第37話 平常心って、つくれちゃう?
眉間に皺を寄せ、悩みながら数学の問題集に取り組む乃亜から視線を外し、葵も数学のノートを見返し始めるが、なぜか乃亜のことが気になって勉強に集中できない。
(作業部屋では近い距離にいても平気だけど、今は感覚が全然違う……)
ガレージキット製作をサポートしている時と同じ状況のはずだが、なぜか葵は正面に座る乃亜のことを妙に意識してしまう。
部屋の中はしんと静まり返り、問題集を解く乃亜のシャーペンの音や小さな息遣いだけが聞こえている。
二人は友人ではあるが葵にとって乃亜は異性でもあるため、男子高校生である葵が乃亜のことが気にならないというのは嘘になる。
様子を見るふりをして、葵は乃亜の顔をチラリと見る。
照明の下でも艶やかな質感が伝わる明るい髪は頬に掛かる毛先まで繊細に輝いており、少し下を向いたその顔は普段の軽やかな表情とは違い、真剣に取り組む眼差しがどこか大人びて見えた。
マツエクをしているとはいえ、元々ボリュームのある長いまつげがピンと上を向き、カラコンを入れていない純粋な瞳が問題文を追う。
すっと通った鼻筋からほんのり色付いた唇へと続く輪郭は息を呑むほど整っており、思わず見惚れてしまった葵はまるで時間が止まったかのような錯覚に陥った。
正面から視線を感じたのか、不意に乃亜が顔を上げようとしたため、葵は反射的に顔を伏せる。
(ま、まずい……綾音さんのこと、がっつり見てしまった……)
誤魔化すように葵はノートを見つめるが、心臓の大きな鼓動が耳の奥でやけに大きく響いている。
(綾音さんが真剣に取り組んでいるのに俺ときたら――……平常心、平常心だ! 二人きりなんて毎週末のことだし、そもそも綾音さんは勉強しに来ているんだ)
わずかに葵を見た乃亜だったが特にリアクションもなく、再び視線が問題集に戻り葵は胸を撫で下ろす。
気持ちを落ち着かせようと、葵は静かに深呼吸を繰り返す。
緊張で渇いた喉を潤そうとウーロン茶の入ったグラスに手を伸ばした葵だったが、テーブルの端にあった消しゴムに肘が当たってしまい、落ちた消しゴムが床で跳ねるとテーブルの下に入ってしまう。
(し、しまった……)
集中している乃亜の邪魔にならないよう、静かに椅子を後ろに引いた葵が身を低く屈め、テーブルの下に転がった消しゴムを拾おうと手を伸ばした時、ふと視界の端にスラリと伸びる色白のものが映った。
葵が思わず顔を上げると、視線の先にあったのは無防備に素肌を晒している乃亜の生脚だった。
テーブルの影にあっても目を奪われるほど白く、透き通るような美肌だとひと目で分かる。短いスカートの裾から、程よく引き締まった健康的な太ももが惜しげもなく覗いており、すぐ目の前という距離も相まって葵の目にしっかりと焼き付いた。
心臓の鼓動が大きく跳ね、見てはいけないと分かっているが、なぜか吸い寄せられた視線を葵は逸らすことができない。
(お、俺は何をやって――!?)
