第1章 4話 もう、結べます!
「濡らしたり、乾かしたり。人間って大変だね」
椅子のそばへ来たポグが、クラリッサの髪を見上げた。
「そうね。だから、少しでも楽にしたいの」
「ぼくは、拭けば終わるよ」
「でも、お手入れは大変なのでしょう?」
「うん。アルキトがね」
「……他人事だなぁ」
アルキトが、じとりとポグを見下ろした。
父の葬儀から、数日が過ぎていた。書きかけだった便りを工房へ送り、試験料を払って今日の午後を借りた。奥の小部屋は火鉢で暖められ、髪を洗う湯も用意してくれていた。
リナが布で水気を取る間に、クラリッサは持参した置き鏡から、椅子の横へ目を向けた。
床に置かれた厚い台座から、細い支柱が立っている。上から伸びる腕は肘のように折れ、その先に短い筒が下がっていた。工房の部材を組み直して作ったという。前に試した筒が、今はクラリッサの頭より高いところにある。
台座の開いた蓋からは、拳より大きな蓄魔石が見えた。アルキトは腕の高さを合わせ、筒の小さな取っ手を引く。筒を頭の斜め上へ寄せ、口を髪へ向けてから、脇の金具を押した。
「これで、お嬢様の頭の位置が分かります」
手を離しても、筒はその場に留まっていた。
「今日は工房の石を使います。どれだけ減ったか、これで測れますので」
台座の脇につないだ測り具を示し、針の位置を書き留める。クラリッサは頷いた。あの見積もりの石が本当に要るのか、今日はそこまで知って帰りたい。
リナの足元には、木枠に収めた踏み板があった。そこから伸びる線は、台座へつながっている。
「頼んでいたものですね」
「はい。後ろに立って、風を当てたい方へ傾けてください。斜めにも動きます。足を戻せば、そこで止まります」
リナが櫛を取ると、アルキトは風を出した。
首筋に貼りついていた髪が、リナの指で持ち上がる。その間へ温かい風が通り、思わず肩の力が抜けた。
「これなら、お母様も寒くないわね」
「ええ。もう少し下へ……」
言いかけたリナは、踏み板へ目を落とした。片足で板を傾けると、肘から先がするすると伸び、筒が下りてきた。口もわずかに傾き、首の横へ風が届く。リナは髪も櫛も、持ったままだった。
「あら……楽ですね、これ」
鏡の中で、リナと目が合った。
「ええ。今、お願いしかけたでしょう?」
「まだ、慣れませんもの」
リナは笑い、アルキトへ目を向けた。
「踏むのも軽くて、助かります」
「そこは、何度か直しました」
アルキトは少し嬉しそうに答えた。リナが、持ち上げた髪に櫛を通す。
リナが反対側の髪を分け、踏み板を傾けた。伸びていた腕が縮んだ。肘が持ち上がり、筒が頭の上を越えていく。下りてくる間にも口の向きが変わり、リナが分けた髪へ風が届いた。
クラリッサは筒を目で追った。
「……向け直さなくて、いいのですね」
「ええ。そのために頭を捉えさせましたので」
絵を見ながら聞いたときは、こんな動きまで思い浮かべていなかった。
知っているドライヤーは、自分の手で持ち、髪へ向けるものだった。リナが踏むだけで、腕が曲がり、伸びて、欲しいところへ風を運んでくれる。
クラリッサはもう一度、頭の上を見たくなった。それから、リナがどう踏んだのかも気になり、足元を覗こうとした。
「まずは、お嬢様。お顔を前へ」
首まで傾けていた。クラリッサが顔を戻すと、耳の横へ風が来る。
「あ、ここは少し熱いわ」
アルキトがすぐに温かさを下げた。リナは髪を分け直し、風を通す場所を変える。
もう少し広く風が届くようにはできないかしら。温かさは心地よいのに、狭いところへ集まると熱くなる。そう伝えると、アルキトは筒の口へ目を寄せた。
