第0章 21話 私、引き受けます
クラリッサが学園へ戻って数日たったころ、エレナは授業のあとに呼び止められた。契約の仕事を教わっている公証人、シアン・ヴェルネが来ているという。
「先に行っていて。先生のお部屋に寄ってくる」
鞄を閉じながら言うと、隣で本を片付けていたクラリッサが顔を上げた。
「お仕事?」
「たぶん。まだ聞いてないけど」
「授業を休むなら、今度は私が書き取っておくわ」
「先生のお話だけでいいからね」
「どういう意味?」
「あなたの考えまで入ると、休んだ授業より長くなるもの」
クラリッサは何か言いかけたが、エレナが笑うと、諦めたように頷いた。
廊下へ出てから、エレナは足を速めた。初めはシアンが契約を結ぶところを、隣で見ているだけだった。今では通常の公証を何度も経験し、読み合わせから最後まで一人で任される仕事も増えている。
軽い罰を定める魂印も、シアンの立会いで結んだことがあった。今日はどんな依頼だろう。
小部屋の戸を叩くと、中から返事があった。
シアンは窓際の卓に書類を広げていた。葡萄酒色の髪を肩の手前で切り揃え、細い縁の眼鏡を掛けている。エレナが挨拶を済ませるのを待って、向かいの椅子を勧める。
「王宮から、魂印の依頼が来ています」
「王宮から、ですか?」
「ええ。私も立ち会います。まず、こちらを読んでください」
エレナは鞄を足元へ置き、椅子に腰を下ろした。差し出された紙を両手で受け取る。
ガスパール・デローム。
名には覚えがなかった。その下にある、ローズグレイス公爵令嬢の誘拐、という文字で目が止まる。
「……クラリッサを攫った人ですか?」
「攫うよう命じた者です」
エレナは紙から顔を上げた。
「この人の契約を、私が?」
「魂印を結び、監督の下で償うことを条件に、命を残す裁可が出ています」
あの日、クラリッサは戸板のほうを見てくると言って、坂を上っていった。次に会えたのは、翌日の部屋だった。抱きしめたあとになって、痛くなかったかと慌てて訊いた。
さっきまで隣に座っていた友人と、そのときの顔が重なる。
シアンは急かさずに待っていた。エレナは続きを読んだ。引き受ける責任と、これからの償い。財産を返し、監督の下で働く。
その約束を自ら捨てたときには、魂印によって命を失う。
そこから先へ、目が進まなかった。
見習いを終える試験では、仕事で知った秘密を守る誓いを、自分自身に結んだ。署名から伸びた光が手首に触れ、身体の中へ入ってくる感触を覚えている。
同じように、この人へも結ぶのだ。逃げれば死ぬという約束を。
「お嬢様と親しくしていることは、承知しています。引き受けられなければ、そう言って構いません」
エレナは頷きかけた。そのまま紙を返せばいい。けれど、差し出すところまでは手が動かなかった。
「断ったら、どうなりますか」
「別の術者を手配します」
自分が断ったからといって、この人が死ぬわけではない。それを聞いて、まずほっとした。
シアンが紙へ手を伸ばす。
「あ、待ってください。まだ……」
まだ、何なのだろう。引き受けますとは言えないのに、返してしまうのは嫌だった。仕事を任せてもらえると喜んでいたのは、ほんの少し前のことだ。
「術の扱いに、不安がありますか」
「間違えないようには、できます。でも」
うまく言えず、紙を見下ろした。ここの一行も、書かれたとおりに結べる。文字を変えたり、罰を弱めたりせずに。そうして結んだあと、この人が逃げれば、魔法は働く。
そのとき自分は、授業を受けているかもしれない。クラリッサとお昼を食べているかもしれない。何も知らずにいる間に、この人が死ぬ。
「ちゃんと結べても、死んでしまうんですよね。この人が、約束を破ったら」
「はい」
分かっていた答えなのに、聞くと紙が急に持ちづらくなった。エレナは卓へ置き、指で端を押さえる。
「あなたが処分を決めるのではありません。それでも、自分の術であることは変わりません。すぐに返事をする必要はありませんよ」
シアンは書類を取り上げず、椅子へ座り直した。
顔も知らない男だった。クラリッサを攫わせた。それだけで、ひどい人だと思える。
なのに、その人へこの魔法を使う自分は、うまく思い浮かべられなかった。契約を結ぶときには、いつも目の前に相手がいて、こちらの問いに答えてくれる。
紙の上の名も、最後にはその人の声で確かめてから結んできた。
「先生。この方には、会えますか」
「契約を結ぶ前に、ですか」
「はい。お返事をする前に、お話ししたいです」
シアンはエレナの顔を見てから、卓の紙へ目を落とした。
「面会できるよう、頼んでみましょう。私も一緒に行きます」
エレナは礼を言い、押さえていた紙から指を離した。
*
面会が許されたのは、その翌日の午後だった。
案内された部屋には、卓と椅子が三脚ある。エレナがシアンの隣に座って待っていると、兵に伴われて男が入ってきた。こめかみには白いものが混じり、厚みのある肩に、着古した上着を掛けている。
