第九十四話 借りた覚えのないもの
悪役令嬢は愛されている
第九十四話 借りた覚えのないもの
王国歴三百二十八年、四月二十一日。
午前六時四十分。
王都南区。
「……火がつかない?」
パン屋の主人は、何度も指を鳴らしていた。
いつもなら、それだけで窯に火が入る。
二十年間、欠かしたことのない朝の仕事だった。
しかし、今日は違う。
「お父さん、どうしたの?」
娘が尋ねた。
「いや……ちょっとな」
もう一度、指を鳴らす。
何も起きない。
「……おかしいな」
主人は、額の汗を拭った。
そのとき。
通りの向こうから歓声が聞こえた。
「できた!」
「おい、見ろよ!」
「俺にも魔法が使えるぞ!」
主人は店の外へ出た。
向かいの仕立屋で働く青年が、手のひらに炎を浮かべていた。
つい昨日まで、魔法など使えなかった男だった。
「……どうなってるんだ?」
主人は呟いた。
その手には、何も生まれない。
向かいの青年は、嬉しそうに笑っている。
そして。
青年の指先に浮かぶ炎は。
昨日まで主人が窯に灯していたものと、まったく同じ色をしていた。
◇
午前九時。
王立魔法学院。
「……十一地区です」
マリアンヌは、報告書を受け取った。
「現在、王都の十一地区で魔力異常が確認されています」
報告に訪れた魔法管理局の職員は、疲れ切った顔をしていた。
「昨日までは、わずか数人だったはずですが」
「今朝になって、急激に増加しました」
「被害は?」
「確認中です。ただ……」
職員は、一瞬だけ言葉を止めた。
「王都北区の施療院で、治癒魔法を使えなくなった医師が三名出ています」
マリアンヌの表情が変わった。
「患者の方々は?」
「別の医師が対応しております。しかし、同様の事態が続けば……」
「承知いたしました」
マリアンヌは立ち上がった。
「学院に所属する治癒魔法の使い手を確認いたします」
「ご協力、感謝いたします」
「それから」
彼女は職員を呼び止めた。
「王都の魔力供給網を、一斉に停止する予定はございますか?」
「……ええ」
職員は頷いた。
「現在、管理局で検討されています」
「お控えいただくよう、お伝えください」
「……理由を伺っても?」
「接続を切断した際、別の回路へ移動する可能性がございます」
「……何ですって?」
「すでに確認しております」
マリアンヌは、静かに続けた。
「現在の異常は、設備だけを停止すれば解決するものではございません」
職員は、青ざめた。
「……では、どうすれば」
「まず、魔力がどこへ流れているのかを調べる必要があります」
「……しかし、それには時間が」
「ええ」
マリアンヌは頷いた。
「ですので、急ぎましょう」
◇
午前十時。
魔法工学実習室。
「……また、光った」
フィオナは、小さな魔法灯を見つめていた。
昨日から、何度も同じ現象が起きている。
魔法石を取り外しているのに、灯りがつく。
しかも、毎回ほんの一瞬だけ。
「……何してるんだ?」
ルークが覗き込んだ。
「魔力の流れを調べてるの」
「……その小さいやつで?」
「うん」
フィオナは頷いた。
「この装置、魔力をほとんど使わないように作ってあるの」
「……それが?」
「普通の魔法装置なら、周りから流れてくるわずかな魔力には反応しない」
少女は、魔法灯を持ち上げた。
「でも、これは違うの」
「……なるほど」
ルークは、真剣な顔で頷いた。
そして。
「……つまり?」
「分かってないでしょ!」
「悪い!」
フィオナは、小さく笑った。
そのとき。
「フィオナ!」
扉が開いた。
エリザベートだった。
「その魔法灯、完成したの?」
「……え?」
「私、買うって約束したでしょう!」
「……あ」
フィオナは、少し困った顔をした。
「まだ、試作品なんです」
「そうなの?」
「はい。でも、今ちょうど調べたいことがあって……」
少女は、机の上に並べた魔法灯を見せた。
全部で五つ。
どれも、同じ形をしている。
しかし。
そのうち一つだけが、かすかに光っていた。
「……まあ!」
エリザベートは目を輝かせた。
「綺麗ね!」
「ありがとうございます」
「でも、どうして一つだけ光っているの?」
「それを調べたいんです」
フィオナは答えた。
「この灯りは、魔力を使っていません」
「……そうなの?」
「正確には、私が用意した魔力は使っていません」
「…………」
「なのに、光るんです」
エリザベートは、しばらく考えた。
そして。
「……それって」
首を傾げた。
「誰かが、勝手につけてくれているの?」
フィオナは、目を瞬かせた。
「……え?」
「だって、あなたがつけていないのでしょう?」
「……はい」
「なら、別の誰かがつけているんじゃない?」
「…………」
フィオナは、魔法灯を見つめた。
