第76話 由比ヶ浜って、つくれちゃう?
夏休みが始まり数日が経過した平日の朝。通勤ラッシュが落ち着いた時間帯に葵は電車に揺られていた。
白のルーズフィットTシャツに黒のプリーツイージーパンツ、サンダルを履いた私服姿の葵はベージュのトートバッグを持ち、最寄りの新百合ヶ丘駅から電車に乗って目的地である由比ヶ浜駅を目指す。
普段の休日さえも部屋から出ない葵がなぜ外出しているかと言うと、今日が夏休み前に乃亜達と約束していた海水浴の日だからだ。
世間は平日であるため、通勤ラッシュが過ぎた電車内は比較的空いていた。葵は出発駅からずっと座っているもののくつろぐ余裕などはなく、手に持ったスマホを緊張した面持ちで眺めていた。
(――今日は、綾音さん達と海水浴……そもそも友達と海に行くことが初めてだから、緊張で胸が苦しい……)
友達と言っても男友達ではなく、同じクラスの女子――しかも相手は陽キャなギャル三人組である。
これまで友達がいなかった葵にとって、男友達と遊びに行くだけでもハードルは高いのだが、女友達――しかも相手はギャルであるため、未知の領域すぎてどう振る舞えば良いのか分からなかった。
(悩んでも仕方ないか……もう、なるようにしかならないし……)
あとは流れに身を任せようと葵は諦めた気持ちになり、車窓の外を流れていく街の景色をぼんやり眺める。
(――……家から出た時も思ったけど、外ってこんなに明るかったんだ……)
夏休みに入ってからというもの、乃亜も友人達と遊んだりバイトなどで忙しく、葵の作業部屋を一度も訪れていなかった。
葵も終業式の日に届いた3Dプリンターを使ったフィギュア製作に没頭してしまい、ここ数日は食材の買い出し以外では家から一歩も出ず、作業部屋に籠もって過ごす生活を送っていた。
まだ午前中ではあるが、すでに太陽の日差しは肌を刺すように強く、まぶしく照らされている街が白飛びしているように見える。
久しぶりに外に出た葵は、太陽のまぶしさに目がくらんでしまったことを思い返し、日差しを遮るものがない夏の砂浜でインドア派の自分が耐えられるのか心配になった。
(暑さに日差し、それから綾音さん達との交流……どうなるのか想像つかない……)
海という普段行かない場所へ遊びに行くという期待感も多少はあるものの、葵にとっては不安要素の方が勝っており、目的地が近付くにつれて緊張で心が落ち着かなくなってしまった。
小田急線から江ノ島電鉄線に乗り換え、葵は目的地である由比ヶ浜駅で電車を降りると改札を出る。
(――現地集合の予定だけど、綾音さん達は……まだみたいだ)
平日ではあるが、由比ヶ浜駅は多くの海水浴客や観光客らで混雑していた。
(鎌倉駅方面に歩いて行く人は、鎌倉観光かな……)
一般観光客や団体の観光客は海ではなく街の方へ散り散りになっていき、高校生や大学生らしき若者、家族連れなどは続々と海方面に向かっていく。
(夏休みのせいか同年代の人達がたくさんいるけど、目的は海水浴だよな……家族連れも結構来ているし)
駅に電車が到着するとそのまま海へ向かう人達や、葵と同じ様に駅で待ち合わせしている人達も数多くいる。
午前十時を過ぎると空からの日差しは更に強くなり、気温も上昇していく。
葵が到着して十分ほどが経過し、次の電車が到着するとひと目でギャルと分かる三人組が駅から姿を現し、葵の姿に気付くと大きく手を振りながら歩いて来た。
「――赤ちゃーん! ごめん待った?」
「今来たところですよ」
真っ先に葵の元へ駆けて来たのは、ロングヘアを艷やかなミルクティーベージュの髪色に染めている乃亜だ。
