第1章 2話 工房で髪を洗うのですか?
工房の奥で、赤い糸が横に泳いでいた。
作業台の上で、筒が短い支えに横向きに留められている。糸は、その縁に何本も結んであった。若い男が筒の脇のつまみを回すと、糸はゆっくり垂れていった。一本だけが、かすかに揺れ続けている。
「そんなに弱い風も出せるのですか」
案内していた店主が頷き、男を呼ぶ。
「アルキト。ローズグレイス家のお嬢様だ。風の道具をお見せしてくれ」
男は台の石から手を離し、頭を下げた。銅色がかった茶色の髪が、目元へ落ちる。ゆるくうねる毛先は襟に触れ、削り屑が一つ引っかかっていた。職人と聞いて思い浮かべた人より、ずっと若い。
「アルキトと申します。こちらへ」
リナに外套を預け、クラリッサは作業台へ寄った。店主は椅子を用意すると、帳場へ戻っていく。
鞄を置こうとした、そのときだった。
「そこ、ぼくの場所」
台の下で、何かが動いた。
下膨れの木の胴に、角を丸めた横長の頭。金属の顔に並んだ硝子の目が、クラリッサを見上げている。膝ほどの高さしかない人形が、短い脚でとことこと台の端へ歩み寄った。
「……あなたが、喋ったの?」
人形は頷いた。瞬きのあと、片方のまぶただけが遅れて上がる。
「うん。鞄、もう少し右にして」
言われたとおりにすると、人形は脇の踏み台に上がり、両腕で抱えた小箱を、空いたところへ押し上げた。中には金具が並んでいる。
「ポグ。先に挨拶」
「こんにちは。アルキト、片づけてくれないんだ」
「その話はいい」
アルキトは人形の肩からずれた留め金を、指で押し戻した。ポグは慣れた様子で腕を上げ、直し終わるのを待っている。
「喋る人形の話は聞いていたけれど、実物を見るのは初めてだわ。この子も、あなたが作ったのですか?」
「はい。仕事の合間に、少しずつ」
「昨日は朝まで」
「……少しずつ、です」
クラリッサは笑いをこらえた。
「お店には、こういう子は並べないのですか」
「手入れが難しいので。関節だけでなく、魔力の流れも調整します。自分で直せる職人が、手元に置くことが多いですね」
さっき腕を上げて待っていたのも、いつものことなのだろう。クラリッサは人形と目が合う高さまで屈んだ。
「クラリッサよ。場所を取ってしまって、ごめんなさいね」
「もういいよ。次は覚えてて」
次も約束されたようだ。
立ち上がると、アルキトは筒のそばに、鞄を置く場所も空けてくれていた。
「これは、何に使うものなのですか」
「塗り物を乾かします。強い風だと埃を巻き上げるので、弱くても途切れないようにしました」
石へ手を当てると、赤い糸がまた浮いた。クラリッサは手袋を外し、掌で風を受ける。
「これを温かくして、髪に当てたいのです」
「髪、ですか?」
「洗ったあと、乾くまでに時間がかかるでしょう。暖炉のそばへ寄る代わりに、温かい風の方を持ってこられたらと」
昨夜の絵を広げると、彼はすぐに風を止め、覗き込んだ。
「こういうものは、もうあるのでしょうか」
「うちでは扱っていません。……この筒の先を、髪へ向けるのですね」
アルキトの指が、絵の支えを辿る。
「温かい風なら、ここでも試せます。ただ、髪にどのくらい当ててよいかは」
「それは、一緒に確かめさせてください」
*
組み合わせた筒と加温用の格子から、温かい風が届いた。
掌の上を通り過ぎた途端、クラリッサはもう一度、手を差し入れていた。
あの風だ。
「これです! こういうものが、欲しかったのです」
椅子に腰を下ろすと、リナも手の甲で熱さを確かめ、クラリッサの髪を一房取った。水で湿らせ、布で雫を取ってから、風へかざす。
細い髪がふわりと広がった。
やがてリナが、毛先をクラリッサの指へ渡した。まだ湿り気はあるけれど、濡らしたときの重さがない。
