第0章 23話 何も来ていないなら
父から、ガスパール・デロームの処分を知らせる手紙が届いた。
命は残され、監督の下で働いて償うことになったという。自由に出歩くことは許されない。
クラリッサは、その一文をもう一度読んだ。自分のところへ来る心配は、もうしなくてよいと安堵する。手紙を畳み、部屋の引き出しへしまった。
*
「次は、歌のあるお芝居がいいな」
その日の昼食を終えるころ、エレナが言った。先の休みに皆で観に行ってから、芝居の話は毎日のように出る。あの日の帰り道では、召使い役の声を真似てマノンを笑わせていた。
「もう観たいものがあるの?」
「まだ。でも、あの召使いの人が出ていたら嬉しい」
食堂を出ていく生徒たちの中に、イザベルの姿があった。同じ組の令嬢と話しながら通りかかり、二人に気づくと会釈をする。
「ごきげんよう」
「イザベルさん。あなたが話していた喜劇、先日観たわ」
クラリッサが言うと、彼女は足を止めた。
「いかがでした?」
「面白かったです! 召使い役の人が、特に」
エレナの返事に、イザベルが頷く。
「あの方、歌もお上手ですわよ。去年の秋は、恋人に会いに行く若者の役でしたわ」
「今度は、ご本人が会いに行くのね」
「クラリッサ、あの人はいつも代わりに行くわけじゃないよ」
「分かっているわよ」
エレナが笑い、イザベルも口元を緩めた。
「次は、あなたの知らないお芝居の話を持ってくるわ」
「楽しみにしておりますわ。では、また」
イザベルは待たせていた令嬢と食堂を出ていった。エレナがこちらへ身を寄せる。
「歌も聴いてみたいね」
「ええ。探してみましょう」
笑いながら杯を取ったエレナの目の下に、薄く影が見えた。クラリッサは自分の杯を置く。
「エレナ。昨夜、遅かったの?」
「うん、ちょっと寝つけなくて。でも、今夜は早く寝る」
「放課後は、寄り道せずに帰りましょうか」
「そうだね。続きは帰りながらにしよう」
何の続きか確かめるまでもなく、エレナはもう歌の話をしていた。
*
放課後、イザベルが玄関へ向かっていると、廊下の窓辺にエレナがいた。一人で鞄を抱え、校庭を見ている。
「お帰りではなくて?」
振り向いた顔に、昼ほどの明るさはなかった。
「あ、イザベルさん。クラリッサを待ってるんです。教室に忘れものをしたって」
「お昼に話していた役者ですけれど、あの方は——」
エレナの目が、イザベルの肩越しに動いた。
言葉を止めて振り返ると、学園の小使いが廊下の向こうから来る。こちらに気づき、歩みを速めた。
「こちらにいらっしゃいましたか」
隣で、エレナが鞄を抱き締めた。指が革へ食い込んでいる。
「アルクール様。お帰りの前に教員室へお寄りください。先生がお呼びです」
「ありがとう。すぐ参ります」
小使いが頭を下げて戻っていくと、エレナは窓枠へ手をついた。細く息を吐き、肩を下ろす。
「どうなさったの?」
「……すみません」
「わたくしに謝ることではなくてよ。気分が悪いの?」
「いえ。私に用があるのかと思って」
エレナは小使いが曲がった角を見た。
「何か、お困りなの?」
「大丈夫です。何も来ていないなら」
イザベルが訊き返す前に、教室の戸が開いた。
クラリッサが、畳んだハンカチを鞄へ収めながら歩いてくる。イザベルに気づくと、二人を見比べた。
「お待たせ。何のお話?」
エレナは窓枠から手を離す。
「お芝居の話。お昼の、あの役者さんのこと」
「ああ、歌もお上手だという方ね」
イザベルに微笑んだクラリッサは、隣に来るとエレナの顔を覗いた。
「少し座ってから戻る?」
「ううん。寮に帰って休む。行こう」
エレナが鞄を持ち直すと、クラリッサはイザベルへ顔を向ける。
「あなたも、寮へ?」
「わたくしは、教員室へ寄ってから。先生に呼ばれていますの」
「そう。では、また明日」
エレナも挨拶をして、クラリッサと玄関へ向かっていく。イザベルは二人を見送り、教員室のほうへ向き直った。
何も来ていないなら、大丈夫。
あの子は、何が来ると思ったのだろう。




