第91話 音信不通って、つくれちゃう?
鍵を開けた葵が玄関ドアをゆっくりと開くと、白のカットワークダメージTシャツに黒のデニムショートパンツ、白のスニーカーという私服姿に顔には黒いマスクをつけた乃亜が外廊下にじっとたたずんでいた。
「――綾音さん。こんな朝早くからどうされたんですか?」
まずは乃亜が無事だったことに安堵する葵だったが、ここで違和感を覚える。いつも底抜けに明るいはずの乃亜はなぜか表情が優れず、眉をハの字にひそめて気分が沈んだように黙り込んでいたのだ。
「その……玄関で立ち話もあれなので、どうぞ上がって下さい」
「――ん。ありがと……」
覇気のない綾音を葵はリビングに案内してソファーに座らせる。
いつもの元気がなく、肩を落として黙ったままでは話が進まないため、葵は思い切って尋ねてみた。
「綾音さん。昨日、ナイトプールに行かれたようですが……俺にメッセージを送った後、もしかして何かありましたか?」
昨夜からずっと気掛かりだった件を葵がストレートに訊くと、乃亜は静かにうなずいた。
「――昨日さ、赤ちゃんにナンパされたって送ったじゃん?」
やはり例のメッセージの後、何かあったのだと確信して葵は乃亜の言葉を待つ。
「あの後さ、あたし……あたし――」
思わず声が詰まった乃亜の姿を見て、葵の胸の奥が激しくざわついた。
(ま、まさか綾音さん……ナンパ男と何かあって――)
「――スマホ、プールに落としちゃったの……」
「……えっ?」
予想と違った返答を聞き、葵の頭は一瞬フリーズする。
「海とかプール行く時って防水のスマホケースに入れてるんだけどさ、なんか操作性悪くて反応しなかったわけ。だからケースから出して赤ちゃんにメッセ送ってたら、手が滑ってプールにポシャンって……で、すぐに拾い上げたんだけど〝液体を検知しました〟って出たから電源切って今は自然乾燥中」
経緯を話していると昨夜のことを思い出したのか、乃亜のテンションがどんどん下がり、暗い表情のまま深いため息をつく。
「超最悪~っ! スマホ使えないとか、マジ病みなんですけど!?」
「……ずっと連絡が取れなかったのは、そういうことだったんですね。いくらメッセージを送っても既読にならず、電話しても繋がらなかったのでとても心配していました」
考えていた最悪の想像とは違っており、ようやく真相が分かった葵はホッと胸を撫で下ろす。
「え、待って。赤ちゃん……あたしのこと、めっちゃ心配してたの?」
「も、もちろんです! メッセージの後、何度も返信して電話も掛けましたが反応なくて……。最後のメッセージが『ナンパされた』だったので、何かトラブルがあったのかと思ってとても心配しました」
「あーね。まあ、それもあって今日は赤ちゃんちに来たの。あたしのスマホ使えないし、他の誰も赤ちゃんの連絡先知らないからさ、スマホのこと伝えようがなくて来たわけ」
「そうなんです。俺も不知火さん達や妹さんの連絡先を知らなくて、音信不通になった綾音さんのことも聞くに聞けず、昨日は心配で作業も全く手につかずに夜も眠れませんでした」
「えっ? 赤ちゃん……目の下のクマ酷いと思ったら、そーいうことだったの!?」
「お見苦しいところを見せてしまい、すみません……」
「いや、てかあたしの方がマスクの下ノーメイクでヤバいし!」
大好きな造形の作業も手につかず、ベッドに入っても眠れない――。その事実を知った時、葵がどれほど自分のことを案じていたのか乃亜は知った。
胸の奥にじわりと広がったのは、温かさと同時になぜか拭いきれない戸惑いだった。それは誰にでも向ける優しさなのか、それとも自分を異性として――特別な存在として見ているがゆえの想いなのか――。
一瞬だけ考えたものの、曖昧な感情に踏み込むよりも先に伝えるべき言葉があると乃亜は思考を切り替え、ふと湧いた感情を胸の内にしまい込む。
「――赤ちゃん、心配かけてマジごめん」
「何もなかったのなら、それに越したことはありません」
葵は事情を知った段階で胸のつかえは取れており、心配をかけてしまったことを謝罪する乃亜にも悪気はないのだ。