「早いわ」
「ええ。奥様にも、これくらいの風でしたら」
「きっと喜んでくれるわね」
クラリッサは筒の支えへ目を向けた。
「私も動かしてみてよいですか」
アルキトは石に手を置いたまま、筒の下を指した。
「下の留め具を緩めると、筒の向きを変えられます」
「こちら?」
「いえ、それは格子を外す方です」
伸ばした指を引っ込めた。
同じ色の金具が、筒の脇にも下にも並んでいる。
「あなたは、よく間違えませんね」
「位置で分かりますので」
アルキトは答え、クラリッサの手元を見た。
「……印を付けましょうか」
「そうしていただけると。どれを緩めてよいのか、迷ってしまって」
リナは櫛を取り出し、乾かした毛先を梳いた。
「私も、触ってよろしいですか」
アルキトが石から手を離すと、リナは髪を肩へ戻した。櫛も台に置き、両手で筒を動かす。
「こうでございますね。……でも、乾かす場所を変えるたびに、両手を空けませんと」
ポグが椅子の脇から顔を出した。
「ぼくが筒を持ってようか」
「毎日、お屋敷まで行くつもりか」
アルキトに言われ、ポグはクラリッサを見上げる。
「遠いの?」
「馬車で来たのよ」
ポグは自分の足元へ目を落とした。
「足で向きを変えられませんか」
クラリッサが言うと、アルキトは絵から顔を上げた。
「足元の板を傾けて、風を当てたい方へ動かせませんか。そうすれば、髪も櫛も持ったままでいられるでしょう?」
「……動かす仕掛けを考えてみます。それと、手を離して風を出し続けるには、魔力を蓄える石が要ります。筒を支える台座に収めると、このくらいには」
アルキトは作業台の上で両手を広げ、台座の大きさを示した。
クラリッサは自室の鏡台を思い浮かべた。櫛の箱と香油の瓶を退ければ、載るかもしれない。
「ずいぶん、大きくなるのね」
「倒れませんし、蓋を外せば修理もできます」
彼は、そこには少し自信のある声で答えた。
リナがクラリッサの髪を結い直す。
「鏡の脇では、お嬢様のお耳しか映らなくなりますよ」
「少し横へ寄れば……」
「風の方からも離れてしまいます」
「……そうね」
風が出ることばかり考えて、鏡の前を空けておくことを忘れていた。クラリッサは絵を見下ろした。昨夜は、これさえ渡せば伝わると思っていたのに。
鏡台の上には場所がなくても、その脇の床は空いている。
「台は床へ置けませんか。そこから支えを伸ばして、風の出るところだけ、髪のそばへ持ってこられたら」
「椅子の横でしたら、私が髪を梳く場所も空きますね」
リナの言葉に、アルキトは新しい紙を取り、長い支柱を描いた。上から伸ばした腕を途中で折り曲げ、その先に筒を下げる。
「ここを肘のように曲げれば、反対側へも届きます。先の方は、伸び縮みするようにして……」
彼は線を引き直し、頭の上から後ろの髪へ筒を下ろす姿も描き添えた。
「……筒の向きも、こちらで合わせられそうです。人形に使う仕組みで、頭の位置を捉えれば」
クラリッサは足元のポグを見た。目が合うと、小さな頭がこちらへ傾く。
「……そんなことまで、できるのですね」
「座る場所が決まっていますから。支えの高さを合わせて、一度その方の頭を捉えさせれば」
「ええ。その形で、見積もりをお願いできますか」
「承知しました」
「それと、一台目だけにかかる分と、同じものをもう一台作るときにもかかる分を、分けていただきたいです」
アルキトが顔を上げた。
「何台か、お作りになるおつもりですか」
「使いやすいものができたら、欲しい方に売れないかと思っています。まだ、私とリナしか試していませんけれど」
「でしたら、設計と調整の分は別にして、石や部品の代金と、組み立てにかかる分を出します」
「お願いします。その見積もりを持って、母に相談します」