「先の形を変えてみます。今は、この温かさで続けてもよろしいですか」
「ええ。気持ちがいいです」
*
「もう、結べます!」
リナが風の音に負けない声で言った。
クラリッサは、後ろへ手を入れた。指の間を髪がさらりと落ちる。耳の後ろにも、首の付け根にも、冷たく湿ったところがない。
風が止まった。二十分ほどです、とアルキトが時計を見せる。リナも覗き込んだ。
「いつもは、一時間以上かかりますのに」
リナは時計を見直し、鏡越しにクラリッサを見た。
「お嬢様、聞いていらっしゃいます?」
「聞いているわよ。二十分でしょう?」
「そうです、二十分です! どうしてそんなに落ち着いていらっしゃるのですか」
「そんなことないわ。私だって嬉しいもの」
クラリッサはまた、髪に指を通した。乾いたのはもう分かっているのに、何度でも確かめたくなる。
「アルキトさん、ありがとうございます」
クラリッサが顔を向けると、彼は測り具に伸ばしかけた手を止めた。
「髪が乾いて、こんなに嬉しくなったのは初めてです」
「……そこまで喜んでもらえるとは、思っていませんでした」
アルキトは照れくさそうに笑い、耳の後ろをかいた。
「作ってよかったです」
アルキトは測り具の針を確かめ、手元の数字と見比べた。
「石は、小さい方を使えそうです」
「ポグ、下の棚の小さい石を取ってくれるか」
ポグが両手で運んできた石は、アルキトの掌に収まった。クラリッサは、台座の中の石と見比べた。
「途中で止まりませんか」
「頭を捉える分も、腕を動かす分も含めて、今使った量より余裕があります。毎回、使い終えたら充填していただくことになりますが」
「屋敷の充填器でできるのでしたら、ほかの魔具と一緒にいたします」
リナが答えた。アルキトは絵の台座を低く描き直し、石を出し入れする小さな戸を横に加えた。柱を支える幅は残すけれど、今ほど厚くしなくてよいという。
リナが踏み板を椅子の後ろから引き出し、線を避けて脇へ寄せた。
「この線をなくすと、高くなるのですね」
クラリッサが見積もりの添え書きを思い出して尋ねると、アルキトは頷いた。
「はい。線なしで動かす仕掛けもありますが、今のものより費用がかかります」
「売れるようになったら、線のないものも考えたいです」
「では、線でつなぐ形のまま、石を替えた費用を出します」
アルキトが店主へ相談に行く間に、リナは髪を結い終えた。肩の布を取っても、襟は冷たくならない。
クラリッサは鏡に顔を寄せ、横を向いた。いつもと同じように整っているのに、支度がずいぶん早く済んでしまった。
これを、母にも使ってもらいたい。
戻ってきたアルキトが、書き直した見積もりを卓へ置いた。細部を決める前の、おおよその額だという。
五万二千リル。
六万六千リルだった見積もりが、一万四千リル下がった。髪を乾かし終えるまで、足の仕掛けも使って、小さい方の石で足りる。試さずに頼んでいたら、大きい方を買っていたのだ。
「同じものを、もう一台作っていただくなら?」
「設計が決まれば、二万四千ほどです。こちらへ書きました」
最初の一台にだけかかる費用の下へ、別の額が添えてあった。
クラリッサはその行を指で押さえた。
作ってもらう値段は分かった。けれど、客の手へ届けるまでに、ほかにいくらかかるだろう。売る値段を決める前に、そこも確かめなければ。
「持ち帰って、母に相談します。今日のことも、一緒に」
見積もりの下へ絵を重ね、鞄へ収めた。乾いた髪に、もう一度指を通す。
「まだ、濡れてる?」
ポグが見上げていた。
「いいえ。もう、すっかり」
そう答えても、髪から手を離すのが惜しかった。




