第九十話 悪役令嬢は手を離さない
悪役令嬢は愛されている
第九十話 悪役令嬢は手を離さない
王国歴三百二十八年、四月十六日。
アルヴェイン公爵邸。
午前七時。
「……何かしら、これ」
エリザベート・フォン・アルヴェインは、食堂に置かれた一枚の設計図を見つめていた。
大きい。
とにかく大きい。
食卓を覆い尽くすほどの紙には、複雑な術式と見たこともない記号がびっしりと書き込まれている。
「昨夜、お嬢様がお話しされていた魔法装置の設計案でございます」
セバスチャンが答えた。
「魔法装置?」
「はい。何でもできる魔法装置をお望みと伺いましたので」
「ああ!」
エリザベートは手を叩いた。
「そうだったわね!」
「現在、必要な魔力の供給方法を検討しております」
「そうなの?」
「はい。現状では王国全体の年間魔力消費量を上回りますが、供給源を新たに設ければ解決可能と考えております」
「まあ!」
エリザベートは目を輝かせた。
「すごいのね!」
「恐れ入ります」
「でも、セバスチャン」
「はい」
「これ、誰が作るの?」
「ご命令をいただければ、直ちに製作へ移行いたします」
エリザベートは首を傾げた。
「どうして?」
「……と、おっしゃいますと」
「だって、私が作りたいのよ?」
沈黙。
セバスチャンは、ゆっくりと顔を上げた。
「……お嬢様が?」
「ええ!」
少女は胸を張った。
「私、自分で何かを作ってみたいの!」
「…………」
「だから、あなたたちが全部作ってしまったら、つまらないでしょう?」
セバスチャンは、しばらく黙っていた。
そして。
「……大変失礼いたしました」
深く頭を下げた。
「ご意向を取り違えておりました」
「いいのよ!」
エリザベートは微笑んだ。
「でも、この紙はいただくわ!」
「かしこまりました」
少女は設計図を丸めようとした。
しかし。
大きすぎた。
「……セバスチャン」
「はい」
「小さくしてちょうだい」
「かしこまりました」
老執事が指を鳴らす。
次の瞬間、巨大な設計図は手のひらほどの大きさになった。
「便利ね!」
「恐れ入ります」
エリザベートは満足そうに頷いた。
そして、小さな紙を鞄へしまった。
「では、行ってくるわ!」
「いってらっしゃいませ、お嬢様」
少女が出発した後。
セバスチャンは、食堂に残っていた使用人たちへ向き直った。
「万能魔法装置の製作計画は、いったん停止いたします」
「承知いたしました」
「お嬢様ご自身が製作されるとのことです」
「素晴らしいことでございますね」
「ええ」
セバスチャンは静かに微笑んだ。
「では、お嬢様が必要とされた際に、あらゆる材料を提供できるよう準備だけ進めておきましょう」
「かしこまりました」
こうして。
王国全体の魔力供給事情を変えかねない計画は、停止された。
理由は、ただ一つ。
お嬢様が、自分で作りたかったからである。
◇
午前十時。
王立魔法学院。
「……分からないわ」
エリザベートは教科書を見つめていた。
その隣で、クラリスが微笑む。
「どこが分からないの?」
「全部よ!」
「……全部?」
「ええ!」
エリザベートは鞄から小さな設計図を取り出した。
机の上に広げる。
すると。
ばさっ!
