第1章 1話 お嬢様、今度は商売ですか
「お母様。ノルドへ人を送って、直接話を聞くことはできませんか」
王宮から帰って、三日が過ぎていた。
クラリッサは、家令に借りてきた父の荷の目録を卓へ広げた。母は読んでいた手紙を膝へ置き、身を寄せた。
「荷を回収した方に?」
「はい。このお金を、誰がどこで見つけたのか。あの日の書記は、目録を見せられて知ったと仰っていました」
「王城からの返事は、今朝も確かめてもらったわ。まだ来ていないの」
目録には、父の荷から見つかったというお金の額が記されていた。けれど、どんな状態で見つかったのかは、これを読んでも分からない。
前の生では、届いた説明と現場の話が合わなければ、実際に品を扱った人まで辿って確かめた。電話を代わってもらい、時には自分で出向いた。
今は、その人に会うために国境と冬の道を越えなければならない。
「どなたか、頼める方を探したいです。待っているだけでは、いつになるか分かりません」
「……そうね」
母は膝の手紙へ目を落とした。
「ただ、今すぐ旅費を出しましょうとは、言えないの」
クラリッサは母を見た。母も、言ってしまってから困っているようだった。
「何か、あったのですか」
差し出された手紙には、領地の羊毛を買う商会の名があった。
次の取引を結ぶのは、公爵家の継承が定まってからにしたいという。すでに倉にある分については、別に買値が書き添えられていた。母が見せてくれた昨年の控えと、思わず見比べる。
「こんなに、下がるのですか」
「この値でよければ、すぐにお金を払うそうよ」
家の先行きが分からないから取引を待ちたい。その同じ手紙で、今ある品は安く買いたいと言ってくる。
「……羊毛が、悪くなったわけでもないのに」
「ええ。領地では、これまでと同じように働いてくれているわ」
父への疑いが決着するまで、次の公爵を認めることも待つ。王城からそう告げられ、家のことはひとまず母が預かっていた。ここにも、いつまでという日はない。
クラリッサは、手紙を昨年の控えに重ねた。
「お母様。私からも、商会にお話ししてみてはいけませんか」
「もうお返事はしたのよ。ほかの買い手を探してもらっているから、今はそちらに任せましょう」
「では、それまで売らずに?」
「ええ。でも、羊の世話も、お給金の支払いもあるでしょう。売れるまでは、こちらから送ることにしたの」
「お父様が、残してくださった分から?」
母は頷いた。
「わたくしたちの暮らしのために、よけておいてくださったお金よ。こういうことに使うとは、あの人も思わなかったでしょうね」
言い終えてから、母は手紙を伏せた。
暖炉には火があり、卓には茶があった。父のいない食卓にも、食事は運ばれてくる。そのままにしておけば続く暮らしだと、まだ思っていた。
「私の新しい服は、いりません」
「……ごめんなさいね。そうしてもらえると、助かるわ。わたくしも、今年はあるもので過ごすつもり」
母が咳き込み、クラリッサは水の杯を寄せた。膝からずれた毛布を掛け直し、咳が収まるのを待って椅子へ戻った。
父のことを調べるために使えば、その分がほかで足りなくなる。調べずに待てば、父の名を理由に、またこんな手紙が来るのだろうか。
クラリッサは、卓へ広げていた目録を畳んだ。
「お父様がお帰りになる日も、まだですか」
「棺を載せた馬車が通れる道を、探してくださっているそうよ。日が決まったら、すぐ知らせるわ」
父が帰る前に、ひとつでも確かめたかった。できなかったとしても、そのあとまで待つだけにはしたくない。
かつては、自分で働いたお金で暮らしていた。今の自分にも、何かできる仕事はないだろうか。父のことを調べに行ってもらう費用を、少しずつでも稼げたら。
*
「お嬢様。頭を上げてくださいませ」
その晩、湯から上がっても、クラリッサは考え事を続けていた。