そして。
「あっ!」
突然、声を上げた。
「……そうか!」
ルークが驚いた。
「何だ!?」
「誰かが魔力を送っているんじゃない」
フィオナは、魔法灯を手に取った。
「この魔法灯が、勝手に受け取ってるんだ!」
◇
午前十一時。
王都東区。
昨日、リナが魔法を使えるようになった場所には、大勢の人が集まっていた。
「……元に戻せって、どういうことだ!」
一人の男が、魔法管理局の職員へ怒鳴っていた。
「俺たちは、何も悪いことをしていない!」
「分かっております!」
「だったら、何で魔法を使うななんて言うんだ!」
職員は、困り果てていた。
「現在、原因不明の魔力移動が確認されております。皆様の安全のために……」
「安全?」
男は笑った。
「俺は、生まれて初めて魔法を使えるようになったんだぞ!」
周囲から、同意する声が上がる。
「俺だってそうだ!」
「やっと仕事ができるようになったのに!」
「魔法が使える人間には分からないんだよ!」
人々の声は、次第に大きくなっていった。
その少し離れた場所に、リナがいた。
少女は、母親の手を握っていた。
「……お母さん」
「なあに?」
「……私、また魔法が使えるようになったの」
母親は、娘を見た。
「……そう」
「でも」
リナは俯いた。
「……また、誰かが使えなくなってるのかな」
母親は答えられなかった。
リナは、小さく呟いた。
「……だったら、いらない」
その言葉に。
母親は、娘の手を強く握った。
「……そんなこと言わないで」
「……え?」
「あなた、ずっと魔法を使いたかったんでしょう?」
「……うん」
「だったら……」
母親は、言葉を詰まらせた。
「……だったら、使ってもいいじゃない」
その声は、震えていた。
リナは、母親を見上げた。
「……でも」
「あなたは何も悪くないわ」
母親は、娘を抱きしめた。
「何も悪くないんだから……」
リナは、何も言わなかった。
ただ。
その小さな手には、青白い光が灯っていた。
◇
正午。
王都中央広場。
「……なるほど」
エリザベートは、人々の話を聞いていた。
魔法が使えるようになった人。
魔法が使えなくなった人。
双方が、広場に集まっている。
「……それで」
エリザベートは、近くにいた男へ尋ねた。
「あなたは、どうしたいの?」
男は、少し驚いた。
「……俺?」
「ええ!」
「……魔法を使えるままでいたい」
「そうなの?」
「当たり前だろ」
男は、少し苛立ったように答えた。
「俺は、今まで何度も仕事を断られてきたんだ。魔法が使えないからって!」
エリザベートは頷いた。
「大変だったのね」
「……ああ」
「では、使えるようになってよかったじゃない!」
男は、目を瞬かせた。
「……あ、ああ」
しかし。
「……でも」
エリザベートは続けた。
「その魔力、誰のものなの?」
男の表情が固まった。
「……何?」
「あなたのもの?」
「…………」
「それとも、誰かから借りたもの?」
男は答えなかった。
エリザベートは、不思議そうに首を傾げた。
「だって、借りたものなら返さないといけないでしょう?」
「……俺は!」
男は、声を荒らげた。
「誰からも借りてない!」
「そうなの?」
「勝手に使えるようになったんだ!」
エリザベートは、少し考えた。
そして。
「……それなら」
静かに尋ねた。
「持ち主が分からないだけじゃない?」
男は、黙った。
「誰のものか分からなければ、何でも自分のものにしていいの?」
「…………」
エリザベートは、真剣に考えていた。
彼女にとって、それは単純な疑問だった。
落とし物は、持ち主へ返す。
誰かのものを欲しければ、譲ってもらう。
少なくとも、そういうものだと教わってきた。
しかし。
男は、俯いたまま呟いた。
「……あんたには、分からないだろうな」
「……何が?」
「生まれたときから、何でも持ってる人間には」
エリザベートは、目を瞬かせた。
そして。
「……そうね!」
あっさりと頷いた。
男が顔を上げる。
「……は?」
「私、欲しいものは何でも手に入ってきたわ!」
「…………」
「でも、それと、あなたが人のものを使っていいかどうかは、別の話でしょう?」
男は、何も言えなかった。
少女は、それ以上責めなかった。
ただ。
「……ねえ」
小さく尋ねた。
「あなた、本当は自分の魔法が欲しいんじゃない?」
男は、顔を上げた。
「…………」
「誰かから借りたものじゃなくて」
エリザベートは、微笑んだ。
「自分のものが欲しいのでしょう?」
男は、長い間黙っていた。
そして。
「……当たり前だろ」
絞り出すように答えた。
◇
午後一時。
王都北区、中央施療院。
「……こちらです!」
職員に案内され、セシリアは病室へ駆け込んだ。