(それに綾音さんは俺と連絡が取れないから、状況を伝えるためにわざわざ家まで出向いてくれた)
双方ともに事情が判明し、不安や心配事が消えた葵の顔が和らぐと乃亜にも笑顔が戻った。
ここで葵は昨夜からずっと気になっていたことを尋ねてみる。
「ところで綾音さん……ナンパの方は大丈夫だったんですか?」
「ああ~、ナンパね。全然平気。てか、ナンパしてきたの女性だし」
「……えっ?」
乃亜の言葉が一瞬理解できず、葵は真顔になる。
「じょ、女性……ですか。男の人じゃなかったんですね」
「てか、昨日はレディースナイトだったの。女性限定の日で男はいないしね。ナンパとかウザイからさ、レディースナイトの日を狙って行ったわけ」
「そ、そうだったんですね……」
ナンパされたと聞いた葵はてっきり男性だと思い込んでいたため、ナンパしてきた相手が女性だと知って面食らう。
(ま、まあ……そういう世界だってあるよな、うん……)
「ナンパしてきたのはやけに色気のある大人のお姉さんでさぁ、あたしらが大人っぽかったから成人してると思って声掛けたんだって」
「な、なるほど……」
高身長のモデル体型である乃亜達なら間違われても仕方ないだろうと葵は思った。
「つーか、スマホどうしよう……今さ、電源オフって乾燥中してるけどめんどいし、いっそ新しいの買おっかな~」
スマホがないせいで手持ち無沙汰な乃亜は組んだ脚をつまらなそうにブラブラと揺らしながら、葵の顔をじっと見つめている。
「え、えっと……そんなにクマが酷いですか?」
「クマは目立つけど、そーじゃなくて。赤ちゃんがあたしのこと、めっちゃ心配してくれたのガチうれしくてさ♪」
「それは……心配しないわけがありません。綾音さんは大切な人なので」
葵の口から出たその一言はあまりにも真っ直ぐで、乃亜は思わず息を呑む。
言葉の意味を確かめるように葵の横顔を見つめると、心臓の鼓動が大きく跳ねる。乃亜は動揺を隠しきれず、その表情がかすかに揺らぐ。
すぐに乃亜は動揺を誤魔化すように口元を崩し、ニヤリと不敵な笑みを浮かべる。
先程の言葉の意味を引き出そうと乃亜は距離を詰め、隣に座る葵の顔を覗き込む。
「――ねえ赤ちゃん。あたしが大切な人って、どーいう意味?」
「意味ですか? 大切な友達ということですけど……」
「……あーね。あたしも赤ちゃんのことは大切な友達だと思ってるし」
(さっき……変な間が一瞬あったから何か失言したのかと思ったけど、ただの勘違いか……。でも綾音さんも大切な友達だと思ってくれているのは素直にうれしいな)
乃亜と良い友人関係が築けていることに葵は安堵したのか、寝不足なせいもあって思わずあくびが出てしまう。
「赤ちゃん寝てないって言ってたし、眠いんじゃない?」
「すみません……連絡が取れなかった真相も分かり、安心したら気が抜けて眠気が襲ってきました……」
「てか、あたしもマスクの下ノーメイクだし、長居するのも悪いから今日は帰るね」
「お構いもできずに申し訳ないです」
「そ・れ・と・も~、あたしの膝枕で寝ちゃう?」
組んでいた足を解いた乃亜が両太ももを揃えると、両手でポンポンと叩く。
「い、いいえ! お気持ちだけで結構です! ベッドで寝ますので!」
乃亜に誘われた葵は思わずソファーから立ち上がり、全力で断りを入れる。
「あはは! 冗談だから! からかってマジごめん! あたしのせいで心配掛けたんだし、今日はゆっくり休んで!」
「そ、そうします……」
「とりま、スマホ復活したら連絡するね!」
「分かりました。綾音さんも気を付けて帰って下さい」
玄関で乃亜を見送った葵はどっと疲れた体を引きずり、ベッドがある自室に向かう。
(――今回みたいなこともあるし、今後は綾音さんを頼らずにもっと自分から連絡先とか積極的に聞いた方が良さそうだ……。そうしないと、この先まともに友達ができないかも知れない)
コミュ力の高い乃亜にばかり甘えてはいられないと、葵は自分の引っ込みがちな性格を変えようと心に誓った。




