第29話 余韻って、つくれちゃう?
夕方まで散策をたっぷりと楽しんだ二人は、日没が迫ってくると名残惜し見ながらみなとみらい駅に向かう。
「――赤ちゃん。今日は色々連れ回しちゃったけど、疲れてない?」
「平気ですよ。脚は日頃から鍛えていますので」
葵の自宅マンションにはフィットネスバイクがあることを思い出し、乃亜は無用な心配だったと苦笑する。
駅に向かう人の流れに乗りながら、ふと乃亜は隣を歩く葵の横顔を見る。
「――ほら、赤ちゃんさ。休み日はどこにも行かないとか言ってたじゃん?」
「そうですね」
「なんか急に誘ったからさ、赤ちゃんビビってたよね~」
「あ、あはは……初めてのことだったので、びっくりしてしまいました」
ゴールデンウィーク前、作業後に乃亜と会話した日のことを葵は思い出す。
「それで今日はさ。世の中には色んなものが、たくさんあるってことを見せたくて赤ちゃん誘ったわけ」
葵から目を逸らし、街の上に広がる夕焼け空を見上げた乃亜は少し間を置く。
「――赤ちゃんがさ、遊びに行かない理由は知ってる。それは原型師になる夢を叶えるためじゃん? 夢に向かって頑張ってるからさ、遊びに誘ったのはおせっかいだったかもなーとか、思ったりしたの」
「おせっかいだなんてとんでもないです! 綾音さんに誘われなかったら、横浜に来ることはなかったかも知れませんし、普段行かないところばかりで楽しかったです。今日はとても充実した一日でした」
「マ? なら、よき!」
せっかくの休日に葵を一日中連れ回してしまったため、乃亜は差し出がましいことをしてしまったと少し不安だったものの、葵の口から本意を聞けて胸の奥が楽になった。
葵と並んで歩きながら、乃亜は夕日に照らされた街並みを眺めてポツリと呟く。
「――大人になっても遊びに行けるけどさ。やっぱ、今のうちに友達と過ごす時間ってマジ大事だと思うわけ」
葵は乃亜の顔を見つめ、その言葉に黙って耳を傾ける。
「休みの日、毎回付き合えってわけじゃなくてさ。たまには友達とこーやって、どっかに出掛けて思い出作りたいじゃん? 学校の制服だってそう。着れるのは学生の時だけだし、写真とかプリ撮ってさ、思い出を残すって、ガチエモいし」
葵を気遣っているのか、乃亜にして珍しくストレートな言い方を避け、どこか遠回しに時間を共有する大切さを説く。
(そうか、綾音さん……夢を追うため俺が部屋に籠もってばっかりだから、色んなものを見せてくれようとしているんだ。それだけじゃない……俺の夢のことも尊重してくれている……)
これまで友達がいなかった葵にとって、初めて友達になった乃亜はただの同級生ではなかった。夢を追うあまり閉じてしまった心の扉を開き、外へと連れ出してくれる――楽しさを教えてくれる、そんな存在になっていた。
夢を追い続けることは、確かに大切だ。だが夢だけに目を向けていると、いつの間にか視野は細くなり、周囲の出来事や人との関わりが薄れて閉鎖的な心になってしまう。
葵自身も、そんな偏った世界の中に長く留まっていたせいか、今なら分かる。
視野を広げ、自分というものを少しずつ知っていくことで、他者のことも自然と理解できるようになる。自分の外側にあるものへと意識が向き、これまで気付かなかった小さな変化や感情にも目が留まるようになるのだ。
明るく活発でノリも良く、思い立ったらすぐ行動に移す乃亜と過ごす時間は、葵にとってまさに新しい扉を開くようなものだった。乃亜と一緒に過ごすたび、これまで見えていなかった世界が少しずつ色を帯びて広がっていくのを感じていた。
「――綾音さん。改めて、今日はありがとうございました! これまでずっと部屋に籠もって、夢を追うことばかり考えていました。だけど、今日遊びに誘って頂き、ものの見方や価値観が変わったような気がします」
心の底から感謝する葵の姿を見て、乃亜は大げさだとばかりに苦笑する。
「とりま、赤ちゃんが楽しかったなら、よき!」
「そ、そうですね……あまり深く考えないようにします」
「あたしの方こそ、ありゃーと! めっちゃ楽しかった~!」
ちょうど話に区切りがついたところで駅に到着する。タイミング良くやって来た電車は多少混雑していたものの、何とか二人は座ることができた。
「一本早い電車にして良かったですね」
「ほんとそれ。今でこれなら、この後とかエグいし」
電車に揺られながら、葵は今日一日を振り返る。最初はどうなるかとても不安だったが、乃亜と過ごしているうちに不安や緊張は薄れ、純粋に楽しんで充実した休日を過ごすことができた。
「――赤ちゃん。また学校で~」
先に降りる乃亜と別れて駅に着くまでの間、葵は一日の出来事を思い返しながら余韻に浸った。
すっかり日も暮れた頃、自宅マンションに帰った葵は見慣れたはずのリビングへ足を踏み入れた瞬間、胸の奥にふとした違和感が湧いた。
そこはいつもと変わらないはずの空間だが、どこか遠くの、まるで別の世界から帰還したような錯覚を覚える。
ソファーの位置もテーブル上の小物も、何ひとつ変わってはいない。それなのに視界に映る全てがどこか新鮮な感じなのだ。
葵は今日一日、初めて訪れた街を自分の足で歩き回り、人々のざわめきや海から吹く潮風の匂い、空から降り注ぐ陽光の温もりや夕暮れの街並みなど、五感を通して様々な情報を受け取ってきた。
その濃密な体験はこれまでの繰り返しの日常との間に、くっきりとした隔たりを生み出したことによる違和感だった。
時間が経ってもなお、葵の心には今日乃亜と過ごした余韻が残っている。
外の世界に目を向けることも少なくなり、ただ夢だけを追い掛けて部屋に籠もり、フィギュアや造形に触れ続けてきた日々——その積み重ねは葵の腕を磨き上げるも、同時に自分の視野をどれほど狭めていたのかを葵は今さらながらに思い知らされる。
自分の在り方が浮き彫りになると同時に、新しい一歩の入り口に立っているような予感もあった。生き方を変えてくれたのは、紛れもない〝乃亜〟という存在なのだ。
(――夢を追うことは、悪いことじゃない。だけど、そればっかりに偏った生き方はダメなのかも知れない……)
今日、乃亜が外に連れ出して見せてくれた世界は以前から当たり前のようにその場所にあり、何も特別なものではない。しかし閉ざされた世界にひとりで浸っていた葵にとって、それは自分の価値観を変えてくれるものだった。
遊びに行った横浜の風景はインターネットを使えば普通に見ることができる。だが、実物が持つ生の迫力や周囲の環境から受ける刺激などは、貴重な体験となって葵の記憶にしっかりと刻み込まれている。
(たまには、どこかに出掛けてみるのも悪くないかも……)
乃亜のおかげで世界が広いことを再認識することができ、葵はいまだ覚めぬ余韻に浸った。