我に返った葵は理性を取り戻し、弾かれたように視線を逸らして身を起こすが、テーブルの下に潜り込んでいたことをすっかり忘れていた。
――ゴンッ! という鈍い音とともに、葵の後頭部に衝撃が走る。
「っ……!?」
反射的に痛みのある場所を手で押さえ、ジンジンと頭に広がる痛みに葵は顔をしかめた。
「び、ビビったぁ……すごい音したけど、大丈夫!?」
テーブルの下から体を起こした葵のことを乃亜が心配そうに覗き込む
「だ、大丈夫です……」
後頭部を打った痛みのせいか、葵の目尻には涙が浮かぶ。
「マジで平気?」
「は、はい……テーブルで頭を打っただけです……」
腫れてしまった後頭部を葵が撫でていると、乃亜がテーブルの下にあった消しゴムに気付いて代わりに拾い上げる。
「ありがとうございます……」
「ヤバっ、めっちゃ痛そう……冷やした方が良くない?」
「大丈夫だと、思います……」
「いや、大丈夫じゃないって! 冷凍庫に保冷剤とかある?」
「ありますけど……」
「持ってくるから!」
乃亜は急いでキッチンに向かうと冷凍庫から保冷剤を探し出し、自分のハンカチで包んで持ってくる。
「赤ちゃん、これで冷やして」
「あ、ありがとうございます……ハンカチを使わせてすみません」
「そんなの全然良いから」
保冷剤を受け取った葵は腫れてしまった後頭部にそっと当てる。
「……何だか、少し痛みが和らいだ気がします」
「でしょ? 我慢しちゃダメ」
普段は体をどこかにぶつけても何もせず、そのまま放置することが多い葵はとっさに行動して世話を焼いてくれた乃亜に感謝する。
(何だか、自分が情けない……頭をぶつけた原因が、綾音さんの脚をガン見してしまったとか、口が裂けても言えない……)
今日は気持ちが浮ついていることを自覚し、葵は平常心を保とうと気分を落ち着ける。
「――てかさ、頭ぶつけたりすると脳細胞が死ぬとか言うじゃん? あれマジなの?」
「それ、本当みたいですね。頭部への打撃は脳にダメージを与えるそうですよ」
「マ? じゃあさ、テスト前にさっきの打撃は赤ちゃんヤバくない?」
「だ、大丈夫だと思います……ちょっとぶつけただけで、知識や記憶ははっきりとしていますので」
「ちょ見せて! 血とか出てないよね!?」
葵の正面に立った乃亜は前のめりになり、そっと後頭部を覗き込む。
(ち、近い!? それに……目の前に、綾音さんの胸が――……!?)
近すぎてピントは合わないものの、制服越しでも分かるふくよかそうな膨らみが葵の目と鼻の先に存在していた。
(あ、綾音さん……わざわざ正面からじゃなくても……でも、今動くと触れてしまう危険が……)
心臓がドクンと大きく跳ねて早い鼓動を刻むと、血流のせいか打ち付けて腫れた後頭部がわずかに痛み出す
「――うーん、血は出てないっぽい」
ようやく乃亜が離れて葵は止めていた息を吐く。後頭部からの出血はないようだが乃亜の距離感が近すぎて、代わりに鼻血が出そうだった。
「あ、綾音さん! 心配させてすみません。俺は大丈夫ですので、勉強に戻りましょうか」
「そう? マジでヤバい時は言ってね?」
葵に促されてテスト勉強に戻った乃亜だったが、ある問題で手が止まってしまう。
「あの~、赤ちゃん? 頭ぶつけた直後で悪いけどさ、分からない問題があって――」
「大丈夫です! どの問題ですか?」
申し訳なさそうに問題集を見せる乃亜に対して葵は食い気味で答える。
「隣行くね。そっちの方が見やすいでしょ?」
乃亜が椅子を移動させて葵の隣に座る。自分の不注意で心配させてしまったことを葵は深く反省し、色んな意味で平常心を保とうと気持ちを切り替えた。
葵はグラスに入ったウーロン茶を一気に飲み干すと、熱を帯びてジンジンと痛む後頭部のことを気にせず問題集に目を移す。
公式を使った問題の解き方を乃亜に教えるが、隣から問題集を覗き込む乃亜は無意識に葵の方へ体を寄せてくる。
物理的な距離の近さに葵は心が乱れてしまい、純粋な気持ちで平常心を保とうと努力するも、つい湧き出る邪念や雑念を払えない。
勉強会が始まって一時間も過ぎると、集中力が切れた乃亜が休憩を提案してお菓子をつまむ。葵は勉強とは別の意味で疲れ切ってしまった。
(精神的な疲労とか、色々溜まってしまった……)
「赤ちゃんも食べて~! 遠慮とかいらないし」
「はい……いただきます」
小袋タイプのチョコを受け取り、葵は口に運ぶ。
「そーいえば、チョコって食べたら頭良くなるんだっけ? 知らんけど」
「チョコの原料であるカカオのポリフェノールが、脳を活性化するとか聞いたことありますね」
「へぇ~、なら赤ちゃんはどんどん食べて! さっき頭にダメージあったし」
「はは……そうですね」
「じゃあ、あたしが食べさせてあげようか?」
そう言って乃亜はチョコを指先でつまむと、葵の鼻先に持ってくる。
「ほら、あ~んして」
「だ、大丈夫です! 自分で食べられますから!」
「あはは! 冗談だって~」
チョコを自分の口に放り込んだ乃亜は満面の笑みでネタばらしを行い、いつものように葵をからかう。
葵は照れて顔が赤くながらも、乃亜と二人きりの勉強会は週末のガレージキット製作とはまた違った醍醐味や交流があり、たまにはこういった時間も悪くないと思うのだった。




