ざりが偏るの。焦げた匂いがしてからでは遅いのよ」


 若いほうの女がつられたように火を見て、薪(まき)を一本引き抜きかけ、年かさに睨(にら)まれて手を戻した。それでも言いたいことはあるらしく、木べらを抱えたままこちらへ半歩寄ってくる。


「あの、お嬢様。粒をこしますと、その、汚れ落ちが弱くなったりは」


「灰汁の濃さは変わらないもの。溶け残りは洗う力にならないで、布と手を削るだけよ。……心配なら、ためしに半分だけこして、洗い比べてみたら?」


「洗い比べ?」


「同じ布を半分ずつ洗って、乾かして、並べて比べるの。目で見れば、どちらがいいか喧嘩(けんか)にならないでしょう」


 若い女は目をぱちぱちさせた。年かさの女はもう、驚くのをやめた顔になっていた。リナが横から、おそるおそる割りこんでくる。


「お嬢様。そういうお話、どこでお習いになりました」


「習っていないわ」


「習っていないのに、こすとか、偏るとか」


「見れば分かるもの」


 分かるわけがない、という顔を、三人が三人ともした。当然だと思う。灰汁の粒の話なんて、礼法のどのページにも載っていない。それでも、あの割れた指を見てしまったあとでは、黙って薔薇園へ引き返すほうがずっと難しかった。


 ふと、鍋の横に立てかけられた大きな木枠が目にとまった。固めた石鹸を切り分けるための枠らしい。


「切り分けるとき、端が崩れるでしょう。あの枠だと」


「はい……。崩れた分は洗い場でそのまま使いますが」


「最初から小さく固めればいいのよ。厨房に、もう使っていない菓子型があるはずだわ。あれへ流せば切らずにすむし、形が揃えば数もかぞえやすい」


「菓子型……菓子型に、石鹸を!?」


 年かさの女は目を剥(む)いて、隠すのも忘れた手で鍋の縁(ふち)を掴(つか)んだ。


「奥様の焼き菓子の型ですよ! 罰が当たります!」


「使われないまま埃(ほこり)をかぶるほうが、よほど罰が当たるわ。——ああ、でも、無理にとは言わないの。ためしたくなったらでいいわ」


「……はあ」


「そのかわり、できたら一番へたなのをひとつちょうだい。うまくいったのより、へたなほうで」


「へたなのを、ですか?」


「へたには理由があるもの。理由が分かれば、次はうまくいくでしょう」


「……変わったお嬢様ですねえ」


 若いほうがぽろりとこぼして、年かさに脇腹を小突(こづ)かれた。クラリッサは怒らなかった。変わっている自覚なら、たぶんこの場の誰より自分が持っている。


 そのとき、裏庭の空気がすっと張りつめた。


 洗濯係ふたりの背筋が同時に伸びる。リナが息を呑(の)み、半歩前へ出て袖を広げかけ、途中で下ろした。クラリッサが振り向くと、渡り廊下の石柱の陰に、父が立っていた。


 アラン・ローズグレイス公爵。軍務卿(ぐんむきょう)。この屋敷でいちばん忙しくて、いちばん怖い人。


 叱られる——稽古用の装いのまま裏庭へ下りたこと、使用人の仕事に口を出したこと、数えあげれば指が足りない。クラリッサはとっさに背筋を伸ばし、裾(すそ)の灰を払いかけた手を途中で止めた。いま払ったら、汚しましたと白状するようなものだ。


 父の灰色の目が、裏庭を順に辿(たど)った。


 鍋。木枠。頭を下げる洗濯係。それから、クラリッサ。


 一拍。


 そこで視線は、もう一拍だけ長く止まった。


 何も言われなかった。父はそのまま背を向け、従者(じゅうしゃ)を連れて渡り廊下の奥へ消えていった。


 足音が遠ざかりきってから、裏庭にようやく水音が戻ってくる。リナが胸を押さえて、長い息を吐いた。


「し……叱られませんでしたね……」


「……ええ」


「あとで奥様経由でまとめて、という手順かもしれません」


「リナはどうしてそう不吉なの」


「経験則でございます」


 リナの軽口を聞き流しながら、クラリッサは渡り廊下の奥をまだ見ていた。あの一拍の長さが何だったのかは、考えても分からなかった。分からないものが、今日はもうひとつ増えた。


 十日ほどして、夕方の勉強部屋に、リナが小盆を掲げて入ってきた。盆の上には、焼き菓子に見える灰色がかった塊がひとつ。花の形の縁は半分欠け、表面には白い粒が浮いている。


「洗濯場より献上品(けんじょうひん)でございます。『いちばんへたなの』だそうです。……厨房のばあやと型の貸し借りで一悶着(ひともんちゃく)あったとか、なかったとか」


「まあ」


 クラリッサはつまみあげて、鼻を寄せた。煙と、油と、あの日の裏庭の匂いがした。


「粒が残ってる。こし方が足りないんだわ。それに縁がこんなに欠けるのは、型から外すのが早すぎるのよ」


「お嬢様、それは召し上がれませんからね」


「食べないわよ!?」


 言ってから、ちょっとだけ黙った。焼き菓子の型のせいで、匂いさえ我慢すれば食べられそうな顔をしているのだ、この石鹸は。


「いま迷いましたね」


「迷っていないわ」


 欠けた花を窓の明かりへかざす。崩れた縁を眺めているうちに、直すところが三つ、頭の中に勝手に並んだ。


 誰に習ったのでもない。あの白い床も、銀色の管も、どこにあるのかさえ知らないのに。


 もう一度思い出そうとして、石鹸を鼻へ寄せた。煙と油の匂いはしたけれど、あの景色は戻ってこなかった。


「……やっぱり、召し上がるおつもりでは」


「違うわ!」


 クラリッサはそれを勉強机の引き出しにしまった。文鎮(ぶんちん)の隣、いちばんよく開ける場所だった。


「リナ、洗濯場に伝えて。よくできました、って。それから次は、縁の厚い型で、って」


「次があるのですか!?」


「あるに決まってるでしょう。だってこれ、まだ全然へたなんだもの」


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