設計図は元の大きさに戻った。
教科書。
羽根ペン。
インク瓶。
そして、アレクシスの机。
すべてが紙の下に消えた。
「おい!!」
隣から怒鳴り声がした。
「何だこれ!!」
「設計図よ!」
「見りゃ分かる!」
「私、これを作りたいの!」
「……何を?」
アレクシスは紙をめくった。
『全機能統合型・万能魔法装置』
「…………」
彼は、もう一度読んだ。
そして。
「……何だこれ」
「だから、魔法装置よ!」
「何でもできるって書いてあるぞ!」
「そうよ!」
「……お前、これを作れるのか?」
「作れないわ!」
即答だった。
アレクシスは黙り込んだ。
エリザベートは続けた。
「だから、勉強するの!」
クラリスが笑った。
「それなら、まず簡単な装置から作ってみたら?」
「簡単な?」
「ええ。フィオナが作っていた魔法灯みたいなものよ」
「……なるほど!」
エリザベートは頷いた。
「では、まず魔法灯を作るわ!」
アレクシスは、ようやく設計図を片づけた。
「……最初からそうしろよ」
◇
午前十一時。
魔法工学実習室。
フィオナは、小さな魔法灯を分解していた。
その横にはルークとセシリアもいる。
「……これが魔力供給回路です」
フィオナが説明した。
「魔法石から取り出した魔力を、発光術式へ送ります」
「へえ!」
ルークは目を輝かせた。
「じゃあ、ここを外したらどうなるんだ?」
「灯りが消えます」
「なるほど!」
セシリアが尋ねる。
「供給する魔力が多すぎた場合は?」
「制御回路が正常なら、一定以上の魔力は流れないようになっています」
「……正常でなければ?」
フィオナは少し考えた。
「装置が壊れる可能性があります」
「……そうですか」
そのとき。
「フィオナ!」
エリザベートが実習室へ入ってきた。
「私にも教えてちょうだい!」
「エリザベート様!」
フィオナは嬉しそうに立ち上がった。
「もちろんです!」
「ありがとう!」
エリザベートは椅子に座った。
そして、分解された魔法灯を覗き込んだ。
「……ずいぶん小さいのね」
「はい」
「これを組み立てれば光るの?」
「そうです!」
「まあ!」
エリザベートは目を輝かせた。
「では、やってみるわ!」
少女は部品を手に取った。
一つ目。
二つ目。
三つ目。
そして。
「……あら?」
首を傾げた。
「何か余ったわ」
フィオナが覗き込む。
「……それ、制御回路です」
「そうなの?」
「はい」
「なくてもいいの?」
「駄目です!」
「……あら」
エリザベートは慌てて部品を戻した。
ルークが笑った。
「難しいな!」
「本当ね!」
二人が笑い合う。
セシリアも微笑んだ。
そのときだった。
ぱちん。
小さな音がした。
天井の魔法灯が、一瞬だけ暗くなった。
「……あれ?」
フィオナが顔を上げた。
次の瞬間。
ぱちん。
ぱちん。
実習室の魔法灯が、次々と消えた。
◇
「……停電?」
ルークが尋ねた。
「魔力供給が止まったのかもしれません」
フィオナは窓の外を見た。
校庭の向こう。
別の校舎でも、魔法灯が消えていく。
一つ。
また一つ。
そして。
学院全体を覆っていた薄い防護結界が、音もなく消失した。
「……おかしい」
フィオナが呟いた。
「どうしたの?」
エリザベートが尋ねる。
「学院の魔力供給は、いくつかの系統に分かれています」
「そうなの?」
「はい。だから、一つの装置が壊れただけで、全部の施設が止まることはないはずなんです」
そのとき。
廊下から悲鳴が響いた。
「誰か!!」
全員が振り返った。
「先生を呼んで!!」
ルークが立ち上がる。
「行こう!」
セシリアも杖を取った。
エリザベートは、机の上に置かれた魔法灯を見た。
そして。
「……フィオナ」
「はい?」
「これ、持っていきましょう」
「……え?」
「暗くなったら困るでしょう?」
フィオナは頷いた。
「……はい!」
◇
廊下には、一人の男子生徒が倒れていた。
制服の胸元には、学院の校章。
年齢は十六歳ほど。
右手には銀色の腕輪がはめられている。
