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第0章 34話 ただいま戻りました

 母の部屋へ入ると、寝台の脇に椅子が用意されていた。


「お帰りなさい。こちらへいらっしゃい」


 クラリッサはそばへ行き、膝(ひざ)を折った。


「ただいま、戻りました」


 母が両手を伸ばした。手袋を外して両手を預けると、眉を寄せて包み込んでくれる。


「まあ。こんなに冷たくして」


 母の指は温かかった。クラリッサはその手を見つめたまま、帰りの馬車で考えていた言葉を口にした。


「婚約の儀は、延期になりました。いつまでかは、決まっていないそうです」


 包んでいた手に、少し力がこもった。


「……そう」


「準備も、取りやめると」


 母は戸口の家令(かれい)へ一度だけ目を向けた。家令が頭を下げるのを見てから、クラリッサへ顔を戻す。


「分かったわ。お話ししてくれて、ありがとう」


「ほかにも、お伝えしなければ」


「ええ。あとで聞かせてちょうだい。まずは着替えて、お湯に入りましょう。リナ、お願いね」


「かしこまりました。すぐに支度をいたします」


 立ち上がりかけて、母がまだ手を離していないことに気づいた。


「お母様?」


「……ごめんなさい」


 母の手が緩んだ。クラリッサは立ち上がるのをやめ、脇の椅子に腰を下ろした。


「お湯の支度ができるまで、ここにおります」


     *


 リナが髪の飾りを外し始め、盆の上で留め金が小さく鳴った。


 後頭部を引いていた髪がほどけた。王宮では、頭を動かすたびにどこかの髪が引かれるのを気にしていた。今は指を差し入れて、痒(かゆ)いところを掻(か)いてもよい。


「そこは、あとでわたくしが洗いますから」


「気持ちがいいのに」


「爪を立ててはいけません」


 クラリッサは手を下ろした。湯に足を入れると、爪先(つまさき)がじんと痛んだ。


「……熱いわ」


 リナが湯に手を入れて確かめた。


「少しずつお入りください」


 縁(ふち)に手をつき、そろそろと腰を下ろした。湯に体を慣らしてから、リナに髪を洗ってもらった。


 湯から上がり、部屋着に着替えるころには、体が重くなっていた。椅子の背に寄りかかって、髪を乾かしてもらう。


「お夕食は、奥様のお部屋へお持ちします。お嬢様も、そちらで召し上がりますか」


「そうするわ。リナ、あなたは?」


「お嬢様方にお出ししてから、いただきます」


「朝もそう言っていたでしょう。お支度が済んでからって」


 髪を拭(ふ)く手が止まった。


「……厨房(ちゅうぼう)で、何かいただいてまいります」


「そうして。私、一人で着替えられたのに」


「後ろの釦(ボタン)を掛け違えたまま、お休みになるおつもりでしたよ」


 クラリッサが背中へ手を回すと、リナはその手を押し戻した。


「直してございます。どうぞ、暖かくしてお待ちくださいませ」


 リナが出ていったあと、クラリッサはしばらく椅子に座っていた。


 隣室から話し声が聞こえる。母が家令に何か頼んでいるらしい。言葉は聞き取れなかった。


 父にも、今日のことを話したかった。


 椅子を離れ、肩掛けを取った。廊下へ出て小机の手燭(てしょく)を借り、そのまま書斎(しょさい)へ向かう。


 扉の前で、二度叩(たた)いた。


 返事を待ってしまってから、取っ手を握った。


     *


 書斎には火が入っていなかった。


 机の上は片づいている。父の椅子はきちんと収まり、窓際には読みかけの本が積まれたままだった。背表紙の文字へ指を伸ばしかけて、やめる。


 父なら、何を訊(き)いただろう。


 陛下(へいか)のお言葉を正確に話せるよう、帰り道に思い返していた。けれど、今ここへ来たら、何から話せばよいか分からなくなった。


「……ただいま、戻りました」


 声だけが部屋に残った。


 手燭を机に置くと、向こうの窓に灯りが映った。その隣には、髪を下ろした自分の顔がある。暗い外へ目を凝らしても、映る顔のほうがよく見えた。


 硝子(ガラス)に映る顔を見つめているうちに、肩に、ここにはない鞄(かばん)の重さを感じた。


 不意に、体が傾いた。


 床は動いていない。けれど足が、揺れに合わせて踏み直そうとする。車輪が継ぎ目を踏む音。硝子の向こうを、等間隔の灯りが後ろへ流れていく。


 電車だ。


 その言葉と一緒に、つり革を握る手が見えた。窓の中には、黒い髪を後ろで束ねた女がいた。目を閉じかけては、車内の放送に顔を上げる。


 降りるのは、まだ二つ先。


 そう思った瞬間に、駅の名も、そこから家までの道も分かった。


 改札を抜け、角の店で夕食を買う。狭い部屋の鍵を開けて、靴を脱ぐ。翌朝は同じ道を戻り、会社へ行く。


 白い灯りの下に机が並んでいる。電話を取り、相手の言葉を手帳に書きつける。画面には外国語の文面。その横に開いた契約書と見比べ、違っている日付に印をつけた。


「吉岡(よしおか)さん、先方へ返しても大丈夫ですか」


「待ってください。納期が変わっています。営業の担当にも確認しますから」


 自分の声だった。


 よしおか。吉岡。下の名は、真莉(まり)。


