プロローグ はい、と言わされた
「——王太子レオポルト殿下と、ローズグレイス公爵家令嬢クラリッサ嬢との婚約の儀は、期日を定めず延期する」
延期、と言った。期日は、決めずに。
取りやめる日は今日で、始める日は決まっていない。それでも、破棄とは言わないのだ。
上手な言い方だわ、と思った。
この国では、契約を魔法で結ぶ。結んだ文は誰にも書き換えられない。
けれど私たちは、まだその儀を済ませていなかった。大勢に名を知られ、お祝いを受けていても、結ぶ前ならこうして止めることができる。
広間には冬の日が差していた。左右に並ぶ人たちの衣装は明るく、黒い服の私は、その真ん中に立っている。
父が、商人からお金を受け取ったという。
まだ調べているところで、決まった話ではない。そう聞かされてここへ来た。私の縁組のほうは、もう読み上げるだけになっていた。
「お沙汰を承った旨、お答えを」
何と思うかは、訊かれていない。
「謹んで、承りました」
礼をして、顔を上げた。俯いたままでいる理由まで、渡したくなかった。
役人が文を畳もうとしている。口を開きかけたけれど、この方に尋ねてよいのか分からず、唇を結んだ。
レオポルト殿下が、お許しを得て席を立った。近づく靴音を聞きながら、さっきと同じ返事を、もう一度は言えないと思った。
「何か、申したいことがあるのではないか」
殿下の向こうには玉座がある。
「……申し上げても、よろしいのでしょうか」
「そなたの目は、確かだ」
思いがけない返事に、殿下へ目を戻した。
「初めて茶を共にした日に、王家の織物の誤りを指した。私の前でも、間違いを見つけて黙っている者ではなかった」
あの日は、お話ししたあとに隣へ呼んでくださった。今日は、ここから退くように言われている。
「でしたら、一つ、お尋ねいたします」
殿下が頷いた。
「父が金を受け取ったと、まだ決まっていないと伺っております」
「そのとおりだ」
「では、なぜ、私が殿下のお隣に立てないことだけは、先に決まるのでしょうか」
殿下は答えなかった。
違うと言ってほしかった。延期とは、そういう意味ではないと。この方がそう言ってくださるなら、私はきっと信じてしまう。
さっきの自分の声が、耳に残っている。
謹んで、承りました。
あんなに聞き分けのよい声が出せるとは、知らなかった。
お読みいただき、ありがとうございます!
第0章では時を遡り、クラリッサの幼いころから物語が始まります。
人々との出会い、巻き込まれる事件、そして深まる謎が、このプロローグへとつながっていきます。
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