そして。
その腕輪から、赤い光が漏れていた。
「……っ!」
セシリアが駆け寄った。
「大丈夫ですか!」
男子生徒は、苦しそうに息をしている。
「……外して」
「え?」
「これ……外して……!」
セシリアは腕輪を確認した。
しかし。
「……外れません」
金属の輪が、皮膚に密着していた。
無理に引き剥がせば、腕を傷つける可能性がある。
ルークが剣を抜いた。
「切るか!?」
「待ってください!」
フィオナが叫んだ。
「その腕輪、魔力回路が刻まれています!」
「……だから?」
「壊したときに何が起きるか分かりません!」
ルークは剣を止めた。
男子生徒が呻いた。
「……頼む……」
セシリアは杖を構えた。
「《治癒》」
淡い光が生まれた。
しかし。
その光は、男子生徒の腕輪へ吸い込まれていった。
「……え?」
セシリアは目を見開いた。
もう一度。
《治癒》。
だが。
結果は同じだった。
「……魔力が」
彼女は顔を上げた。
「私の魔力まで、吸い取られています」
◇
「触らないで!」
エリザベートの声が響いた。
全員が振り返った。
少女は、男子生徒の腕輪を見つめていた。
「それ、魔力を持っていってしまうのでしょう?」
「……はい」
フィオナが答えた。
「では、触ったら駄目よ!」
エリザベートは、セシリアの腕をそっと引いた。
「あなたまで倒れたら、困るじゃない」
「……エリザベート様」
セシリアは、少し驚いた顔をした。
そのとき。
男子生徒が、震える声で呟いた。
「……僕が」
「なあに?」
エリザベートが尋ねる。
「……僕が、悪いんです」
「どうして?」
「……契約したから」
「契約?」
「……昨日、研究会で……」
フィオナの表情が変わった。
「……まさか」
少年は、小さく頷いた。
「……魔力を、増やしてくれるって」
「…………」
「……だから、僕……」
その言葉が終わる前に。
腕輪が強く光った。
「……っ!」
男子生徒の身体が跳ねた。
「危ない!」
ルークが駆け寄る。
しかし。
その瞬間。
「待って」
静かな声がした。
レオンだった。
いつの間にか、廊下の奥に立っている。
ルークが振り返る。
「……レオンさん?」
レオンは、男子生徒の腕輪を見た。
そして。
「そのままでは、外せません」
短く告げた。
それだけだった。
◇
「……どういうことですか?」
フィオナが尋ねた。
レオンは、腕輪に刻まれた術式を指さした。
「供給先があります」
「……供給先?」
フィオナは腕輪を覗き込んだ。
そして、目を見開いた。
「……あっ!」
術式の一部が、廊下の壁へ伸びている。
正確には、壁の内部を通る魔力供給回路へ接続されていた。
「……学院の設備に」
フィオナが呟いた。
「つながってる……!」
そのとき。
廊下の反対側から、教師たちが駆けつけてきた。
「全員、離れなさい!」
魔法工学担当の教師が声を上げる。
「その装置に近づいてはいけません!」
ルークたちは、男子生徒から距離を取った。
ただし。
一人だけ。
その場を離れなかった。
エリザベートだった。
「……エリザベート様!」
教師が叫ぶ。
「危険です!」
「知っているわ!」
少女は頷いた。
「だから、早く外してあげて!」
「現在、対処方法を確認しております!」
「そうなの?」
「はい!」
エリザベートは、男子生徒を見た。
苦しそうに息をしている。
顔は青白い。
腕輪の光は、少しずつ強くなっていた。
少女は、しばらく黙っていた。
そして。
「……ねえ」
男子生徒へ声をかけた。
「あなた、お名前は?」
「……え?」
「お名前よ」
少年は、苦しそうに答えた。
「……ノエル」
「ノエル?」
「……はい」
「そう」
エリザベートは頷いた。
「では、ノエル」
「……はい」
「私の手を握りなさい」
教師が息を呑んだ。
「エリザベート様!」
「大丈夫よ!」
少女は右手を差し出した。
ノエルは、その手を見つめた。
しかし。
「……駄目です」
小さく首を振った。
