↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
37/41

第1章 2話 工房で髪を洗うのですか?

 工房の奥で、赤い糸が横に泳いでいた。


 作業台の上で、筒(つつ)が短い支えに横向きに留められている。糸は、その縁(ふち)に何本も結んであった。若い男が筒の脇のつまみを回すと、糸はゆっくり垂れていった。一本だけが、かすかに揺れ続けている。


「そんなに弱い風も出せるのですか」


 案内していた店主が頷(うなず)き、男を呼ぶ。


「アルキト。ローズグレイス家のお嬢様だ。風の道具をお見せしてくれ」


 男は台の石から手を離し、頭を下げた。銅色がかった茶色の髪が、目元へ落ちる。ゆるくうねる毛先は襟(えり)に触れ、削り屑(くず)が一つ引っかかっていた。職人と聞いて思い浮かべた人より、ずっと若い。


「アルキトと申します。こちらへ」


 リナに外套(がいとう)を預け、クラリッサは作業台へ寄った。店主は椅子を用意すると、帳場へ戻っていく。


 鞄(かばん)を置こうとした、そのときだった。


「そこ、ぼくの場所」


 台の下で、何かが動いた。


 下膨(しもぶく)れの木の胴に、角を丸めた横長の頭。金属の顔に並んだ硝子(ガラス)の目が、クラリッサを見上げている。膝(ひざ)ほどの高さしかない人形が、短い脚でとことこと台の端へ歩み寄った。


