覚醒の時
その瞬間は案外簡単にやってきて、すんなりと店員さんの家に入ってしまった。照れ隠しで直ぐにお風呂に入ってしまったが、後になってその事の重大さに理解が追いついてきて心が脈打ち始める。
湯船に浸かった自分の胸を見て、ナギアの言葉を思い出す。
「……確かに、店員さんもけっこうチラチラ見ているような気はするけど」
別に好きで大きくなったわけじゃなかったが、少年に好かれていると思うと悪い気はしなかった。お風呂という自分だけの閉鎖空間だからか、とったこともない胸の強調するポーズをとってみたり、甘い言葉を囁いてみたり、いつの間にか気分は完全にあらぬ方向に向かっていた。
そんな自分に歯止めを書けるようにお風呂から上がり、少年のもとへと向かった。すると、少年は何か日記帳のようなものを探していた。日記なんて書かないから自分のものではないと思う、という少年だったが、ミルミルにはそれが少年のごまかしであるような気がした。
だから少年にはさっさとお風呂に入ってもらって、その間に自分だけその日記帳の中身を見てしまおうと思ったのだ。
こういう時にも大きな胸は邪魔になり、床に胸を押し付けるようにしてなんとか取り出したその日記帳は、乱雑に置かれていたというのにまるで使った痕跡のないような状態だった。たった一ページにだけ、折り目がついていて、それ以外は全て白紙のままだった。
ミルミルは特に悪気もなく、その折れ目のついたページを開いた。しかし、そこに書いてあった文字にミルミルは酷く動揺してしまった。
「え――――」
そこには、小さく丁寧な文字でこう書かれていた。
《僕はメルルゥが好きだ》
最初は何のことだか分からなかった。そこに刻まれたメルルゥの文字がかつての自分を指す言葉だと認識するのに時間を要した。そして理解した頃にはもう頭や胸がパンクしそうになっていた。
「え、え、店員さん、私のこと……好き……だったの……?」
口に出すことでより現実味を増してその事実は襲いかかってきた。あまりのことに、このドキドキは包み隠さずナギアへ流れてしまっていた。でもそんなこと考える余裕もないくらい、喜びと嬉しさと感動と、いろいろなものが混ざって何がなんだか分からなくなっていた。
その同様は少年が帰ってきても隠せそうもなく、一先ず日記帳を隠してその事実は隠すことにした。
お風呂から上がった少年お手製の晩御飯を食べて、そのあまりの幸せさについ感嘆が漏れそうになりながらも食事を終えたミルミルは、ついにその時がくるようであることを察し始めていた。
夜に限って引き起こる謎の症状。ナギアと一緒の時は大丈夫だったのだから、少年と一緒でも大丈夫だろうと考えていたが、そう甘くはなかったようだった。決まってその症状が迫っていると、ネガティブな負の感情がうずまき始める。体の末端が痺れ始め、言う事を聞かなくなってくる。
せっかくの好きな男と人とのひと時をこんな意味の分からないもので台無しにすることだけは絶対にしたくはなかった。だが、逃げ場のない痛みはついにミルミルを追い詰めその漆黒で彼女を包み込んでしまう。
ミルミルはまるで魔獣のように嘆き悲しみ、もがいていた。その時、ミルミルに自我なんてものはなかった。痛みに意識を食い殺され、ただ叫び暴れる獣物と化していた。少年はそんなミルミルに付きっきりで処置を施していた。
■
やがて、ミルミルが目を覚ますと服がぼろぼろになった少年がそこに横たわっていた。慌てて息を確認したミルミル、その健やかな呼吸音をきいてほっと胸をなでおろす。と、同時に、この状況に見覚えを感じ、頭を抱える。
いつもミルミルはあの症状と格闘し、その度に布団を引き裂き、辺りのものを破壊していた。その光景が、少年の家でも繰り広げられていたのだ。
「…………どうして」
ミルミルはその場に膝から崩れ落ちた。溢れ出る涙を止めることはできなかった。
「そうして神様は私にこんな意地悪なことばかり押し付けるのッ!!」
拳を握り締め、自分の腿にその拳を振り下ろした。衝撃が加わった部分が赤く腫れ、その痛みがジンジンと広がっていく。
「私……なに……悪いこと、したのかな……?」
部屋の窓から見える月に、ミルミルはそう問いかけた。答えは帰ってこなかった。ふと月明かりが照らす先を見てみると、隠してあった日記帳が飛び出ていた。しかしその日記帳もボロボロになっていた。手にとってページをめくってみると、明らかに爪や尖ったもので引っ掻いたような跡が有り、たった一ページのミルミルの宝物も破かれてなくなってしまっていた。
「…………ごめんね、店員さん。私、自分の生きる意味、見つけられなかった」
てからこぼれ落ちた日記帳は、地面とぶつかった衝撃でバラけ、散らばってしまう。ミルミルはそれが砕け散った自分の心のように思えた。
「私が生きていると近くの誰かを傷つける。生きる意味をくれた店員さんをも傷つけてしまった……頑張るって決めたのに……」
ミルミルはゆっくりと立ち上がり、踵を返して少年の元を離れた。堪えきれない涙がわんわん流れるが、足は止めなかった。
「……私が生きること、そんなことに、意味なんてないんだ――」
もう誰も傷つけたくない、もう誰にも迷惑をかけたくない。私が頑張ったところでそれは誰かを不幸にするだけだった。最初から私が頑張らなければ、希望なんて持たなければこんなことにはならなかったんだ。そんなことばかりが頭の中を渦巻いていた。
その時だった。心の奥で声が聞こえた。自分に問いかける、彼女の声が。
「大丈夫、私がいるよ」
刹那、激しい痛みが右目を襲った。鋭利なものでえぐられるような、もしくは小さな虫が尋常ではない数群がり食い荒らすような、そんな耐え難い痛みだった。
「いやあああああぁあぁああああああああぁあぁああああ!?」
地面に転がり、体を打ち付けるようにしてもがき苦しみ、その痛みを殺すように自分の命を捨ててしまいそうになりながら時が経つのを待った。一分が数時間にも感じられた。そうしてようやく痛みが収まった頃には、おかしな世界が広がっていた。
視界は赤く染まり、右目がやけに熱かった。燃えるように熱く、その熱さを放出するように目を見開くと、目の前に亀裂のようなものが生まれて凄まじい力でその空間を断絶した。それは一瞬のうちの出来事で、ミルミルには何が起こっているのか分からなかった。
唯一つ、自分の右目が真紅に染まっているということだけ、はっきりと分かっていた。




