第0章 31話 休暇には間に合わせたい
父に同行していた軍務局の書記が訪ねてきたのは、面会を頼んでから数日後だった。帰国したばかりで、先に王城で報告を済ませてきたという。
左腕を布で吊っていた。母の部屋へ通されると、椅子を勧められても立ったまま頭を下げる。
「奥様。お嬢様。閣下をお連れして戻ることができず、申し訳ございません……」
クラリッサは、男の顔から吊られた腕へ目を移した。父と同じ道にいた人だった。聞きたいことは、この人が来る前から考えていたのに。
「どうぞ、お掛けになって。お怪我は、そのときのもの?」
「はい。馬から落ちまして」
母にもう一度勧められ、男は椅子に腰を下ろした。そばに立っていた家令が、左肘の下へクッションを入れる。
「お帰りになったのは、いつですか」
「昨日でございます。報告のため、先に戻るよう命じられました」
「夫をお連れする手配は、進んでいるのかしら」
「私どもは、崩れた道を避けて馬で越えました。棺を載せた車は通れませんので、別の道を通る手配を、残った者が進めております」
母は頷き、男の吊られた腕へ目を落とした。
「ご家族には、お会いになれて?」
「昨晩、少し」
「それなら、よかったわ」
母は湯を勧めた。男が右手でカップを持つあいだ、クラリッサはその顔を見ていた。眠っていないような目だった。
家令が旅支度の帳面を卓へ置き、先日来た目録の写しを添えた。
「家からお渡しした旅費に、間違いはございませんでした。軍務局へも、控えをお届けしております」
男は頷いた。
「伺っております」
「このお金は、夫がどこで手にしたとされているのかしら。あなたは何か、ご存じ?」
母の問いに、男はカップを置いた。
「金の受け渡しは、見ておりません。商人との面談には私も同席しましたが、閣下が金を求めるようなお話は、一度もございませんでした」
「では、そうお伝えくださったのですね」
クラリッサが身を乗り出すと、男はこちらへ顔を向けた。
「はい。先方にも、王城でも」
「それでも、まだ調べなければならないのですか」
「私が席にいたあいだのことしか、お答えできませんので……」
母は黙って聞いていた。クラリッサも、膝へ手を戻す。
ずっと一緒にいたと言ってほしかった。父は受け取っていないと、誰か一人でも、はっきり言えたら。
「荷から見つかったときは、そばにいらしたの?」
「いいえ。私は、怪我をした者たちと先に宿へ運ばれました。荷はあとから、ノルドの回収に当たった者が届けてきたのです」
「中にお金があると知ったのは、そのとき?」
「目録を見せられたときでございます。旅費とは別の袋が記されておりましたので、確かめるよう求めました」
「そのお返事が、商人の話だったのね」
「はい」
クラリッサは写しを見た。この人も、お金を見つけたところにはいなかった。
「回収した方には、王城からお尋ねになるのですか」
「そのように伺っております」
こちらでも聞いている。向こうへも尋ねている。今日来た人も、すでに話せることは話してくれていた。
誰も何もしていないわけではない。なのに、父のお金ではありませんとは、まだ言ってもらえない。
母が身じろぎをし、家令が背のクッションを直した。男はそれを見て、椅子から腰を浮かせかける。
「お疲れのところ、長くお邪魔を」
「もう少し、よろしいかしら。お怪我に障らなければ」
「はい」
「夫は、帰る日を楽しみにしていました?」
男は母を見た。それから、膝に置いた右手へ目を落とす。
「……休暇には間に合わせたいと、仰っていました」
家を発つ前にも、同じことを言っていた。
クラリッサは口を開き、閉じた。あのときは、学園が休みになれば父も家にいて、また一緒に過ごせると思っていた。
「そう」
母は頷いた。
「聞かせてくださって、ありがとう」
男がもう一度頭を下げると、母は止めずに待っていた。
*
男が帰ってから、クラリッサは自分の部屋へ戻った。
机には、届いた便りが重ねてある。読めたものから返事を書くつもりで、まだ何通も残っていた。リナが茶を用意しようとしたので、今はいいと断り、便箋を一枚出す。
殿下は父の仕事を見ていた。あの春、自分を捜すために詰所へ来て、父と話してくださった。
父のことを、どう聞いていらっしゃるのだろう。
今日会った人の話も伝えたかった。お金が見つかったときには立ち会っていなかったことも、商人との面談では、そんな話は出なかったことも。
書き始めてから、ペンを止める。
軍務局へは、もう伝わっている話だった。殿下もお聞きになっているかもしれない。同じことを知らせるだけの便りになってしまう。
それでも、会いたかった。
何を書いていいか分からないまま、少し前までなら学園の廊下で呼び止められたのに、と思った。もう休暇に入っている。屋敷で待っていても、顔を合わせることはない。
便箋を取り替え、初めの挨拶から書き直した。
『父のことで、お話ししたいことがございます。
お時間をいただけませんか。』
宛名を書いてリナへ渡すと、誰かに読んでもらう文を書けたのは、家へ戻ってから初めてだと気づいた。
「お返事が来たら、すぐに教えてね」
「はい。お持ちいたします」
リナが部屋を出るのを見送ってから、クラリッサは残りの便りを一通、手元へ引き寄せた。




