第0章 24話 お話が、ないときでも
夏の休暇が近づいたころ、母から手紙が届いた。
殿下の卒業を見据え、王宮では縁談を公にする準備を始めるらしい。夏の休暇中に母と伺い、これから受ける教えや日程について話を聞くことになった。早めに帰っていらっしゃい、と母の字が続く。
母への返事を書こうとして、クラリッサはペンを止めた。
休暇に王宮へ行くのは、殿下に庭を見せていただくときだと思っていた。今度は、誰に何を教わるかを決めに行く。自分の知らないところで、もうそこまで話が進んでいる。
殿下は、どう思っていらっしゃるのだろう。
春に王宮へ伺ったとき、殿下も内示を聞いていた。口外するなと言われたのも同じで、それを二人で笑った。
事件のあと、まだ屋敷で休んでいたときには、お見舞いにも来てくださった。母と一緒に迎え、捜してくださったお礼を言うと、「もう起きていてよいのか」と、座るほうを先に勧められた。大丈夫だと答えても、帰りに玄関まで送ることは許してもらえなかった。
学園へ戻ってからも、顔を合わせれば話している。先週は王宮から借りてきた本の挿絵を見せてもらった。けれど、内示の話にはならなかった。
自分も、しなかった。
*
翌日の昼、上級生の講義室から出てきた殿下を、クラリッサは廊下で呼び止めた。
「殿下。お時間をいただけますか」
殿下は足を止め、抱えていた本を片腕に寄せた。
「ああ。どうした」
後ろから出てきた生徒たちが、挨拶をして通り過ぎていく。呼び止めたのはこちらなのに、殿下の顔を見てから、何と言えばよいか迷っている。
「いま、ここでは、少し」
殿下は廊下を見た。
「午後の講義が済んでからなら、構わないか」
「はい。ありがとうございます」
そばにいた侍従が、部屋を用意しましょうと申し出た。殿下が頷き、クラリッサも礼をする。
*
用意されたのは、来客用の小さな応接室だった。窓は中庭へ開いていて、枝の葉が風に揺れるたび、卓の上の日差しも動く。
先に座って待つつもりが、殿下はもう来ていた。
「お待たせしてしまいましたか」
「こちらが早く終わった。座ってくれ」
侍従が茶を注いで、戸口のほうへ下がった。クラリッサは椅子に掛けたまま、その人の背を目で追う。
「少し、外で待っていてくれ」
殿下の声に、侍従は足を止めて一礼した。扉が閉じると、廊下を行き交う足音が遠くなる。
「君から話があると言われるのは、珍しいな」
「いつも、殿下が先にお話しになりますから」
「そうだったか」
少し考えたあと、殿下は笑った。
「では、今日は聞こう」
そう言って、本当に黙ってしまった。こちらを見て待っている。話を聞いているほうが、ずっと楽だった。
「母から、手紙が参りました」
「公爵夫人は、お変わりないか」
「はい。休暇には、早く帰ってくるようにと」
「それは、帰って差し上げねばな」
クラリッサは頷き、茶に手を伸ばした。母の話をしているあいだなら、いつもどおりに話せる。このまま夏の庭のことを訊いたら、殿下も答えてくださるだろう。
けれど、それでは今日ここへ来た意味がない。
「休暇中に、母と王宮へ伺うことになりました。これからのことを、ご相談するそうです」
「ああ。母上から聞いた。君にも来てもらうと」
殿下もご存じだった。王宮へ伺えば、きっと決めることはいくつもある。けれど、この人に聞きたいことは、それより前からあった。
茶器を卓に戻し、膝の上で手を重ねた。
「その前に、殿下に伺いたいことがございます」
「なんだ」
訊いたあと、どんな顔をされるだろう。茶器へ目を落としかけて、クラリッサは殿下を見た。
「あの内示をお聞きになったとき、どうお思いになりましたか」
「嬉しかった」
すぐに返事があった。
聞き返すところだった。殿下は言い直す様子もなく、こちらを見ている。嬉しかった。その言葉をもう一度、胸の内で繰り返す。
「……そう、ですか」
「君は、どうだった」
今度はこちらが答える番だった。
「驚きました。父に紙を渡されて、何度も読みました」
「私も驚いた。父上から呼ばれた時は、君の話だとは思わなかったからな」
「殿下にも、前もってお話はなかったのですか」
「ああ。それで、よかったと申し上げた」
国王陛下には、そう答えていらしたのだ。あの庭にいたときも、自分が知らなかっただけで。
「君にも、言ったつもりでいたな」
「伺っておりません」
「そうか。すまなかった」
殿下が考え込むので、クラリッサは首を振った。
「私も、お訊きしませんでしたから」
「訊かれるまで黙っているようなことでもないだろう」
殿下が、もう一度こちらを見た。
「君のほうは、驚いただけか」
「嫌だったわけでは、ございません」
そこだけは、すぐに言えた。
「ええと……殿下とお話しするのは、好きです。お招きのある日は、何のお話かしらと、楽しみにしておりました」
殿下の口元が緩んだ。最後まで言い終える前にそういう顔をされると、続けにくい。
「でも、ずっと先まで決まったようで、驚いてしまって。私だけでなく、殿下の先のことも」
「そうだな」
殿下は椅子に深く座り直した。
「私が学園を出たら、今ほどには会えなくなるだろう。それは前から考えていた」
廊下で呼び止められることが、なくなる。クラリッサにはまだ先の卒業が、殿下にはもう近かった。
「その先も、君と会って話せるなら、私は嬉しい。君がどう思うかは、まだ聞いていなかったが」
膝の上で重ねていた手をほどいた。母の手紙を読んでからずっと、殿下の答えばかりを考えていた。その人も、こちらの返事を待っている。
「私も、お会いしたいです」
言ってしまうと、それだけでは足りない気がした。
「お話が、ないときでも」
殿下は目を瞬かせ、それから笑った。
「それは難しいな。君が来ると、話したいことを思い出す」
クラリッサも笑ってしまった。せっかく言えたのに、と思ったが、黙っていてほしかったわけではない。
「では、聞かせてください」
「今日は、君の話を聞くつもりだったのだが」
「私の話は、もう済みました」
殿下が、少し身を乗り出した。
「そうか。では、夏の庭のことだが——」
庭師が、新しい花壇の図を持ってきたのだという。殿下の話を聞きながら、クラリッサは茶器を取り上げた。
母には、今夜、返事を書こう。王宮へ伺う日が決まったら、殿下にもお伝えしたい。