そこには、三人の患者がいた。
それぞれ、治癒魔法による継続的な処置を必要としている。
しかし。
担当医の魔力が、突然失われていた。
「……お願いします!」
医師が頭を下げた。
「このままでは、治療を続けられません!」
セシリアは頷いた。
「できる限りのことをします」
杖を構える。
淡い光が、病室を包んだ。
一人目。
二人目。
そして、三人目。
治癒魔法が、次々と発動する。
しかし。
「……っ」
セシリアの表情が変わった。
魔力の流れがおかしい。
いつもなら、患者へ届くはずの魔力が、別の場所へ引き寄せられている。
「……まさか」
もう一度、術式を構築する。
今度は、慎重に。
魔力の流れを確認しながら。
しかし。
同じだった。
「……私の魔力まで」
セシリアは、歯を食いしばった。
「……奪われている?」
そのとき。
「セシリア!」
ルークが駆け込んできた。
「大丈夫か!?」
「……ルーク」
「何があった?」
「……魔力が、別の場所へ流れてしまうの」
ルークは、病室を見た。
そして。
「……なら」
剣を腰から外した。
「俺にできることは?」
セシリアは、少し驚いた。
「……え?」
「魔法は使えない。でも、何かあるだろ」
セシリアは、ほんの少しだけ笑った。
「……あります」
そして、医師へ向き直った。
「魔法を使わずにできる処置を教えてください」
医師は、すぐに頷いた。
「分かりました!」
ルークは袖をまくった。
「よし!」
彼が剣を置いたのは。
その日、初めてだった。
◇
午後二時。
王都魔法管理局。
会議室には、険しい顔の人々が集まっていた。
「……これ以上は待てません!」
局長が声を上げた。
「すでに、王都全域へ異常が広がっています!」
「しかし、供給網を停止すれば……」
「何もしなければ、被害は拡大する一方です!」
議論は、平行線を辿っていた。
そのとき。
扉が開いた。
「失礼いたします」
マリアンヌだった。
「……学院長!」
局長が立ち上がる。
「何か分かったのですか!?」
「はい」
彼女は、机の上に一枚の地図を広げた。
王都全域。
そこには、無数の小さな光点が記されていた。
「こちらは、現在確認されている異常な魔力の流れです」
「……これほどまでに」
「はい」
マリアンヌは頷いた。
「ですが、これらをすべて切断するだけでは、問題は解決いたしません」
「……なぜです?」
「切断された回路が、別の回路へ接続されるためです」
「…………」
「現在の術式は、魔力の供給先を自動的に探し続けています」
局長は、顔をしかめた。
「……では、止められないというのですか?」
「いいえ」
マリアンヌは、静かに微笑んだ。
「止めることは可能です」
「……本当ですか!」
「はい」
「では、すぐに!」
しかし。
「ただし」
マリアンヌは続けた。
「現在、魔力を受け取っている人々の中には、その魔力を使って治療や仕事を行っている方々もいらっしゃいます」
「……それが?」
「接続をすべて解除すれば、当然、その魔力は失われます」
「…………」
「また、奪われた魔力を持ち主へ戻すには、元の供給経路を確認する必要がございます」
局長は黙った。
そして。
「……では」
小さく尋ねた。
「どうすれば、全員を助けられるのですか?」
マリアンヌは、すぐには答えなかった。
そのとき。
「それなら!」
会議室の扉から、声が響いた。
エリザベートだった。
「……お嬢様?」
マリアンヌが振り返る。
その後ろには、フィオナがいた。
両手に、小さな魔法灯を抱えている。
「できたのよ!」
エリザベートは、嬉しそうに笑った。
「魔力がどこから来ているのか、分かる装置!」
◇
「……これが?」
局長は、小さな魔法灯を見つめた。
「はい!」
フィオナが答えた。
「魔法石を使わずに、外部から流れてくる魔力だけを感知します」
「……なるほど」
「ただし、一つだけでは正確な方向が分かりません」
フィオナは、五つの魔法灯を並べた。
「だから、複数を使います」
一つ目が光る。
二つ目が光る。
三つ目。
四つ目。
そして。
五つ目だけが、光らなかった。
「……どういうことだ?」
局長が尋ねた。
フィオナは、地図を指さした。
「魔力が流れてくる方向によって、灯りの強さが変わるんです」
「……つまり」
「はい」
少女は頷いた。
「この装置を王都の各地へ置けば、魔力がどこへ集まっているのか、調べられると思います」
マリアンヌは、静かに微笑んだ。
「素晴らしいですね」
フィオナは、少し照れたように笑った。
「……まだ、試作品ですけど」
「それでも、十分に役立ちます」
そして。
マリアンヌは、五つの魔法灯へ手をかざした。
《連結》。
その瞬間。