リナに言われて顔を上げると、鏡の中で目が合った。肩に掛けた布は、髪から落ちる雫で湿っている。
「前へ屈まれると、襟まで濡れますよ」
「ごめんなさい」
「まず、乾くまでお待ちください」
リナは乾いた布を取り、髪を挟んで押さえた。急がせるつもりはなかったのに、膝の上で指を動かしていたらしい。クラリッサは両手を重ねた。
机には、自分にできそうな仕事を書こうとした紙が残っている。
屋敷の帳面なら読める。けれど、家令の代わりに自分が読んでも、家に入るお金が増えるわけではなかった。
誰かに買ってもらえるものか、頼んでもらえる仕事。何ができるかを考えているうちに、また頭が下がっていた。
「また俯いていらっしゃいます」
「……考え事をすると、下を向いてしまうのね」
「本もお出ししませんよ。ますます下を向いてしまわれますから」
「読まないわ」
「開いてあれば、お読みになります」
否定しきれず、鏡へ目を戻した。
リナが首の後ろの髪を持ち上げた。露わになった襟足に、暖炉の温もりが届く。
温かい風があれば、早いのに。
思った途端、耳のそばで低い唸りがした気がした。片手に持った白い道具。もう片方の指を髪の根元へ入れ、風を当てる位置を変える。洗面台の鏡が曇っている時は、風をあてた。
毎晩使っていた。遅く帰った日は、乾かすのも面倒だと思いながら。
「ドライヤー」
「はい?」
リナの手が止まった。
「……風で、髪を乾かせたらと思って」
「夏でしたら、窓辺で梳くこともございますね。でもこの時季に窓を開けるのは、おやめくださいませ」
「開けないわ。温かい風が欲しいの」
クラリッサは片手を耳の横へ持ち上げた。ここに握るところがあり、こちらから風が出る。
けれど、鏡に映っているのは、何もない空中を握った自分だった。
あの中に何が入っていたのか、開けて見たことはない。電源を入れれば風が出た。温かさと強さは、指で切り替えられた。知っているのは、それだけだ。
「風を起こす魔具は、あるでしょう」
「ええ。何にお使いになるかにもよりますけれど」
「髪のそばへ向けられるくらいのものは?」
「そちらは、存じません。お取り寄せになりますか」
「まず、あるかどうかを知りたいの。なければ、作れないかと思って」
「作る……魔具を、でございますか?」
リナが髪を持ち上げたまま、鏡越しに目を丸くした。
「作り方を知っている方に、相談するのよ。待っているあいだ、あなたはずっと手が塞がっているでしょう。私も、自分でできたらと思うわ」
「その前に、じっとしていただけると助かります」
いつの間にか振り向きかけていた。クラリッサは正面へ戻り、両手を膝へ置いた。
「リナ。扇を取ってくれる?」
「今度は、風が冷たいと仰いますよ」
「少しだけ」
差し出された扇を開き、耳の下へ風を送ってみた。
細い髪が浮き、頬へ張りついた。もう一度扇ぐと、今度は目に入る。
「……こちらからではないわね」
「お貸しください」
リナは扇を受け取り、髪を一房持ち上げて、上から毛先へ向けて扇いだ。クラリッサも指を入れて広げる。頬へは飛んでこなくなったが、首筋が冷えてきた。
「温かければ、よさそうなのに」
「そうですね。でも、わたくしこれでは櫛を持てません」
リナの片手には髪、もう片方には扇があった。
クラリッサは鏡台の端を見た。
「ここへ置いて、髪に向けておけたら?」
「お顔まで風に当たりませんか」
「向きを変えられるようにするのよ。もう少し上へ、とか」
「それなら、両手で梳けますけれど……。どのくらいの風なのでしょう」
リナが扇を動かす。クラリッサは目を閉じ、髪の間を通る風を感じた。
あれほどの音は、なくてもいい。強すぎれば目を開けていられなかったし、熱く感じると、髪から遠ざけていた。けれど、今の風よりは少し強く、温かい方がよい。
「風の強さも温かさも、変えられたら嬉しいわね」