「……あなたが、喋(しゃべ)ったの?」


 人形は頷いた。瞬(まばた)きのあと、片方のまぶただけが遅れて上がる。


「うん。鞄、もう少し右にして」


 言われたとおりにすると、人形は脇の踏み台に上がり、両腕で抱えた小箱を、空いたところへ押し上げた。中には金具が並んでいる。


「ポグ。先に挨拶(あいさつ)」


「こんにちは。アルキト、片づけてくれないんだ」


「その話はいい」


 アルキトは人形の肩からずれた留め金を、指で押し戻した。ポグは慣れた様子で腕を上げ、直し終わるのを待っている。


「喋る人形の話は聞いていたけれど、実物を見るのは初めてだわ。この子も、あなたが作ったのですか?」


「はい。仕事の合間に、少しずつ」


「昨日は朝まで」


「……少しずつ、です」


 クラリッサは笑いをこらえた。


「お店には、こういう子は並べないのですか」


「手入れが難しいので。関節だけでなく、魔力の流れも調整します。自分で直せる職人が、手元に置くことが多いですね」


 さっき腕を上げて待っていたのも、いつものことなのだろう。クラリッサは人形と目が合う高さまで屈(かが)んだ。


「クラリッサよ。場所を取ってしまって、ごめんなさいね」


「もういいよ。次は覚えてて」


 次も約束されたようだ。


 立ち上がると、アルキトは筒のそばに、鞄を置く場所も空けてくれていた。


「これは、何に使うものなのですか」


「塗り物を乾かします。強い風だと埃(ほこり)を巻き上げるので、弱くても途切れないようにしました」


 石へ手を当てると、赤い糸がまた浮いた。クラリッサは手袋を外し、掌(てのひら)で風を受ける。


「これを温かくして、髪に当てたいのです」


「髪、ですか?」


「洗ったあと、乾くまでに時間がかかるでしょう。暖炉のそばへ寄る代わりに、温かい風の方を持ってこられたらと」


 昨夜の絵を広げると、彼はすぐに風を止め、覗(のぞ)き込んだ。


「こういうものは、もうあるのでしょうか」


「うちでは扱っていません。……この筒の先を、髪へ向けるのですね」


 アルキトの指が、絵の支えを辿(たど)る。


「温かい風なら、ここでも試せます。ただ、髪にどのくらい当ててよいかは」


「それは、一緒に確かめさせてください」


     *


 組み合わせた筒と加温用の格子から、温かい風が届いた。


 掌の上を通り過ぎた途端、クラリッサはもう一度、手を差し入れていた。


 あの風だ。


「これです! こういうものが、欲しかったのです」


 椅子に腰を下ろすと、リナも手の甲で熱さを確かめ、クラリッサの髪を一房(ひとふさ)取った。水で湿らせ、布で雫(しずく)を取ってから、風へかざす。


 細い髪がふわりと広がった。


 やがてリナが、毛先をクラリッサの指へ渡した。まだ湿り気はあるけれど、濡(ぬ)らしたときの重さがない。


「早いわ」


「ええ。奥様にも、これくらいの風でしたら」


「きっと喜んでくれるわね」


 クラリッサは筒の支えへ目を向けた。


「私も動かしてみてよいですか」


 アルキトは石に手を置いたまま、筒の下を指した。


「下の留め具を緩(ゆる)めると、筒の向きを変えられます」


「こちら?」


「いえ、それは格子を外す方です」


 伸ばした指を引っ込めた。


 同じ色の金具が、筒の脇にも下にも並んでいる。


「あなたは、よく間違えませんね」


「位置で分かりますので」


 アルキトは答え、クラリッサの手元を見た。


「……印を付けましょうか」


「そうしていただけると。どれを緩めてよいのか、迷ってしまって」


 リナは櫛(くし)を取り出し、乾かした毛先を梳(す)いた。


「私も、触ってよろしいですか」


 アルキトが石から手を離すと、リナは髪を肩へ戻した。櫛も台に置き、両手で筒を動かす。


「こうでございますね。……でも、乾かす場所を変えるたびに、両手を空けませんと」


 ポグが椅子の脇から顔を出した。


「ぼくが筒を持ってようか」


「毎日、お屋敷まで行くつもりか」


 アルキトに言われ、ポグはクラリッサを見上げる。


「遠いの?」


「馬車で来たのよ」


 ポグは自分の足元へ目を落とした。


「足で向きを変えられませんか」


 クラリッサが言うと、アルキトは絵から顔を上げた。


「足元の板を傾けて、風を当てたい方へ動かせませんか。そうすれば、髪も櫛も持ったままでいられるでしょう?」


「……動かす仕掛けを考えてみます。それと、手を離して風を出し続けるには、魔力を蓄(たくわ)える石が要ります。筒を支える台座に収めると、このくらいには」


 アルキトは作業台の上で両手を広げ、台座の大きさを示した。


 クラリッサは自室の鏡台を思い浮かべた。櫛の箱と香油の瓶(びん)を退(ど)ければ、載るかもしれない。


「ずいぶん、大きくなるのね」


「倒れませんし、蓋(ふた)を外せば修理もできます」


 彼は、そこには少し自信のある声で答えた。


 リナがクラリッサの髪を結い直す。


「鏡の脇では、お嬢様のお耳しか映らなくなりますよ」


「少し横へ寄れば……」


「風の方からも離れてしまいます」


「……そうね」


 風が出ることばかり考えて、鏡の前を空けておくことを忘れていた。クラリッサは絵を見下ろした。昨夜は、これさえ渡せば伝わると思っていたのに。


 鏡台の上には場所がなくても、その脇の床は空いている。


「台は床へ置けませんか。そこから支えを伸ばして、風の出るところだけ、髪のそばへ持ってこられたら」