五つの灯りが、一本の線で結ばれた。
さらに。
王都各地の魔力測定器。
学院の観測装置。
魔法管理局の設備。
それらが、次々とつながっていく。
「……え?」
フィオナは、目を見開いた。
机の上の地図に、無数の光が浮かび上がった。
赤。
青。
白。
色とりどりの線が、王都を覆っていく。
そして。
そのすべてが。
一つの場所へ向かっていた。
「……あれ?」
フィオナは、首を傾げた。
「……おかしい」
「どうしたの?」
エリザベートが尋ねる。
「魔力が、全部……」
少女は、地図の中央を指さした。
「……同じ場所へ集まってる」
◇
午後二時三十分。
王都中央研究会館。
ガルド・レイスは、研究室を飛び出した。
「……そんなはずはない!」
助手が追いかける。
「ガルド様!」
「誰が術式を変更した!?」
「……誰も、変更しておりません!」
「なら、なぜ!」
男は、制御盤へ駆け寄った。
そこには、見覚えのない術式が表示されていた。
いや。
正確には。
見覚えがあった。
三十年以上前の研究記録。
オスカー・ベルンハルトが凍結した、最初期の術式。
「……まさか」
ガルドは、画面を見つめた。
「……自動平準化?」
助手が尋ねた。
「……何ですか、それは」
「……魔力を持つ者と、持たない者」
ガルドは、震える声で答えた。
「その差を、なくすための仕組みだ」
「……では、成功したのですか?」
ガルドは、首を振った。
「……違う」
「……え?」
「魔力の総量は、増えていない」
「…………」
「誰かに与えた分だけ、誰かから奪っている」
助手は、黙った。
ガルドは続けた。
「しかも、供給元を指定する機能が失われている」
「……それは」
「つまり」
男は、ゆっくりと顔を上げた。
「この術式は、魔力を持っている人間を、次々と探しているんだ」
「…………」
「必要な魔力が足りなければ、さらに接続先を増やす」
「……では」
「そして、最終的には」
ガルドは、言葉を止めた。
画面に、新しい表示が現れた。
『供給源探索中』
『新規接続先確認』
『魔力集積開始』
男は、息を呑んだ。
「……まずい」
◇
同時刻。
王都魔法管理局。
「……ここです!」
フィオナが、地図を指さした。
光の線が、すべて一点へ集まっていた。
「……王都中央区?」
局長が呟く。
「はい」
フィオナは頷いた。
「正確には……」
マリアンヌが、静かに答えた。
「王立魔法学院でございます」
沈黙。
局長が顔を上げた。
「……学院?」
「はい」
マリアンヌは頷いた。
「学院の地下には、王都の魔力供給網と接続された古い設備がございます」
「……まさか」
「その設備を経由して、魔力が集められているのでしょう」
局長は、青ざめた。
「……では、学院の生徒たちは」
「まだ、分かりません」
マリアンヌは、静かに答えた。
そして。
地図を見つめた。
「……ただし」
彼女の表情から、笑みが消えた。
「このままでは、学院全体が供給源として扱われる可能性がございます」
エリザベートは、地図を覗き込んだ。
「……学院に?」
「はい」
「……みんなの魔力が?」
「はい」
少女は、少し考えた。
そして。
「……それは困るわね」
小さく呟いた。
「だって、明日も授業があるのに」
局長は、思わず振り返った。
「……授業?」
エリザベートは頷いた。
「ええ!」
そして。
「みんなが魔法を使えなくなったら、授業ができないでしょう?」
「…………」
「それに」
少女は、少しだけ眉をひそめた。
「私、まだ魔法灯を完成させていないのよ」
フィオナは、目を瞬かせた。
「……エリザベート様」
「なあに?」
「……私たちの魔法灯ですか?」
「もちろんよ!」
エリザベートは笑った。
「一緒に作るって約束したでしょう?」
フィオナは、しばらく少女を見つめていた。
そして。
「……はい!」
力強く頷いた。
◇
午後三時。
王立魔法学院。
その瞬間。
学院中の魔法灯が、一斉に消えた。
廊下。
教室。
研究室。
図書館。
そして。
地下に眠っていた、古い魔法陣。
三十年以上、使われていなかったはずの術式が。
ゆっくりと。
光を放ち始めた。
その中央。
かつてオスカー・ベルンハルトが封印した装置には、一枚の金属板が取り付けられていた。
『魔力均等供給装置』
その下には、古い文字が刻まれている。
『すべての者に、等しく魔法を』
そして。
装置の最も奥。
誰も触れていないはずの制御盤に。
一つの数字が表示された。
『供給源候補数 四百七十二』
数字が変わる。
『四百七十三』
さらに。
『四百七十四』
そして。
『魔力収集準備完了』
最後に。
赤い文字が浮かび上がった。
『第一段階、開始』
――第九十四話・完