「……魔力が、吸われます」
「そうなの?」
「……はい」
エリザベートは少し考えた。
そして。
「では、魔法を使わなければいいわ!」
「…………」
「ただ、手を握るだけよ」
ノエルは、目を瞬かせた。
「……どうして?」
エリザベートは首を傾げた。
「どうしてって……」
少し考えた。
そして。
「あなた、怖いのでしょう?」
「…………」
「私も、知らないことは怖いわ」
ノエルの目から、涙がこぼれた。
「……僕」
「なあに?」
「……助かりますか」
エリザベートは、すぐには答えなかった。
その代わり。
「分からないわ」
静かに言った。
ノエルは俯いた。
しかし。
「でも」
少女は続けた。
「みんなが助けようとしているでしょう?」
教師たち。
フィオナ。
ルーク。
セシリア。
そして、レオン。
エリザベートは、その全員を見た。
「だから、あなたも頑張りなさい」
「…………」
「一人で怖がっていたら、つまらないじゃない」
ノエルは、ゆっくりと手を伸ばした。
そして。
少女の手を握った。
◇
「……原因が分かりました!」
フィオナが声を上げた。
教師が振り返る。
「何だね!?」
「この腕輪、学院の魔力供給回路を通じて、別の装置へ魔力を送っています!」
「……別の装置?」
「はい!」
フィオナは術式を指さした。
「でも、ただ送っているだけじゃありません!」
「どういうことだ?」
「この人自身の魔力も、一緒に流しているんです!」
教師の顔色が変わった。
「……何だと?」
「供給される魔力を増やすための装置じゃありません」
フィオナは、震える声で続けた。
「……魔力を流すために、人間を使っているんです」
沈黙。
教師は、すぐに指示を出した。
「学院の魔力供給を停止しろ!」
しかし。
「駄目です!」
別の教師が叫んだ。
「供給を急に止めれば、装置内部に残った魔力が逆流する可能性があります!」
「……っ!」
廊下が騒然となった。
そのとき。
「先生!」
エリザベートが声を上げた。
「何でしょう!」
「この人を助けるには、どうすればいいの?」
教師は、少し考えた。
「……腕輪へ流れる魔力を、徐々に減らす必要があります」
「そうなのね!」
エリザベートは頷いた。
そして、フィオナを見た。
「あなた、できる?」
「……私が?」
「ええ!」
フィオナは、腕輪を見つめた。
複雑な術式。
見たことのない回路。
そして、絶え間なく流れる魔力。
「……分かりません」
小さく答えた。
エリザベートは頷いた。
「そう」
そして。
「では、先生と一緒に考えましょう!」
「…………」
フィオナは顔を上げた。
エリザベートは続けた。
「あなた、魔法装置が好きなのでしょう?」
「……はい」
「先生は、あなたよりたくさん知っているわ!」
「……はい」
「なら、二人で考えればいいじゃない!」
フィオナは、少しだけ笑った。
「……そうですね」
教師も頷いた。
「では、始めよう」
◇
十分後。
「……できた!」
フィオナが声を上げた。
教師が確認する。
腕輪から伸びる供給回路。
その途中へ、新しい制御術式が追加されていた。
学院の設備から供給される魔力を、少しずつ減らす。
同時に、男子生徒自身から流れ出る魔力も遮断する。
「……よし」
教師が頷いた。
「実行するぞ」
フィオナは、緊張した面持ちで頷いた。
「……はい!」
制御術式が起動した。
腕輪の光が弱まる。
一段階。
二段階。
三段階。
そして。
ぱきん。
小さな音がした。
腕輪の中央に、亀裂が入った。
次の瞬間。
光が消えた。
「…………」
廊下が静まり返った。
ノエルは、ゆっくりと顔を上げた。
「……あれ?」
右手。
腕輪は、何の力も持たない金属の輪になっていた。
教師が近づく。
「……外せるか?」
ノエルは、震える手で腕輪を引いた。
するり。
金属の輪が外れた。
「…………」
そして。
「……外れた」
小さく呟いた。
「……外れました!」
フィオナが声を上げた。
ルークが拳を握る。
「やった!」