「椅子の横でしたら、私が髪を梳く場所も空きますね」


 リナの言葉に、アルキトは新しい紙を取り、長い支柱を描いた。上から伸ばした腕を途中で折り曲げ、その先に筒を下げる。


「ここを肘のように曲げれば、反対側へも届きます。先の方は、伸び縮みするようにして……」


 彼は線を引き直し、頭の上から後ろの髪へ筒を下ろす姿も描き添えた。


「……筒の向きも、こちらで合わせられそうです。人形に使う仕組みで、頭の位置を捉(とら)えれば」


 クラリッサは足元のポグを見た。目が合うと、小さな頭がこちらへ傾く。


「……そんなことまで、できるのですね」


「座る場所が決まっていますから。支えの高さを合わせて、一度その方の頭を捉えさせれば」


「ええ。その形で、見積もりをお願いできますか」


「承知しました」


「それと、一台目だけにかかる分と、同じものをもう一台作るときにもかかる分を、分けていただきたいです」


 アルキトが顔を上げた。


「何台か、お作りになるおつもりですか」


「使いやすいものができたら、欲しい方に売れないかと思っています。まだ、私とリナしか試していませんけれど」


「でしたら、設計と調整の分は別にして、石や部品の代金と、組み立てにかかる分を出します」


「お願いします。その見積もりを持って、母に相談します」


 アルキトは絵の端に書き留めてから、つまみの位置を描き始めた。


 クラリッサは脇へ置いた鞄を取り上げる。ポグが空いた場所を覗いたので、そこを指で叩(たた)いてやった。


「ここも、空いたわよ」


「ありがとう」


 ポグは踏み台へ戻り、小箱から金具を並べ始めた。アルキトの肘(ひじ)に当たらないところへ、少しずつ寄せている。


 今度はクラリッサも、邪魔にならないように椅子を引いた。


 帰りの馬車で、父にも今日の風の話をしたくなった。もう返事は聞けないのだと思い出して、胸が詰まる。


 工房であれこれ試していた間は、この苦しさも、繰り返し浮かぶ殿下(でんか)の沈黙も、しばらく忘れていられた。


     *


 三日後、工房から見積もりが届いた。


 クラリッサは最後の行を読み、もう一度、上から目を通した。


 六万六千リル。


 庶民(しょみん)一人の食費なら、約三か月分に当たる。それが、髪を乾かす道具一台にかかる。


 頭の位置を捉え、足元から腕を動かす仕掛けまで含めた見積もりだった。設計代と分けてある石や部品の代金を辿ると、蓄魔石(ちくませき)だけで二万四千リルだった。髪が乾くまでの時間が分からず、ひとまず長く使える石を選んだという。


 母が領地へも送っているお金を借りるのだ。毛先を一房乾かしただけで、この石まで買ってしまってよいのだろうか。


 クラリッサは見積もりを持ち、母の部屋へ向かった。


「お返事が来たのね」


「はい。でも、注文する前に、もう一度試したいです」


 セリーヌは膝の毛布から手を出し、見積もりを受け取った。


「工房の道具で髪を全部乾かして、使う魔力を調べてもらえたら、もっと小さな石で済むかもしれません。その試験の費用を、出してもらえますか」


「ええ。試す費用は、わたしが出しましょう。いくらかかるか、聞いてきてちょうだい」


「ありがとうございます」


「あちらで、お髪(ぐし)を洗うのでございますか」


 後ろからリナに言われ、振り返った。


「その方が、確かめられるでしょう?」


「店先にはお座りになれませんよ」


「奥に椅子があったわ」


「職人の方々が、お仕事をしていらっしゃいます」


「……そうだったわね」


 湯も、布も、濡れた髪で座っていられる場所も要る。


「温かいお部屋を借りられるか、訊(き)いてみるわ。リナも、付き合ってくれる?」


「もちろんです。ただ、早く乾くか試すために、お風邪(かぜ)を引かれませんように」


 母が小さく笑い、見積もりを返してくれた。



「お母様。便箋(びんせん)を一枚、もらってもいいですか」


「そこの机にあるわ。……お茶を飲んでからでも、間に合うと思うけれど」


 立ちかけた腰を下ろすと、リナがカップを寄せてくれた。


 クラリッサは一口飲み、今度は母を見てから立った。母は笑って、机の方を指した。


 書き終える前に、戸が叩かれた。


 入ってきた家令(かれい)の持つ封書を見て、母が背を起こす。クラリッサもペンを置いた。


「軍務局より、お届けでございます」


 母は封を切り、紙を広げた。読むのは早かった。けれど、顔を上げてから、言葉が出るまでに間があった。


「お父様が、お帰りになるわ」


 クラリッサは立ち上がった。


「いつですか」


「国境を越えられたそうよ。このまま道を進めれば、四日後には」


 四日後。


 ずっと、日が決まればと思っていた。分かれば待てると思っていたのに、告げられると、何をしてその日を迎えればよいのか分からない。


「お顔を……」


 そこまで口にして、続きを飲み込んだ。


 母が手紙を伏せる。


「まず、お迎えしましょう。ね」


 クラリッサは母の椅子のそばへ戻った。差し出された手に、自分の手を重ねる。


「はい」


 リナが机のインク壺(つぼ)に蓋をしている。その小さな音が、部屋の中でよく聞こえた。


 母の目が、戸口へ向く。父がいつも入ってきた扉だった。


 クラリッサも、しばらくそちらを見ていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。