第43話:最も安上がりな長い夜
第43話『最も安上がりな長い夜』
東京国際空港——羽田の片隅にある空対課のプレハブ庁舎。
窓の外には、滑走路を彩る誘導灯が宝石のように煌めいている。
いつもなら喧騒に包まれるオフィスだが、今夜は奇妙なほどの静寂に包まれていた。
【第一シフト:19:00 - 23:00】
「……はい、はい。承知しております。警視庁と外務省の警護プランを最優先に。我々はあくまで『空からの不測の事態』にのみ備える遊撃部隊として待機しますので……はい、失礼いたします」
電話を切った外務係長が、デスクに突っ伏して深いため息を吐いた。そのまま慣れた手つきで胃薬の瓶を開け、水なしで錠剤を飲み込む。
「外務係長、胃薬の飲み過ぎは良くありませんよ。白湯を淹れましたから、飲んでください」
羽代課長が、湯気の立つマグカップをそっとデスクに置いた。
「すみません、課長……。某国の要人が極秘で来日するとはいえ、まさか空対課にまで深夜の待機命令が出るとは」
「事前の情報では、ゴースト・パピヨンや過激派の具体的なテロ予告は確認されていません。ですが、万が一ドローンによるスウォーム攻撃があった場合、迎撃できるのは我々のMk-IIだけですからね」
「分かっていますが……もし出動なんてことになったら、国際問題ですよ。考えるだけで胃に穴が開きそうです……」
青ざめる外務係長に対し、羽代課長は静かに微笑んでお茶を啜る。
「何も起きないのが一番の仕事です。静かな夜を楽しみましょう、係長」
【第二シフト:23:00 - 03:00】
「外務係長、お疲れ様です。あとは俺たちが見ときますよ」
「刑部さん、くれぐれも勝手にMk-IIを起動しないでくださいよ! 絶対ですからね!」
23時。仮眠室に向かう外務係長と羽代課長を見送り、刑部風人はパイプ椅子にどかと腰を下ろした。
「しっかし、巡回しない夜勤ってのも変な感じだな。体がウズウズするぜ」
刑部が首の骨を鳴らすと、向かいのデスクに座る雲井瑞希が、タブレットから目を離さずに言った。
「刑務官の夜勤は巡回が基本なのね。気象庁の夜勤はデスクワークだから、私は違和感ないわ。座って待機出来るのは平和な証拠よ」
「そりゃ分かってるさ。……瑞希、外の風はどうだ?」
「東京湾からの南風、風速3メートル。極めて穏やかよ。上空の気流も安定しているわ。要人の乗った特別機も、少しの揺れもなく滑走路に降りてこられるはず」
瑞希が淹れたブラックコーヒーの香りが、薄暗い庁舎内に漂う。
「お前がそう言うなら、今夜の空は安全だな」
「ええ。ドローンを飛ばすには絶好の夜だけど、怪しい電波の飛び交う兆候はゼロ。今日はただの『待機』で終わりそうね」
「ま、こういうのも悪くねえか。コーヒー、俺も一杯飲んでいいか?」
「自分で淹れてね」
刑部が苦笑しながら立ち上がり、深夜の静寂の中、二人はモニターの光に照らされながら夜の空を見守り続けた。
【第三シフト:03:00 - 07:00】
「ふぁぁ……。よお、刑部、瑞希。異常はなかったか?」
午前3時。大きな欠伸をしながら、金剛鉄平が庁舎に入ってきた。その後ろからは、バインダーを抱えた財前鏡子が足音もなく続く。
「おう、金剛さん。こっちは何もなしだ。レーダーも綺麗なもんだぜ」
「要人は先ほど、無事に都内のホテルへ到着したわ。あとは朝まで警戒態勢を維持するだけよ」
「そうか。お疲れさん。財前、あとは頼むぜ」
刑部と瑞希はデスクを片付け、夜明け前の冷たい空気の中へ帰っていった。
庁舎に残されたのは、大柄な金剛と、冷徹な表情の財前。
「さてと……。おい財前、今日の深夜割増手当はきっちり計算してるだろうな。労働基準法第37条、午後10時から午前5時までは25%増しだ。待機とはいえ拘束時間には変わりねえからな」
「ご心配なく、金剛さん。法に則って一円の狂いもなく計算しています」
財前は手元の電卓をパチパチと叩きながら、冷ややかに告げた。
「ただし、あなたが今から食べようとしているそのカップラーメン代と、仮眠用の毛布のクリーニング代は経費で落としませんから。自腹でお願いします」
「けちくせえなぁ! 夜勤の夜食くらい福利厚生で落としてくれよ!」
「我が空対課にそのような甘い予算はありません。……それにしても」
財前は電卓を置き、窓の外を見た。
東の空が、うっすらと白み始めている。
「弾薬の消費ゼロ。Mk-IIの稼働による電力・燃料の消費ゼロ。装甲の修理費ゼロ。そして、弁償するインフラの被害ゼロ」
「……お前、もしかして」
「ええ。深夜手当を差し引いても、今までで一番『安上がり』な勤務でした。毎日こういう夜なら、私の胃も痛まないんですけどね」
「外務係長みたいなこと言ってんなよ……」
金剛がズルズルとカップラーメンをすする音だけが、明け方のオフィスに響く。
こうして、空対課のメンバーが一歩も外に出ることのなかった、極めて平和で、極めて安上がりな長い夜が明けていった。




