第0章 16話 ここで夕食を
「クラリッサ」
父の声に、クラリッサは寝台の上で身を起こした。母と話しながら入ってくるのが見え、膝に掛かっていた薄掛けをよけようとすると、父が先にそばへ来た。
「寝ていなさい」
「もう、起きていても平気です」
そう答えたのに、顔を見るとうまく続かない。父の目が、寝間着の袖から出ている手首へ下りる。外してもらった手枷の痕が、赤く残っていた。
「……お帰りなさい」
「ああ」
差し出された父の手を取った。挨拶が済むと書斎へ行ってしまう父を、いつもはそのまま見送っている。けれど今日は離したくなくて、握っていると、父は寝台のそばの椅子へ腰を下ろしてくれた。
母が反対側へ座り、よけかけた薄掛けを膝へ戻す。クラリッサはようやく父の手を離した。
「リナから聞きました。捜してくださっていたと」
「皆で捜していた。殿下も来られた」
「殿下まで?」
「お前の具合を気にしておられた。会えるようになったら知らせよう」
返事をしかけて、自分の髪へ触れた。帰ってからリナに梳いてもらったはずなのに、どんなふうになっているか思い出せない。こんな顔でお会いするのは嫌だった。けれど、来てほしくないわけでもない。
「……明日、考えます」
「そうしなさい」
父は急がせなかった。
クラリッサは戸口のリナへ目をやった。着替えを手伝ってもらうあいだに、衛兵がいたことは話してある。リナも、逃げた御者に見覚えがあると言っていた。
「あの人は、本当の衛兵なのですか」
「リナからの知らせは受けた。いま、確かめさせている。お前が見たのは、記章か」
「はい。胸についていました。顔は、兜で見えませんでしたけれど」
父に会えたら、誰だったのか分かると思っていた。まだ分からないのかと思うと、落ち着かなかった。
「助けに来たのだと思いました。でも、私を連れてきた人たちに命令していました」
クラリッサは請求書を置いた卓へ目を向けた。あの男が父へ伝えろと言った要求は、もう届いているのだろうか。
「お金は、お払いになったのですか」
「お前にも金の話をしたのか?」
「はい。商会にお金が入れば帰すと」
「払ってはいない。先にリナが連れ戻してくれた」
自分はお金が届くのを待つつもりでいたのに、知らないところで父もリナも殿下までもが捜してくれていた。
母の顔を見ると、聞いているから続けて、というように頷いてくれた。
「その人に、紙を見せられました。荷を運んだ代金を、何度も請求していると。お父様が許可を出さないから払われないのだと、言っていました」
「その紙は」
「リナ、あの紙を」
リナが寝台脇の卓から請求書を取り、父へ差し出す。
「持って帰って、お父様に見せるように言われました」
父は紙を広げ、書き足された支払いの催促まで目を通した。
「許可を出さないというのは、本当なのですか」
「ああ。荷を届けた費用について、商会の説明とノルドからの知らせが食い違っている。誰がいくら負担したのか、帳面を求めた」
「運んだ人にも、払われないままで?」
「商会から払われていない者はいる。だが、その者がお前を攫ったのかは、まだ分からん」
クラリッサは父の手元の紙を見た。請求書にあるのは業者の名で、男たちは誰も、自分の名を言わなかった。
「……あの人たちが、そう言っただけです」
「ああ。誰がそう言ったかも含めて、確かめる」
「では、あの人に言われたことを、ほかにもお話しします」
父は頷いたが、クラリッサはその顔を見たまま、すぐには話を続けなかった。これを話し終えたら、また書斎へ行ってしまうのだろうか。
「お父様。今日は、ここで夕食を召し上がりませんか」
「ああ。そうしよう」
父はリナへ、自分の食事もここに運ぶよう頼んだ。
「私の分もお願いね」
母が言い添えると、リナは頷いて扉へ向かった。父は椅子に座ったまま、クラリッサの枕を背中へ入れ直してくれる。起きていたいと言ったのを、覚えていてくれた。
「このくらいか」
「はい。ちょうどいいです」
食事が届くまで、クラリッサは男たちに言われたことを話した。思い出す順に口にすると、地下での話から馬車の中へ戻ってしまう。父はそのつど、どちらの男が言ったのかを尋ね、請求書とは別の紙に書き留めていた。
「髭のある人です。私の水筒を取ったのも、その人でした」
「顔に水をかけた相手だな」
「はい。それで手が離れて、ユーグを呼べたのです。手を出してくれたのですけれど、届かなくて」
「ああ」
「ユーグは、怪我をしていませんか」
父が母を見た。母も首を振る。二人にも分からないことがある。リナに訊こうと思ったところへ、ちょうど扉が開いた。
リナが先に入り、後ろから侍女が食器を載せた台を押してくる。母は椅子を寄せて通りを空け、父は書いていた紙に請求書を重ねた。
「リナ。ユーグは無事だった?」
「はい。お話ししてまいりましたよ」
「怪我は」
「転んで膝を擦りむかれたそうですが、治していただいていました。ご自分も捜したいとおっしゃっていました」
引き戻されたあとも、追ってくれていた。馬車の中が見えなくなって、どれほど心配させただろう。
「私が帰ったことは、知っているかしら」
「学園には知らせを出してあるわ」
母が答えた。それならエレナも、もう聞いているだろうか。川で別れてから会っていない。戻るつもりで置いてきた桶のことまで思い出した。
「……競技は、どうなったのですか」
「わたくしが着いたときには、皆さんを学園へ戻しているところでした」
リナの返事に、クラリッサは顔を上げた。エレナの隣で芝居を観たかった。終わってから二人で話すのも、楽しみにしていたのに。
「イザベルさんの組も?」
「お姿は見かけませんでしたけれど、先生は、ほかの組も順に戻すとおっしゃっていました」
先に出ていった彼女たちは、どこまで進んでいたのだろう。追いつくつもりだったのに、今日はそれきりになってしまった。どちらの道を通ったのか、今度会ったら訊いてみたい。
「お母様。皆に、帰ったことを私からも知らせたいです」
「食べてからにしなさい。書くものは、用意しておくから」
母に言われて、クラリッサは匙を受け取った。寝台に渡された小さな台には、湯気の立つスープが置かれている。両親の皿は脇の卓に並んだのに、父はまだ自分を見ていた。
「お父様も、召し上がってください」
「ああ」
父がようやく匙を取る。スープを口に運ぶところを見てから、クラリッサもひと口飲んだ。熱すぎないようにしてくれてあった。
「お母様。ユーグには、ありがとうと書きたいです」
「ええ。今夜のうちに届けましょう」
クラリッサは頷いた。書きたいことが決まると、もうペンが欲しくなったが、母はパンをちぎって自分の皿へ置いている。父もまだ食べていた。急いで済ませるのは惜しくて、クラリッサはもう一匙、スープをすくった。