乃亜の私服は、黒のカットワークダメージTシャツに生足が映える白のデニムショートパンツ、ベージュのチャンキーヒールランダムストラップサンダルというコーデであり、クリーム色のメッシュトートバッグを肩に掛けている。
「バブたーん! おひさ~!」
「お久しぶりです」
乃亜の後ろからひょっこりと顔を出したのは、ロングヘアを金髪に染めている莉里奈だ。
莉里奈は白のシャーリングロングカフスブラウスに黒のベルト付きフリルショートパンツ、白のボリュームタンクスクエアヒールを履き、黒のメッシュトートバッグを持って頭にサングラスを掛けている。
「赤ちん、先に着いてたのか」
莉里奈の隣にいるのは、セミロングヘアを銀髪に染めた星羅だ。
星羅は黒のベアロンパースとバックレースアップパンツ、ベージュの太ベルトコンビソールシューズを履き、頭には黒のメッシュキャップを被っている。
「平日なのに、けっこー人いんじゃん!」
「学生多めだし、夏休みだからじゃね?」
混雑気味の駅前を眺める乃亜達は、普段と変わらず顔のメイクや指先のネイルをバッチリと決めており、服もおしゃれで葵がギャル達に混ざるのは場違いな気がしてならない。
「それじゃ、レッツゴー!」
一行は海へ向かう人の流れに乗り、駅から移動を始める。談笑しながら住宅街の中を通って進んでいくと、遠くの方に海が見えてきた。
住宅街を抜け、由比ヶ浜の前を走る国道134号線に出ると遮るものがなくなり、目の前が大きく開けると視界の中に青い空と海が広がった。
駅から五分ほど歩いて葵達がやって来たのは、神奈川県鎌倉市にある由比ガ浜海水浴場だ。毎年多くの海水浴客が訪れる人気の海水浴場であり、砂浜は東西に長く、十軒以上の海の家が営業するなど施設も充実している
葵達は国道134号線を渡ると、道路脇の入り口から由比ヶ浜に足を踏み入れる。
「――ここが由比ヶ浜……俺、初めて来ました」
「そーなの? あたしらは中学の時以来だっけ?」
「だね~。最近は江の島の方ばっか行ってたし」
「去年の夏は片瀬東浜だったな」
「皆さん、色んな海水浴場に行かれているんですね」
「とーぜんじゃん! 神奈川の海水浴場は全部制覇するつもり!」
意気込む乃亜の行動力には、葵もただただ感心するばかりだ。
海自体は乃亜と横浜へ遊びに行った時に葵も見たが、海水浴場を訪れるのは久しぶりであり、砂浜に足を踏み入れると細かい砂の感触をサンダル越しに感じた。
フィギュア製作で部屋に籠もっている時とは違い、夏の真っ青な空が映える砂浜や海から吹く潮風など、普段と違った風景に葵は新鮮さを覚え、どこまでも広がる水平線と開放的な青空に心が動いて感性が刺激される。
(人が多いけど、やっぱり海は良いな……眺めているだけで何だか心が落ち着く)
由比ヶ浜の入り口から、波打ち際までの距離は百メートルほどあってとても広く、砂浜には多くの海の家が軒を連ね、すでに色とりどりのビーチパラソルが並んでいる。
「ねえ~、早く着替えよう!」
「赤ちゃん。海の家に脱衣所とかあるから。ロッカーやシャワーなんかもあるし」
「そうなんですね」
葵が海水浴場へ来たのは、小さい頃に両親に連れられて訪れた時以来だったので乃亜達から色々と教わる。
ロッカーやシャワー、脱衣所など設備の利用は数十軒あるどこの海の家も一律らしく、一日いくらと値段は決まっていた。
脱衣所で着替え終わった葵は海の家の外で乃亜達を待つ。葵の水着は紺色のサーフパンツであり、サンダルは家から履いてきたものだ。
(あ、暑い……夏だから暑いのは当たり前だけど、砂浜だと余計暑く感じるなぁ……)
遮るものがなく、空から降り注ぐまぶしい日差しと熱せられた砂浜からの熱気も加わり、全身を包み込むその蒸し暑さは、まるでフライパンの上に立っているようだった。