 何度も署名した字が浮かんだ。名刺にも、社員証にも、同じ名前がある。


 吉岡真莉。商社で働いていた。営業として取引先を回り、海外の事務所へ赴任したこともある。日本へ戻ってからは、契約管理を担当していた。


 クラリッサは机の縁(ふち)をつかんだ。


 あの窓に映っていたのは、私だ。


 契約基礎が初めから面白かったのも、少しは、この仕事を覚えていたからかしら。


 日本という国で暮らし、あの会社へ通い、あの名で呼ばれていた。幼いころから時折見えていた景色の前後に、朝があり、夜があった。


 初めて知らない景色が見えたのは、洗濯場で石鹸(せっけん)の鍋(なべ)を覗(のぞ)いていたときだった。あの白い床は、取引先の工場にあった。借りた上着の袖(そで)が長くて、何度も折り返した。その日の帰りにも、会社へ寄っている。


 ほかにも、いくつも思い出した。


 同僚と昼食へ出て、戻る時刻を気にしながら喋(しゃべ)ったこと。休日に洗濯をして、干し終えたところで雨が降ってきたこと。実家から届いた段ボールを、玄関に置いたまま何日か過ごしたこと。


 箱の中には米と玉ねぎが入っていた。礼の電話で、こっちでも買えるのにと言うと、あんたは買わないでしょう、と母が笑った。


 その声も思い出せた。電話の向こうで父が何か言い、母が聞き返している。今の母とは違う声。今の父とは違う顔。


 会いに帰ったのは、いつだったろう。


 次に、キャリーケースの車輪が床を鳴らした。


 出張から戻った夜だった。会社の机の脇に荷物を置き、画面を開く。週明けまでに確認しておく書類が残っていた。買ってきたおにぎりを二つ、袋のまま机の端へ寄せた。


 帰ったら風呂に入る。その前に、これだけ。


 そう考えたことは覚えている。


 夜中に警備員が通った。


「まだかかりますか」


「もう少しで終わります」


 会釈(えしゃく)まで返して、画面へ目を戻した。あと何枚かだった。腕が重く、胸のあたりが苦しかったが、疲れているからだと思っていた。


 席を立とうとしたとき、足に力が入らなかった。


 机の端の袋が見えた。手を伸ばしたのは机へなのか、電話へなのか。そこは分からない。椅子が動いて、それきりだった。


 クラリッサは息を吸った。


 冷たい空気が胸に入り、肩掛けの下で心臓が速く打っている。確かめるように、胸元へ手を当てた。


 三十二だった。


 結局、あのおにぎりは食べなかった。


 どうして先に食べておかなかったのか、今の自分には分からない。書類を一晩置くことで誰が困るかは思い出せるのに、それが自分の食事より大事だった気持ちには、戻れなかった。


 あちらの母は、誰から知らせを聞いたのだろう。


 父が亡くなったと教えてくれた、この家の母の顔が浮かんだ。あの家でも、誰かがそんな話をしなければならなかった。


 机へ顔を伏せた。板は冷たく、涙が頬(ほお)を伝うのが分かった。


 自分は、あちらの父と母より先に死んだのだ。


 しばらくして顔を上げると、窓には、泣いている少女が映っていた。


 十五の顔だった。何十年分ものことを思い出したのに、今日、殿下(でんか)の前で立ち尽くした自分のままだった。あの方の声を思えば、まだ胸が痛い。


「お父様」


 椅子へ呼びかけた。


「……私、ほかのところでも、生きていたみたいです」


 口にしてみると、ひどく頼りない言い方だった。机に触れている指を見下ろす。書類の角を揃える手つきも、電話を肩に挟んだときの首の痛さも、もう誰のものか分かっているのに。


 父なら、驚いただろうか。まず座るように言って、最初から話すよう求めただろうか。


 話してみたかった。


 返事を待ちながら、クラリッサは頬を拭いた。


 廊下から、足音が近づいてきた。


「お嬢様。こちらでしたか」


 戸口にリナが立っていた。目が合うと何か言いかけ、それから部屋の冷たさに眉を寄せる。


「湯冷めしてしまいます。奥様のところへ参りましょう。お夕食ができましたよ」


「……もう、そんな時間?」


「はい。お待ちになっております」


 クラリッサは頷(うなず)いた。手燭を取ろうとすると、リナが先に持ち上げてくれる。


「あなたは、食べた?」


「いただきました。パンを切るそばから食べるなと、叱られましたよ」


 リナの顔を見て、少しだけ笑えた。


 戸口で振り返ると、父の机はもう灯りの外にあった。


「また、来ます」


 戸を閉めて、リナと並んで歩いた。


 母の部屋の前まで来ると、食器の触れ合う音が聞こえた。中から、娘はまだかしらと母の声がする。


「お待たせしました」


 クラリッサは、リナが開けてくれた戸をくぐった。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます!

これで第0章は完結です。物語は第1章へと続きます。


心に残った場面や、気になった登場人物など、ひとことでも感想をいただけると嬉しいです。

楽しんでいただけましたら、評価で応援していただけると励みになります!


続きも読んでみようと思ってくださった方は、ぜひブックマークを。

これからも、クラリッサたちをよろしくお願いします!

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