第0章 30話 父の荷
父が帰ってくる日は、まだ決まらなかった。
家へ戻ってから幾日かのあいだに、弔問の客が何人も来た。母が起きられないときは、クラリッサが挨拶を受けた。父に世話になったという人の話を聞き、知らなかった父のことを一つ覚える。客が帰ったあとで母に話すと、知っていることも、初めて聞くこともあった。
話しているあいだは、少し楽だった。父を知る人が、次も来てくれればいいと思う。
エレナが訪ねてきた日には、自分の部屋へ通してもらった。休み前の講義で取った筆記を、写して持ってきてくれていた。
「いま読まなくてもいいから。分からないところがあったら、一緒に見ようね」
「ありがとう」
受け取った紙を机に置くと、エレナはクラリッサの顔を見た。
「私、しばらくここにいてもいい?」
「……ええ。嬉しいわ」
エレナが椅子を近くへ寄せた。父の話をしても、途中で言葉が出なくなっても、続きを急かされることはなかった。
*
軍務局から人が来ると聞いた午後も、クラリッサは母の部屋にいた。
「お父様がお戻りになる日が、決まったのでしょうか」
「そうだといいわね」
母は長椅子に座ったまま、肩掛けを直した。クラリッサが卓の茶器を片側へ寄せていると、家令が客を案内してきた。
男は母へ深く頭を下げ、こちらにも礼をした。勧められた椅子に腰を下ろし、膝に置いた書類入れを開く。
「ご服喪のところ、恐れ入ります。本日は閣下のお荷物について、確認をお願いしたいことがございます」
「届いたの?」
母の声が少し上がった。
「いえ。先方から届いたのは、回収品の目録と報告でございます」
父の外套も、手袋も、まだ向こうにある。クラリッサは寄せた茶器から手を離し、母の隣へ戻った。
男がこちらを見たので、母が口を開いた。
「娘も一緒に伺いますわ。どうぞ、お話しになって」
「承知いたしました」
卓に二枚の紙が置かれた。男はそのうちの一枚を母へ向ける。
「閣下の荷から、まとまった額の金が見つかったとの報告がございます。旅費としてお渡しした金とは別に、ご持参になったものがおありでしたでしょうか」
「旅の支度をした者に、確かめさせますわ。ねえ」
母が振り返ると、家令は頷いた。
「出立前の帳面と照らします」
「お願いいたします」
男は頭を下げ、もう一枚の紙へ目を落とした。
「それと、もう一点ございます。その金について、ノルドの商人が申し立てをしております」
「何と?」
「ベルネ商会と費用を分担していた、ノルドの商会の責任者です。閣下にそれ以上調べられては困るため、金を渡したと」
母は紙へ落としていた目を上げた。
「夫に?」
「閣下への取りなしを頼んだ、と申しております」
「お待ちになって。その商人は、夫へ手渡したと言っているの?」
「いいえ。交渉に当たっていたノルド政府の担当者へ預けた、と。その担当者から、閣下へ話を通すと言われたそうです」
クラリッサには、誰のお金なのか分からなくなった。
商人から別の人へ渡されたお金。それが、なぜ父の荷にあるのだろう。
「お父様が、お金を欲しいと仰ったのですか?」
「閣下から直接求められた、という証言ではございません」
「では、その方に訊けば……」
「王城から、説明を求めております。商人の話だけで、閣下が受け取られたと決めることはできませんので」
それなら、違うと分かるはずだった。
けれど、目の前の人はその返事を持ってきたのではない。父の荷にお金があったという紙を、母へ差し出している。
「お父様は、商会への支払いを止めていらしたのです」
男がクラリッサを見た。
「帳面を確かめるまで、許可は出せないと。私が家へ戻ったあとも、お調べになっていました。それなのに、お金を受け取るなんて」
「……その調べを緩めてもらうために払った、というのが、商人の申し立てでございます」
続けようとした言葉が出てこなかった。
父が何をしていたかを話せば、取り違えだと分かってもらえると思った。相手はそれを知っていて、ここへ来ている。
母がクラリッサの腕に触れた。
「旅支度の帳面は、ご覧いただけるようにいたします。それから、夫と一緒にいらした方に、お会いしたいわ」
「お荷物について、お尋ねになりたいということでしょうか」
「それもございます。けれど、まだ旅先の話を、誰からも直接伺えていないの。夫がどんなふうに過ごしていたか、聞かせていただきたいのよ」
「お伝えいたします」
母は頷いてから、口元を押さえた。咳が続き、家令が水を差し出す。男は母が息を整えるのを待った。
「失礼いたしました。家令には、このあともお話しくださいな。家へ確かめたいことがあれば、わたくしからもお返事いたしますから」
男は立ち上がり、もう一度頭を下げた。
*
二人が出ていってから、クラリッサは卓の紙へ手を伸ばした。
父が持参した金を確かめるために置いていった写しだった。書かれた金額を読んでも、見覚えはない。父が旅にいくら持っていくかなど、考えたこともなかった。
「クラリッサ」
「……私、何も知りませんでした」
「わたくしも、これから確かめるのよ」
「でも、お父様はなさっていません」
「わたくしも、そう信じているわ」
母が紙を持つ手に触れた。クラリッサは顔を上げた。
「私も、一緒にお話を伺っていいですか。お父様と旅をなさった方に」
「ええ。来ていただける日が決まったら、知らせるわ」
クラリッサは頷き、写しを卓へ戻した。
父が帰ってきたら、これは何ですかと訊けばよかったのに。
そこにいない人へ、また尋ねようとしていた。