「お嬢様。だんだん注文が増えております」
「使うなら、使いやすい方がいいでしょう」
リナは扇を閉じ、布へ持ち替えた。
「それは、そうでございますが」
髪を押さえる手が、また動き出す。
「本当にそれだけで乾くのでしたら、わたくしは使ってみたいです。寒い日に、奥様のお髪をいつまでも濡らしておかずに済みますし」
クラリッサは鏡の中のリナを見た。
「あなたも?」
「はい。先ほど、お嬢様が仰ったのでしょう。使いやすい方がいい、と」
自分は毎晩使っていた。リナも、母のために使いたいという。
ほかの家でも、髪が乾くまで同じように待っている人がいるだろうか。
「売れるかしら」
「お売りになるのですか。お嬢様がお使いになるものでは……」
「私も使うわ。ほかにも欲しい方がいたら、その方の分も作っていただくの」
リナは何か言いかけ、鏡の中のクラリッサと目が合うと、小さく息をついた。
「そうでしたね。洗濯場でも、一つ届いたら、もう次をお頼みでした」
「懐かしいわね。でも、あの石鹸は、直したいところがあったのよ」
「今度は、まだできてもおりませんよ」
「だから、できたら」
「……お買いになる方がいるかは、わたくしには。でも、毎日使うものにはなると思います」
クラリッサは鏡台の引き出しへ手を伸ばした。手紙用の小さな紙束と、短くなった鉛筆が入っている。
「今、お書きになるのですか」
「忘れないうちに」
「お顔を上げて、と何度申し上げれば……」
鏡の前に置いた手紙箱へ紙を立て掛けてみると、リナはしばらくそれを見てから、諦めたように髪を持ち上げた。
台の上に支えを一本、その先に丸い口のついた筒を描いた。風の向きを変えるには、どこが動けばいいのだろう。
筒と支えの境目に丸をつけ、『向きを変えたい』と書き添えた。
*
翌朝、クラリッサは昨晩の絵を母のところへ持っていった。
「小鳥を飼いたいの?」
母の指が、絵の丸い口を指している。朝の明かりで見直すと、たしかに鳥の巣箱のようだった。
「髪を乾かす道具です。ここから温かい風が出て、こう、髪に当てられたらと思って」
「まあ。ごめんなさい、鳥の入る穴かと思ったわ」
母が笑う。クラリッサは絵の下の文字を示した。温かい風、強さを変える、両手を空ける。
「できたら、お母様にも使ってほしいです。ほかにも欲しい方がいたら、売れないかと思って」
母の指が紙から離れた。
「売るの? あなたが?」
「はい。でも、まず作れるかどうかを聞きに行きたくて——」
「昨日、お金の話を聞いたから?」
クラリッサは頷いた。
「それもあります。でも、これがあれば私も嬉しいです。リナも、使ってみたいと言ってくれました」
母は絵へ目を落とし、しばらく文字を読んでいた。
「……急にそんなことを言うから、驚いたわ」
返された絵を、クラリッサは両手で受け取る。
「まずは、風を起こす魔具を見てきます。この絵のように使えるか、いくらかかるか。お金がかかることは、帰ってからお母様と相談します」
「ええ。それなら、うちの魔具を直してくださる工房に取り次いでもらいましょうか」
「お願いします」
家令が工房へ取り次いでくれることになった。部屋へ戻ったクラリッサは、絵を畳んで鞄へ入れる。
父の荷について、軍務局からの返事はまだ来ていない。目録は、机の上に残した。
父のことを調べる人を、自分で稼いだお金で雇いたい。クラリッサは鞄の留め具を閉じた。
昼前、工房から返事が届くと、クラリッサは鞄を手に玄関へ向かった。リナから手袋を受け取ってはめる。
「絵は、工房に着くまでは、鞄に入れておいてくださいませ」
「馬車でも描き直せるのに」
「揺れる馬車でお書きになるよりは、今の鳥の巣箱の方が、まだ伝わると思います」
「……やっぱり、そう見える?」
リナが笑い、開けられた扉の先へ付いてきた。