「お待たせいたしました」
男はシアンへ頭を下げた。椅子を引こうとした手が止まり、後ろの兵を振り返る。座ってよいと頷かれてから、腰を下ろした。
両手は、前で鎖に繋がれていた。
「ガスパール・デロームです。本日は、どうぞよろしくお願いいたします」
エレナも頭を下げかけ、シアンがこちらを示すのに合わせて顔を上げる。
「術を担当する予定のエレナです。今日は、引き受けるかを決める前に、お話しする時間を頂きました」
「こちらの方が」
ガスパールの目がエレナに移り、すぐシアンへ戻る。
「あなたも、当日はいてくださるのでしょうか」
「立ち会います」
「そうですか。それなら……失礼しました。ずいぶんお若く見えたものですから」
エレナは膝の上で手を揃えた。初めて会う依頼人に不安そうな顔をされるのは、珍しくない。いつもなら、任せてくださいと言っていた。
「魂印は、結んだことがあります」
「同じようなものを?」
答えるまでに間が空いた。男の視線が、今度はシアンへ逃げず、こちらに留まっている。
「死を罰にするのは、初めてです」
ガスパールの口が開きかけた。何か言うつもりだったらしいが、息を吐き、卓に置いた手を組み直す。鎖が木の縁を擦った。
「……私が、お教えできることなら、何でもお答えします」
さっきより丁寧な声になった。
エレナは、用意してきた問いを口にする。
「契約を結んだあと、どんな暮らしになるかは、聞いていらっしゃいますか」
「ええ。決められたところで、言いつけられた仕事をします。勝手に出歩くことはできないと」
そこで一度、シアンを見た。
「荷を調べる仕事はさせてもらえるそうです。帳面と筆があれば、私にもできることがあります」
北へ送る荷なら、包みを開ける前にも分かることがあるのだという。川を上る船では濡らさずに運べても、峠で馬の背に載せ替えると、薄い包みは擦れて破れる。
「そういうところで、品を駄目にしてしまう。書付だけでは分かりませんから」
組んでいた手を離し、指で卓の上に包みの大きさを示す。話しているうちに声がはっきりしてきた。
父の店にも、こうして品の扱いを教えてくれる人が来た。商売の話になれば、いつまでも帰らない人たちだった。
この人も、あの卓に座っていておかしくない。
だからといって、クラリッサを攫わせたことがなくなるわけではなかった。エレナは男の手から目を上げる。
「そのお仕事を、続けていかれるんですね」
「もちろんです。逃げたりはしません。せっかく頂いたお許しを、無駄にはしませんとも」
まだ問い終わらないうちから、ガスパールは頷いていた。
「ですから、どうか」
卓の上で、両手がこちらへ寄る。
「間違いのないように、お願いいたします」
エレナは返事をしかけて、飲み込んだ。
この人は、私が間違えるのを怖がっている。
エレナは、卓に伸ばされた手を見た。自分の魔法が働くことばかり考えていて、その魔法を身体に入れる人が、自分をどう見ているかは考えもしなかった。
「彼女の仕事には、私も何度も立ち会っています。術は確かです。当日も、手順は一緒に確かめます」
隣でシアンが言った。ガスパールは頭を下げたが、顔を上げるとまたエレナを見た。
「……書かれたとおりに結ぶことは、できます」
それには答えられた。ガスパールの肩が下がる。
「ありがとうございます」
エレナは会釈を返した。ガスパールはシアンへ向き直る。
「それで、契約はいつになりますか」
「担当が決まりましたら、日取りもお伝えします。今日のお話を踏まえて、返事をすることになりますので」
「……そうでしたね。よろしくお願いいたします」
シアンが面会の終わりを告げると、兵がガスパールに立つよう促した。男は二人へ頭を下げ、戸口でもう一度こちらを振り返る。
エレナはその顔を見送った。戸が閉まっても、すぐには席を立てなかった。
怖くなくなったら引き受けようと、どこかで思っていた。けれど、顔を見た今のほうが、あの紙の一行を結ぶことが怖い。
あの人が仕事の話をしている間も、クラリッサのことは忘れられなかった。命が助かったと喜んで、それで済ませてほしくない。償うと約束するなら、自分がその約束を結びたかった。
「先生」
シアンが、椅子を卓へ戻しかけて手を止める。
「私、引き受けます」
口にすると、ガスパールの手が思い浮かんだ。鎖に繋がれて、自分のほうへ伸ばされた手。
「ちゃんと、償ってほしいんです。クラリッサにあんなことをして、それは……約束してもらわないと、嫌です」
シアンは椅子から手を離し、エレナへ向き直った。
「でも、死んでほしいわけじゃありません」
声が小さくなった。逃げたらどうしよう。結んでしまえば、あとから駆けつけて止めることなどできない。
「それでも、この仕事は、私がやりたいです」
シアンは頷いた。
「分かりました。引き受けると、私から伝えます」
エレナも頷き、立ち上がった。
さっき、逃げないと言った。どうか、本当にそうしてほしかった。




