大渓谷
冒頭はエナ視点からとなります。
このベッドは確かに快適だった。
だが、セカンでの生活に慣れていたからか、それとも慣れないベッドだったからか、上手く寝付けなかった。何度目かの寝返りを打ち、諦めて身体を起こす。
隣を見るとミナトは大の字で寝ていた。本当に警戒心というものがないらしい。サリーも寝ている。王女のくせに、寝顔だけは妙に無防備だった。キールは椅子へ座ったまま目を閉じている。仮眠だろう。
そして、タケルがいなかった。
エナは小さく眉をひそめる。少しだけ気になり、小屋の外へ出た。
夜風が冷たい。焚き火の火が静かに揺れていた。その向こう側に人影が見える。タケルだった。何かを作っている。
「何してんだ?」
声を掛けても、タケルは振り返らない。
「旅の準備だ」
「まだやるのかよ」
十分だろ。風呂がある。ベッドがある。ドライヤーまである。エナからすれば意味が分からない。だがタケルは首を横へ振った。
「まだ足りない」
そう言いながら手を動かし続ける。しばらくして、何かが完成したらしい。
「腕出せ」
「は?」
意味が分からないまま腕を差し出す。タケルは何かを腕へ巻き付けた。
カチッ。
小さな音が鳴る。
「なんだこれ」
腕を見る。丸い板みたいな物だった。針が動いている。
「腕時計だ」
「うでどけい?」
「時間を見る」タケルは腕時計を指差した。「これで日が沈むまであとどれくらいか分かる」
「ふーん」
「日が昇るまであとどれくらいかもな」
エナは腕時計を見る。それからタケルを見た。
「便利なのか?」
「便利だぞ」
即答だった。正直よく分からない。だが外すほど邪魔でもなかった。そのままにしておく。
「次」
今度は小さな木箱を渡された。
「これは?」
「救急箱」
「なんだそれ」
「怪我した時に使う」
それは分かった。旅をしていれば怪我くらいする。
「持っとけ」
「おう」
今度は素直に受け取る。
さらにタケルは、小さな革製のポーチを差し出した。
「これもだ」
「まだあるのか」
「斥候なんだから持っとけ」
エナは少しだけ固まる。
斥候。
そう言われたのは初めてだった。今までは孤児だった。街を走り回っていただけだ。だが今は違う。少しだけ胸が温かくなる。
だから何も言わない。黙って肩へ掛けた。
「似合うな」
「うるせぇ」
反射的に返す。タケルは気にした様子もなく、また作業へ戻った。
そこから先は意味が分からなかった。大きな箱。また大きな箱。見たこともない物が次々と現れる。
「まだやるのかよ」
「まだ足りない」
同じ答えだった。エナは呆れたように笑う。
「変なやつ」
返事はなかった。焚き火の向こうで、タケルは黙々と作業を続けている。
しばらく眺めていたが、眠気が戻ってきた。今度は眠れそうな気がする。エナは小屋へ戻り、自分のベッドへ潜り込んだ。
◇◇◇
朝だった。
目を開く。知らない箱が増えていた。
「なんだこれ?」
思わず声が出る。小屋の外には、昨日まで無かった大きな箱が二つ置かれていた。
「なにこれ!?」
サリーも驚いている。キールも目を丸くした。
「また増えてますね……」
健は当然のような顔で頷く。
「冷蔵庫と電子レンジだ」
そう言われて、思わず「あー」と声が出た。久しぶりに聞いた響きだった。冷蔵庫に電子レンジ。完全に元の世界の家電だ。サリー達はもちろん分かっていない。
「れいぞうこ?」
「でんしれんじ……?」
「食べ物を保存したり温めたり出来る」健が補足する。
「便利そう!」
サリーが即答した。
俺はその様子を見ながら少し笑う。こっちの世界に来てまで電子レンジを見ることになるとは思わなかった。健も健で、よく材料だけで作れるなと思う。
その後も健は荷物を取り出していく。
「サリー」
「なに?」
「これ持っとけ」
渡されたのは魔法鞄だった。
「えっ!?」サリーが固まる。「いいの!?」
「作った」
作ったからって、そんな簡単に渡していい物なのか。まあ、今更か。
キールにも渡される。
「必要な物は入れてある」
「ありがとうございます……」
キールはもう、驚くことを諦めたらしい。
ふとエナを見る。肩には小さなポーチ。そして腕には、見慣れない物が付いていた。
「エナも何か貰ったのか?」
「知らねぇ。勝手に渡された」
ぶっきらぼうに答える。
腕を見る。
「それ何だ?」
「腕時計だ」
健が答えた。なるほど。
少し待つ。
「俺には?」
健がこちらを見る。
「お前時間なんか気にしたことないだろ」
「……」
言い返せなかった。
ふとエナを見る。エナは腕時計へ視線を落としていた。昨日までなら邪魔だと言って外していそうなのに、今はそんな様子がない。時々指で触っている。どこか嬉しそうにも見えた。
準備を終え、俺達は再び馬車へ乗り込んだ。目指す先は大渓谷の向こう側。
馬車が進むにつれ、景色は少しずつ変わっていく。やがて道の片側が途切れた。
いや。途切れたように見えた。
「これが大渓谷です」
キールの言葉に、思わず息を呑む。
世界が割れていた。
そう見えた。遥か先まで続く巨大な裂け目。谷底なんて見えない。深すぎる。広すぎる。
「すげぇ……」
思わず声が漏れる。
「王都と西部を結ぶ重要な交易路です」キールが説明を続ける。
「下はどうなってるんだ?」
「川があります」
「川?」
「激流です」キールは谷底を見下ろした。「一度落ちればまず助からないでしょう」
思わず下を見る。やはり見えない。深すぎる。
「もし生きてたら?」
「仮に流れ着いたとしても、その先は魔族領です」
俺は固まった。そうだった。魔族領がある。
「どちらにせよ生きてはいられないでしょう」
少し空気が重くなる。
その時だった。
「空」
エナが呟く。全員が見上げた。
何かが飛んでいる。鳥じゃない。大きい。翼がある。
「ドラゴンだ!」
思わず声が出る。キールが首を横へ振った。
「ワイバーンです」
だがキールの表情は硬かった。
「本来ならもっと奥の山岳地帯に生息している魔物です」
その時。また一匹。さらに一匹。空の向こうを飛んでいく。
エナが眉をひそめる。
「多いな」
俺もそう思った。明らかに多い。
キールの表情がさらに険しくなる。
「異常です」
「異常?」
「大型の魔物から逃げている可能性があります」
嫌な予感がした。
「例えば?」
「火龍クラスでしょうか」
「火龍!?」
思わず声が裏返る。キールは真顔だった。
「遭遇すれば終わりです」
遠くの空では、まだワイバーン達が飛んでいる。まるで何かから逃げるように。
嫌な予感だけが、胸に残った。




