第0章 22話 約束を、守ってください
面会から数日後、エレナはシアンとともに王宮を訪れた。
通された部屋の窓は高く、卓の端まで日が差している。壁際で書記が紙をそろえ、兵は戸の脇に立っていた。エレナが卓について鞄から写しを出していると、向かいの椅子が鳴る。
「本日は、よろしくお願いいたします」
ガスパールが腰を浮かせていた。両手を繋ぐ鎖が、膝へ垂れている。
初めて会った日と同じ挨拶だった。今日は、自分が結ぶと決めて来ている。
「よろしくお願いいたします」
エレナは答え、写しを卓へ置いた。隣へシアンが座る。もう一人、今後のガスパールを監督する役人が、書記のそばから椅子を寄せてきた。
罪と償いの読み合わせが進む。商会の勘定に紛れ込ませた施設向けの運送費についても、ガスパールは自分が手配したものだと認めた。
認めた罪の責任を引き受け、監督の下で償いを続ける。それが、命を残される条件だった。
エレナは写しを追いながら、ときどき顔を上げた。ガスパールは背を伸ばして聞いている。返事もはっきりしていて、先日のように仕事の話を付け足すことはなかった。
病で働けない日や、命じられて待つ間は、償いの放棄には当たらない。エレナはその箇所を確かめてから、罰の条文へ目を移した。
「……償いを自ら放棄したときは、その命を失う」
シアンが読み終えた。頁をめくる音も止む。
「ここまでの内容で、お引き受けになりますか」
「はい」
答えたあとで、ガスパールは唇を舐めた。
「この場を離れても、効くのですね」
「はい。ここにいる誰かが、罰を与えるために術を使うわけではありません。結んだ約束が、ご自身に働きます」
エレナが答えると、男は自分の手へ目を落とした。
「……分かりました」
シアンは、ほかに確かめたいことはないかと訊いた。しばらく待っても問いは出ず、ガスパールはもう一度頷く。
役人の指示で、兵が手枷を外した。男は片方ずつ手首を擦ってから、差し出されたペンを取る。
署名の途中で、一度だけペンが止まった。ガスパールは誰も見ずに続きを書き、姓まで書き終えると、ペンを紙の脇に置く。エレナは椅子から立ち、シアンと署名を確かめた。
「ガスパール・デローム様。この契約を、あなたに結びます」
「はい。お願いいたします」
エレナは手をかざした。
声はちゃんと出た。何度も練習した言葉が、一つずつ口を離れていく。ガスパールは目を閉じていたが、最初の光が紙に触れると開いた。
文字の列を淡い光がたどり、重なった頁の縁を包む。窓からの日差しの中でも、それはくっきりと見えた。読み合わせた約束が、最後の署名まで繋がっている。
エレナは息を継ぎ、魂印を結ぶ言葉を告げた。
名の上から、光の糸が浮き上がる。
細い糸は卓を渡り、ガスパールの手首に触れた。男が肩を引く。けれど手は卓に置いたまま、糸が肌の下へ沈むのを見つめている。もう一本が袖を透かし、腕をたどって胸元へ届いた。
エレナは、最後の糸が消えるまで手を下ろさなかった。
光を収めると、部屋が急に暗くなったように感じた。窓からは、同じ日が差している。紙に落ちた自分の手の影を見ているうちに、膝が曲がった。
「エレナ」
隣から腕を支えられる。椅子へ腰を下ろしても、耳の奥では低い音が続いていた。
「少し、座っていましょう」
シアンが言う。エレナは頷き、卓の縁に手を置いた。軽い罰を結んだときにも疲れはした。けれど、これほど身体が重くなったことはなかった。
向かいでは、ガスパールが袖をまくっていた。手首を返し、指の腹で肌をなぞる。さっきまで糸の見えていたところに、何かを探しているらしい。
「結べています」
エレナは言った。自分で確かめたとおりに、声にした。
シアンも書面と男を確かめ、立会いの記録へ署名する。役人が書類を受け取ってから、ガスパールへ向き直った。
「これで、陛下の裁可に従って処分を改める。以後は、定められた居所で償ってもらう」
ガスパールの息が大きく漏れた。卓に肘をつき、額へ手を当てる。返事がないので役人が呼ぶと、慌てて顔を上げた。
「承知しております。ありがとうございます。必ず、お役に立ちます」
立ち上がるよう指示されると、今度はすぐに従った。兵が近づいても逆らわず、両手を差し出す。手枷が掛け直され、その鎖を兵が取る。
「エレナ様」
男がこちらへ頭を下げた。
「お引き受けくださって、ありがとうございました」
エレナは口を開いたが、いつもの返事が出てこなかった。自分の手は、まだ卓に置いたままだった。
「約束を、守ってください」
「もちろんです」
ガスパールは顔を上げ、深く頷いた。その目は、入ってきたときより明るく見えた。
兵と役人が男を連れていく。戸が閉まり、廊下の足音が遠ざかると、書記も書類を抱えて席を立った。
シアンが水を持ってきてくれた。エレナは両手で杯を受け取り、ようやく長く息を吐く。間違えずに結べた。もう、手順を追っていなくていい。
口へ運ぼうとした水が、杯の中で揺れた。
指が震えている。持ち直そうと力を込めると、水は縁まで跳ねた。
「すみません。こぼしそうで」
シアンが杯の底を支え、卓へ戻してくれた。手を離しても震えは止まらず、エレナは膝の上で指を握り込んだ。
さっきは、この手をあの人に向けていた。名前から伸びた光が肌へ沈んでいくところを、最後まで見届けた。
「結んでいる間は、震えなかったのに……」
喉が詰まり、うまく続かなかった。あの人が約束を破ったら。考えたくないのに、頭を下げて礼を言った顔が浮かぶ。
卓には自分の写しが残っている。紙を閉じても、今日の仕事を終えて帰っても、自分が結んだものはあの人の中に残る。
「先生。もう少しだけ、ここにいてもいいですか」
「ええ」
「先生も、座ってください」
シアンは頷き、隣の椅子へ腰を下ろした。




