第34話 練習って、つくれちゃう?
葵が塗装ブースのLEDライトと、シロッコファンをオンにするとモーター音が響き始め、空気が内部に吸い込まれ始める。
続いて葵はいつも試し吹きのテストピースに使っている、耐水紙を数センチに切ったものを乃亜に渡す。耐水紙は紙パックなどに使われている水に強い紙だ。
「まずは試し吹きですね。復習になりますが、エアブラシのトリガーボタンは押し込むと風量の調整、後ろに引くと塗料が出ます。最初から全開にしないで、まずは少しずつ操作し、吹き出す塗料を微調整して下さいね」
「りょ! マジ頑張る!」
防毒マスクを付けたまま深呼吸した乃亜は、右手に持ったエアブラシを塗装ブースの中に向け、左手に持っている試し吹き用の耐水紙にノズルを近付けると、ゆっくりとトリガーボタンを操作する。
エアーと水で何度も練習していたおかげか、最初に塗料が吹き出した時は少し驚いて手を止めてしまったものの、何度か吹き付けを行うと次第に慣れてきて、臆することなくやれるようになる。
「濃度やエアー圧も問題なさそうですね。均一に塗れず、粒状になる場合は濃度が濃く、塗料が垂れる場合は薄いため、塗料を追加するなど濃度の調整が必要です」
試し吹きを実践する乃亜は葵に教わりながら、きれいなミスト状に塗料を吹けているかチェックするとともに、エアブラシを吹きつける距離やエアー圧を調整し、最適なところを探る練習もする。
「試し吹きが終わりましたら、次は本番です。今回は練習のため、プラスプーンを塗っていきましょう」
葵はプラスチック製のスプーンを乃亜に渡す。
「エアブラシによる塗装は、最初から一気に厚く塗るのではなく、薄い色を重ね塗りしていくことです。エアブラシの塗膜は薄いため、すぐに乾きますので何度も薄く均等に吹き付けて下さい。パーツに対して垂直に吹き付け、塗装する時は手を止めず、常に一定の距離と速さで動かすのがコツです。手を止めてしまうと、その部分だけ塗膜が厚くなったり、塗料が垂れてしまう場合があります」
「止めずに、動かし続けるね……りょ!」
「色々と言いましたが、塗装は何度も実践して感覚に慣れ、上達していくしかないため、数をこなすことが大事です」
「てか、今は練習だけどさぁ……本番で失敗したたら、マジ病みそう」
「綾音さんは初めてなので、失敗したり間違っても大丈夫ですよ。ガレージキットはレジンなので、シンナーのような有機溶剤に入れても溶けません。そんな素材の特性を活かし、ラッカー薄め液やツールクリーナーなどにドボンして、塗料を全部落としてしまえば、塗り直しすることができるんです」
「そうなの? メイク落としみたいなことできるんだ」
「ガレージキットは耐溶剤性が非常に高いです」
「まあ失敗したくないけど、やり直せるなら多少気が楽かな~」
その後も乃亜は葵にアドバイスを受けながら、練習用のプラスプーンに実際にエアブラシで塗料を吹き付け、塗装の感覚を掴む練習をする。
塗装中の定期的なうがいによる塗料の撹拌、エアー圧を弱めにして行う細吹きやグラデーションの付け方、エアー圧を強めにし、吹き付け幅の調整で広い範囲を一気に塗装する方法など、時間が許す限り色々と試していく。
「――綾音さん。外が暗くなってきたので、今日はここまでにしておきましょうか」
「もうそんな時間?」
乃亜はエアブラシをホルダーに置き、防毒マスクを緩めると両腕を突き上げて凝り固まった体を伸ばす。
「めっちゃ集中したー! 最初とかビビったけど、慣れてきたら意外といけた」
手元に意識を集中させ、じっと動かずに練習していたせいで体が強張ったのか、乃亜は背中を伸ばして首や肩も回す。
「――ねえ、赤ちゃ~ん。ちょい肩揉んでくれない?」
「お、俺がですか!?」
予期していなかった乃亜からの頼みに葵はうろたえる。
「肩とかガチガチだし、ほぐしてくんない?」
汚れたニトリル手袋を片手だけ外した乃亜は、首の後ろに手を伸ばすと、ミルクティーベージュに染めているロングヘアを手でまとめ、背中側から肩越しに前へ流す。
乃亜が着ているのは、首元が丸く空いた黒のケーブルラウンドネック半袖ニットであり、髪を前に流したことで白い素肌を晒すうなじがあらわとなり、葵の視線が釘付けとなる。
(綾音さん、きれいなうなじだ――って、俺は何を考えて!?)
「ほら、赤ちゃん。早く~」
葵は慌てて視線をそらし、申し訳なさそうに口を開いた。
「いや、でも……肩揉みするなら、触れないといけないですし……」
「はっ? そんなの当たり前じゃん。良いから早くー」
催促する乃亜に急かされた葵は覚悟を決め、両手のニトリル手袋を外すと、「失礼します」と断りを入れて乃亜の両肩にそっと手を置いた。
(綾音さんの肩、なんか細くて力を入れたら壊してしまいそうだ……力加減を調整しないと。それに服越しだけど、綾音さんの体に触れるのは色々大丈夫なのか?)
葵は両手に力を入れ過ぎないように注意しながら、乃亜の肩を揉み始める。
友人とは言え、乃亜は異性なのだ。肩揉みというマッサージではあるが、葵は間接的に乃亜の体へ触れているため、この状況で意識していないと言えば嘘になってしまう。
「あぁ~、そこそこ~。やっぱ、自分でやるより気持ち良いかも~。てか、赤ちゃん肩揉み上手くない? テクあってマジヤバ~い」
「い、痛くないですか? 力加減が分からなくて……」
「全然よゆ~。もうちょい、おねしゃーす」
乃亜の肩を揉む葵は、力加減の調整と緊張やプレッシャーのせいか、逆に自分の肩が凝ってきてしまった。
「赤ちゃん、あざ~す! めっちゃほぐれた~」
「お、お役に立てて幸いです……」
まだ葵の手には、乃亜の肩から服越しに伝わってきた筋肉の感触が残っており、本当に触れて良かったのか迷い、ちょっとした罪悪感を覚えた。
「じゃあーさ。お礼に赤ちゃんの肩揉んであげる」
「い、いや……俺は別に凝ってはいませんので」
「全然良いから~」
椅子から立った乃亜はもう片方のニトリル手袋も外し、防毒マスクを机に置くと遠慮している葵の後ろに回り、無理やり椅子に座らせる。
反論する間もなく、乃亜は何の躊躇もなしに葵の両肩に手を置いた。
「え、待って。赤ちゃん、肩幅広くない? 鍛えてんの?」
「い、いいえ……元からです」
「へぇ~、めっちゃガッチリしてるじゃん」
乃亜は葵の体に興味津々な様子であり、肩だけでなく背中や二の腕も触り始める。
(あ、綾音さんの手が動き回って――これじゃ緊張して、逆に体が凝りそうだ……)
乃亜のボディタッチに耐えきれなくなり、葵は思わず椅子から立ち上がる。
「あ、綾音さん! それよりも早く片付けしないと、塗料が固まってしまいます!」
「え? そ、そうだった!?」
乃亜は慌てて防毒マスクを顔に付け、手袋も付け直すと机の前に戻って葵に片付けのやり方を尋ねた。




