第0章 33話 咎はない
王宮の使者が来たと聞いて、クラリッサは母の部屋へ急いだ。
いつも殿下のそばにいる侍従だった。卓に開かれた文を見て、母の顔を見る。母は寝台から身を起こしたまま、こちらへ文を差し出した。
王宮へ伺う日と刻限。その下に、王太子との縁組について、国王陛下より沙汰を賜るとある。
「殿下へ差し上げたお手紙は、お届きでしょうか」
「はい。お渡ししております」
「お返事は」
「お預かりしておりません」
侍従はそれだけ答えた。文には、殿下も臨席されると書いてある。会えるのだと思ってから、臨席、という字をもう一度見た。
母が沙汰の内容を尋ねても、使者は答えを持っていなかった。代わりに、母が伺えないことを伝えると請け合い、家令の同行について打ち合わせて帰っていった。
「一緒に行けなくて、ごめんなさいね」
「お母様が謝ることではありません」
母はクラリッサをそばへ呼び、手を取った。
「分からないことは、お尋ねしていらっしゃい。帰ってきたら、一緒に考えましょう」
頷くと、母は手を離した。立ち上がってからも、その温かさが残っている気がした。
*
指定された朝、クラリッサは喪服で王宮を訪れた。
リナは控えの間に残り、家令が母の挨拶を預かって同行した。開かれた扉の先には、国王と王妃、その手前にはレオポルトの席がある。
殿下の目がこちらを向いた。
会釈しかけて、足元へ視線を戻す。侍従が示す場所まで進み、まず陛下へ礼をしなければならない。
左右に並ぶ人々の顔には見覚えがあった。王妃の近くにいるヴァレンティナも、こちらを見ている。夏に母と通っていたときには、自分もあの方々へ近づいて挨拶をした。今日は真ん中を歩き、止まる場所まで決められていた。
家令が母の欠席を詫び、脇へ下がる。国王は父の死を悼み、夫人にも体を大事にと伝えた。そのお言葉に礼を返すところまでは、家へいらした方を迎えるときと同じだった。
国王が目を向けると、役人が文を読み上げた。
「王太子レオポルト殿下と、ローズグレイス公爵家令嬢クラリッサ嬢との婚約の儀は、期日を定めず延期する」
耳に入った言葉を、文にして読み直すように考えた。
延期。期日は決めない。
父の件が片づくまで、という条件もない。
「儀に向けた準備は、これをもって取りやめる。再開については、王家より改めて知らせるものとする」
役人は読み終えた文を下げた。
取りやめる日は今日で、始める日は決まっていない。それでも、破棄とは仰らないのだ。
上手な言い方だわ、と思った。
意味が分かったあとに、殿下の名と自分の名が胸に迫ってきた。王宮で受ける教えも、卒業のあとの支度も、もう必要がない。その日のために母と選んだものが、家にはある。
列の端で、誰かが隣の人へ口を寄せた。何と言ったかは聞こえなかったが、こちらへ目を戻すのは早かった。
クラリッサは顎を引いた。そうしないと、口が開いたままになりそうだった。
「お沙汰を承った旨、お答えを」
何と思うかは、訊かれなかった。
これでよろしいですかと、名を書く前には訊かれるはずだった。まだ何も結んでいないから、取りやめるのにこちらの承諾は要らない。ただ、承ったとは答えなければならない。
「謹んで、承りました」
礼をして、顔を上げた。俯いたままでいる理由まで、渡したくなかった。
役人が文を畳もうとしている。クラリッサは口を開きかけたが、その人に尋ねてもよいのか分からず、唇を結んだ。
「陛下。私からも」
国王が頷くと、殿下は席を立ち、クラリッサの前まで来た。顔が近くなるにつれ、さっき言えたばかりの返事が、もう一度は言えない気がしてくる。
「何か、申したいことがあるのではないか」
クラリッサは、殿下の向こうの玉座へ目を向けた。陛下がお決めになったことを、今ここで尋ねてよいのだろうか。
「……申し上げても、よろしいのでしょうか」
「そなたの目は、確かだ」
思いがけない返事に、殿下へ目を戻す。
「初めて茶を共にした日に、王家の織物の誤りを指した。私の前でも、間違いを見つけて黙っている者ではなかった」
壁の金糸も、茶器を置いたときの音も、覚えている。あの日は、お話ししたあとに隣へ呼んでくださった。今日は、ここから退くように言われている。
「でしたら、一つ、お尋ねいたします」
殿下が頷いた。
「父がお金を受け取ったと、まだ決まっていないと伺っております」
「そのとおりだ」
はっきりした返事だった。左右で身じろぎの気配がする。
「では、なぜ、私が殿下のお隣に立てないことだけは、先に決まるのでしょうか」
殿下が口を開きかけた。
「レオポルト。その問いには、私が答える」
「クラリッサ」
玉座から名を呼ばれた。殿下が身を引き、クラリッサも国王へ向き直る。
「これは、そなたの咎を裁く沙汰ではない」
「……はい」
「父君の件は、なお調べさせる。縁組については、王家が今の事情を踏まえて定めた」
言い終えると、国王はこちらを見ていた。咎がないと仰る顔に、怒りはなかった。
「私に何か、改めるべきことがあるのでしょうか」
「そのようなことを求めてはおらぬ。知らせがあるまで、控えていなさい」
何もない。
お稽古で違えたのなら、直せばよかった。殿下の隣に立つのに足りないものがあるなら、教わって身につければよかった。今日のことには、そのどちらも求められていない。
父の疑いが晴れたら、と訊きかけて、口を閉じた。儀を再開するとは、仰っていない。
クラリッサは殿下へ顔を向けた。目が合い、何か仰るのを待った。
隣に立てない、と自分で言ってしまった。
違うと言ってほしかった。そういう意味ではないと、殿下から聞きたかった。
殿下は答えなかった。やがて玉座へ一礼して席へ戻り、クラリッサはその背を見送った。役人が自分の名を呼んでいる。
「お下がりになってよろしい」
もう一度礼をした。顔を上げると、役人は文を閉じ、次の紙を手元へ引き寄せていた。
*
控えの間の戸が開くと、リナが立ち上がった。
「お嬢様……!」
クラリッサは立ち止まった。ここでは何を言ってもよいはずなのに、声が出なかった。
リナがそばへ来て、外套を広げる。クラリッサは黙って腕を通した。
「……帰りましょう」
いつものつもりで言ったのに、声がかすれた。リナの顔を見ると、続けて何か言えば泣いてしまいそうだった。
「はい。お車の用意はできております」
家令が先へ立った。リナに留め具を掛けてもらい、その手が離れかけたとき、クラリッサは指をつかんだ。
リナは何も訊かず、握り直してくれた。
殿下へ出した便りは、届いている。読んでくださったかは、聞けなかった。お話ししたかったことは、もっとあった。
廊下へ出ると、向こうから来た人たちが壁際へ寄った。一礼され、こちらも礼を返す。道は空けてくれる。今までどおり、公爵家の娘として。
咎はないと、陛下は仰った。
それで何も失わずに済むのなら、どれほどよかっただろう。