アルキトは絵の端に書き留めてから、つまみの位置を描き始めた。
クラリッサは脇へ置いた鞄を取り上げる。ポグが空いた場所を覗いたので、そこを指で叩いてやった。
「ここも、空いたわよ」
「ありがとう」
ポグは踏み台へ戻り、小箱から金具を並べ始めた。アルキトの肘に当たらないところへ、少しずつ寄せている。
今度はクラリッサも、邪魔にならないように椅子を引いた。
帰りの馬車で、父にも今日の風の話をしたくなった。もう返事は聞けないのだと思い出して、胸が詰まる。
工房であれこれ試していた間は、この苦しさも、繰り返し浮かぶ殿下の沈黙も、しばらく忘れていられた。
*
三日後、工房から見積もりが届いた。
クラリッサは最後の行を読み、もう一度、上から目を通した。
六万六千リル。
庶民一人の食費なら、約三か月分に当たる。それが、髪を乾かす道具一台にかかる。
頭の位置を捉え、足元から腕を動かす仕掛けまで含めた見積もりだった。設計代と分けてある石や部品の代金を辿ると、蓄魔石だけで二万四千リルだった。髪が乾くまでの時間が分からず、ひとまず長く使える石を選んだという。
母が領地へも送っているお金を借りるのだ。毛先を一房乾かしただけで、この石まで買ってしまってよいのだろうか。
クラリッサは見積もりを持ち、母の部屋へ向かった。
「お返事が来たのね」
「はい。でも、注文する前に、もう一度試したいです」
セリーヌは膝の毛布から手を出し、見積もりを受け取った。
「工房の道具で髪を全部乾かして、使う魔力を調べてもらえたら、もっと小さな石で済むかもしれません。その試験の費用を、出してもらえますか」
「ええ。試す費用は、わたしが出しましょう。いくらかかるか、聞いてきてちょうだい」
「ありがとうございます」
「あちらで、お髪を洗うのでございますか」
後ろからリナに言われ、振り返った。
「その方が、確かめられるでしょう?」
「店先にはお座りになれませんよ」
「奥に椅子があったわ」
「職人の方々が、お仕事をしていらっしゃいます」
「……そうだったわね」
湯も、布も、濡れた髪で座っていられる場所も要る。
「温かいお部屋を借りられるか、訊いてみるわ。リナも、付き合ってくれる?」
「もちろんです。ただ、早く乾くか試すために、お風邪を引かれませんように」
母が小さく笑い、見積もりを返してくれた。
「お母様。便箋を一枚、もらってもいいですか」
「そこの机にあるわ。……お茶を飲んでからでも、間に合うと思うけれど」
立ちかけた腰を下ろすと、リナがカップを寄せてくれた。
クラリッサは一口飲み、今度は母を見てから立った。母は笑って、机の方を指した。
書き終える前に、戸が叩かれた。
入ってきた家令の持つ封書を見て、母が背を起こす。クラリッサもペンを置いた。
「軍務局より、お届けでございます」
母は封を切り、紙を広げた。読むのは早かった。けれど、顔を上げてから、言葉が出るまでに間があった。
「お父様が、お帰りになるわ」
クラリッサは立ち上がった。
「いつですか」
「国境を越えられたそうよ。このまま道を進めれば、四日後には」
四日後。
ずっと、日が決まればと思っていた。分かれば待てると思っていたのに、告げられると、何をしてその日を迎えればよいのか分からない。
「お顔を……」
そこまで口にして、続きを飲み込んだ。
母が手紙を伏せる。
「まず、お迎えしましょう。ね」
クラリッサは母の椅子のそばへ戻った。差し出された手に、自分の手を重ねる。
「はい」
リナが机のインク壺に蓋をしている。その小さな音が、部屋の中でよく聞こえた。
母の目が、戸口へ向く。父がいつも入ってきた扉だった。
クラリッサも、しばらくそちらを見ていた。




