第1章 3話 お帰りなさい
玄関の椅子に、母が座っていた。
知らせにあった四日目の午後だった。もう近くまで来ていると使いが告げてから、母はここで待っている。喪服の上に、厚い肩掛けを羽織っていた。
クラリッサが隣へ立つと、母は膝の上の手袋を取った。右手を通しかけて、指先で引っかかる。
「お手伝いします」
「ありがとう」
手首まで引き上げると、母が指を曲げ伸ばしした。クラリッサはもう片方も受け取り、その手へ通した。
「お母様。扉が開いたら、風が入ります。中のお部屋でお待ちになりませんか」
「ええ。お父様が入られたら、わたしもすぐに」
母は戸口へ顔を向けた。
クラリッサも、それ以上は言わなかった。母が出立の日に父へ返した言葉を、覚えていた。
外で馬の足音がした。
家令が扉を開けると、先に冷たい空気が足元へ流れてきた。母の手が椅子の肘を掴む。クラリッサはその腕を支え、一緒に立った。
門から、馬車が入ってくる。
御者の肩にも、車輪にも、泥が乾いて白く残っていた。馬が首を振り、手綱を引かれて足を止める。
降りてきた男が、母の前で帽子を取った。
「お待たせいたしました。閣下を、お連れしてまいりました」
「遠いところを、ありがとうございました」
母の声ははっきりしていた。男がもう一度頭を下げ、馬車へ戻っていく。家の者も手を貸し、荷台を覆っていた布を外した。
クラリッサは、馬車の扉を探していた。
出かける朝に父が足を掛けた段も、降りるときに掴む取っ手もない。開いた荷台に、棺が載っていた。
幾人もの手で持ち上げられたそれは、男たちの歩調に合わせて、少しずつ近づいてくる。
母が一歩、前へ出た。
クラリッサはその腕を握ったまま、ついていこうとした。けれど、そのままでは通り道を塞いでしまう。家令が低く声を掛け、母娘は脇へ寄った。
すぐ目の前を、棺が通った。
手を伸ばせる近さだった。けれど母を支えていた手を離せず、クラリッサは見送った。並んでいた使用人たちが頭を下げる。
母の足は、なかなか進まなかった。
「お母様」
「……ええ」
玄関の扉が閉まり、外の声が遠くなった。
*
一階の小広間には、棺を置く台が用意されていた。
棺が台へ下ろされると、クラリッサは母の腕を支えたまま、そばへ寄った。
「椅子を、こちらへお願い」
リナが運んできてくれ、母を座らせると、家令がそばへ来た。
「開けていただけるかしら」
母の言葉に、家令が頷いた。男たちが棺へ寄り、蓋を持ち上げる。
クラリッサは椅子の背に手を添えたまま、父の顔を見た。
髪も髭も、きちんと整えられていた。閉じた目の上に、見慣れた眉がある。
クラリッサ、と自分の名を呼ぶ声が、はっきりと浮かんだ。
父の声を思い出すのは、こんなにも簡単だった。
家令が一歩下がり、母へ声を掛けた。
「奥様。ほかに何か」
「少し、このままでいさせてちょうだい」
「かしこまりました」
人の足音が廊下へ移っていく。リナも母の膝へ毛布を掛け、戸口へ下がった。
母は手袋を脱ごうとしていた。
クラリッサが手を出すより先に、片方を抜き取った。もう片方も外し、揃えずに膝へ置く。それから身を乗り出して、父の頬に触れた。
「お帰りなさい、あなた」
母の背が、小さく上下した。
クラリッサも隣に立った。何と言えばよいのか、考える必要はないはずだった。父が帰るたび、同じ挨拶をしてきた。
「お帰りなさいませ」
声が硬く響いた。
もう一度、言い直したくなった。御前で返事をするような声で、父を迎えたくなかった。
「……お父様」
その先は、続かなかった。
クラリッサも手を伸ばし、父の手に触れた。冷たかった。見下ろしていると、自分の外套の襟を直してくれた指が、動きそうに思えた。
父は、帰ってきた。
いつ帰るのかと、母へ尋ねることも、もうない。
けれど、父はここから立ち上がって、自分の部屋へは行かない。
父の指を握った。少し待っても、その手は動かなかった。
「お父様……!」
母が顔を上げる。何か言おうとして唇を開き、それから、クラリッサの腰へ腕を回した。
父の手をそっと戻して身を屈めると、母の額が肩に触れた。
いつもは、こちらが抱きついていた。泣いて帰れば母が顔を覗き込み、どうしたのと尋ねてくれた。その母が、今はクラリッサの服を握っている。
背中へ手を回した。骨の細さが、服越しにも分かった。
母が息を吸うたびに、クラリッサの肩もわずかに動く。涙は自分の頬にも流れていたが、拭くために手を離したくなかった。
窓の外で、馬車の動く音がした。
運んできた車が帰っていくのだろう。母も顔を上げたが、棺へ目を戻すと、またクラリッサの肩に額を寄せた。
しばらくして、リナが近づいてきた。
「奥様。お部屋で、お休みになりませんか」
クラリッサは返事を待った。母の肩を温めたい。寝室へ戻った方がよいと、自分でも思う。
けれど、そばにある棺から、まだ離れたくなかった。
「もう少しだけ」
母が答えた。クラリッサが顔を上げると、リナは頷いた。もう一枚、肩へ掛けるものを取ってまいります、と言って部屋を出ていく。
母の椅子のそばへ、クラリッサも椅子を寄せた。
二人の膝が触れるところまで。




