第0章 14話 はい。帰りましょう
酒蔵の脇から荷馬車を出したところで、あの侍女が見えた。
衛兵は思わず手綱を引きかけた。娘に付き添い、護衛も務める女だ。その女が同行できない競技の日を選び、娘のそばにいないことまで確かめて攫わせたのに、どうしてここにいる。
市場の捜索隊へ引き合わせてから、何があった。傭兵二人は帰したばかりだった。もう捕まって喋ったのか。いや、それにしても早すぎる。
女の後ろにいるのは、連れていた護衛の一人と、知らない男だけで、道の先にも兵はいない。ようやく息を吐けた。今、引き返せば、さすがに怪しまれる。
呼び止められて荷馬車を止め、空樽の運搬を頼まれた御者を装った。女が尋ねたのは元の荷馬車のことで、連れの護衛もそちらを調べに行く。自分だと気づかれたわけではないらしい。
もう少しだ。女も行ってくれれば、通りへ出られる。
ところが、女は残ってこちらの顔を見直している。そのうえ、荷台で音がした。
荷ずれだと言い繕って御者台を降りたが、音は三度ずつ、繰り返し響いた。帰してやると言っただろう。じっとしていればいいものを。
幌を開けようとする女の手首を掴んだ。女が娘を呼ぶと、樽の中で音がした。女は連れへ声を張った。
「この樽です!こちらへ来てください!」
もう、御者のふりは通らない。
すぐさま掴んだ腕を捻った。王都の兵として、刃物を抜こうとする男を何人も取り押さえてきた。この間合いなら、相手に剣を抜かせずに済む。女を前へ立たせて首に刃を当てれば、連れも退くだろう。
上着の下の短剣へ手を伸ばした。ところが、引き寄せた女が、その勢いのまま懐へ踏み込んでくる。短剣を半ば抜いたところで手を押さえられ、背中が荷台の縁へぶつかった。
「モーリスさん、馬を!」
呼びかける声が落ち着いているのが、腹立たしかった。
女の手首を放し、その顔へ肘を振ったが、頭を引かれて空を切った。肘を戻してようやく抜けた短剣を突き出すと、腕を外へ払われ、今度は上着を掴まれた。
力任せに振りほどこうとしたが、逃げ腰になったと思われるのも癪だった。足を踏み直し、もう一度刃を向けようとしたところで、その足を払われた。膝が石に当たり、歯を食いしばる。
短剣を抜いたこちらが、素手の相手に膝をつかされている。
女は掴んでいた上着を放し、こちらを向いたまま下がり、荷台を背にした。追って立とうとしたのに、膝が痛み、すぐには足に力が入らない。起き上がったときには、娘との間に女が立っていた。
「そこまでだ」
戻ってきた護衛が剣を抜くと、女も衣服の下から短剣を抜いた。馬はもう一人の男に押さえられていた。
荷台へ目を走らせた。娘さえ押さえれば、まだ退かせられる。だが、樽に辿り着くには、またこの女を越えなければならなかった。
「剣を捨てろ」
近づいてくる護衛へ短剣を向けたが、手が震えていた。
捕まる。
女は荷台のそばを離れない。逃げるなら、今しかない。
背を向けた途端、追いつかれそうで足が速まった。酒蔵の角を曲がるときに足がもつれ、壁へ肩をぶつけた。後ろから靴音が続き、女の声で止まっても、振り返る気にはなれなかった。
娘は取り返された。ガスパールがそれを知れば、国外へ逃がす約束まで反故にするかもしれない。娘を返すまでは渡さないと言っていた、受け入れ先の名前。あれがまだ手元にない。
倉庫へ行けば、あの男と会えるはずだ。通りを横切り、川のほうへ走った。
*
リナは追いかけようとした護衛を呼び止めていた。
「待って。まだ仲間がいるかもしれません。お嬢様のそばに」
荷台によじ登り、樽の蓋を押さえていた縄を短剣で切った。刃を鞘に戻して蓋を外すと、クラリッサが顔を上げた。
頬が涙で濡れ、口に噛まされた布には血がついている。こちらを見上げたまま、何か言おうとしていた。
「今、外しますから」
リナは身を屈め、後頭部の結び目を解いて口から布を外した。
「……リナ」
「はい」
クラリッサはもう一度、リナと呼んだ。返事をしようとして、今度はリナの声が詰まる。
早く、こんなところから出してあげたかった。
脇へ腕を差し入れたが、樽の縁が邪魔になり、一人ではうまく抱き上げられない。護衛が剣を収め、荷台へ上がってきた。
「お背中をお願いします。手が後ろに」
二人で持ち上げ、縛られた足が縁を越えたところで、リナはクラリッサを抱き受けた。その重みを膝に載せて荷台へ座り込むと、細い肩が震えている。
「遅くなりました」
クラリッサは首を振った。リナの肩へ額を押しつけ、何度も振った。
護衛が足の縄を切ってくれた。そのまま荷台から降り、路地の出口へ目を配っている。馬を押さえたモーリスが、こちらを振り返った。
「お屋敷へ向けますか」
「ええ、お願いします」
クラリッサが顔を上げた。
「……帰れるの?」
「はい。帰りましょう」
背中へ回した腕に、リナは力を込めた。