セシリアも、ほっと息を吐いた。
「……よかった」
教師たちが、男子生徒の状態を確認し始めた。
ノエルは、まだエリザベートの手を握っていた。
「……あの」
「なあに?」
「……ありがとうございます」
エリザベートは微笑んだ。
「どういたしまして!」
そして。
「でも、ノエル」
「……はい」
「そろそろ手を離してちょうだい」
「……え?」
「私、次の授業があるの!」
「…………」
ノエルは目を瞬かせた。
そして。
小さく笑った。
「……はい」
二人の手が、ゆっくりと離れた。
◇
午後二時。
学院長室。
「……三名」
マリアンヌは、報告書を見つめていた。
「はい」
教師が答える。
「今回の装置を使用していた生徒は、現在までに三名確認されています」
「全員、無事でしょうか」
「はい。身体の状態は安定しています」
「それは何よりです」
マリアンヌは、静かに頷いた。
「装置については?」
「学院の魔力供給設備と接続されていました」
「……なるほど」
「現在、すべての接続を遮断しております」
「承知いたしました」
マリアンヌは書類を閉じた。
そして。
「では、王国の調査機関へ正式に報告してください」
「……はい」
「また、学院内で使用されている外部製の魔法装置について、緊急点検を実施します」
「承知しました」
「それから」
マリアンヌは顔を上げた。
「今回の事故に関わった生徒たちについてですが」
「……はい」
「事情を確認するまでは、処分を決定しないでください」
教師は、少し驚いた。
「……よろしいのですか?」
「はい」
「しかし、学院の設備を無断で使用したことは……」
「もちろん、調査する必要がございます」
マリアンヌは頷いた。
「ですが」
静かに続けた。
「研究協力への同意と、危険な装置の使用について十分に理解していたかどうかは、別の問題です」
教師は黙った。
そして、深く頭を下げた。
「……承知いたしました」
◇
その日の夕方。
王都中央研究会館。
地下研究室。
「……失敗したそうです」
助手が報告した。
ガルドは、机の上の記録を見つめていた。
「そうか」
「装置は三基とも停止しました」
「……なるほど」
「学院側が、原因を特定したようです」
ガルドは頷いた。
「……そうだろうね」
助手は、少し不思議そうな顔をした。
「……驚かれないのですか?」
「何を?」
「装置が停止したことをです」
ガルドは、静かに笑った。
「……停止したこと自体は、問題ではない」
「……え?」
「今回、知りたかったのは別のことだ」
男は、一枚の記録を取り出した。
そこには、三人の生徒の測定結果が書かれていた。
魔力量。
適性。
制御技術。
そして。
外部魔力の受容量。
助手は、記録を見つめた。
「……これは」
「そう」
ガルドは頷いた。
「魔力量の少ない人間でも、外部から供給された魔力を受け取ることはできる」
「……はい」
「だが、それだけではない」
男は、最後の項目を指さした。
「今回、三人のうち一人だけ、異常な数値を示した」
「……異常?」
「そうだ」
そこには、他の二人とは比較にならない数値が記されていた。
助手は、思わず声を上げた。
「……あり得ません!」
「私も、そう思ったよ」
ガルドは微笑んだ。
「だが、記録には残っている」
「……計測器の故障では?」
「その可能性もある」
「……では」
「だから、もう一度調べる必要がある」
男は、静かに立ち上がった。
「それに」
「……はい」
「興味深い報告が、もう一つ届いている」
「……何でしょう」
ガルドは、別の書類を差し出した。
それは、今回の事故についてまとめられた目撃証言だった。
『事故発生時、公爵令嬢エリザベート・フォン・アルヴェインが現場に居合わせた』
『装置使用者の手を取り、救助活動に立ち会った』
ガルドは、その文章を見つめた。
「……アルヴェイン公爵家」
小さく呟く。
「実に興味深い家だ」
◇
その夜。
アルヴェイン公爵邸。
「セバスチャン!」
「はい、お嬢様」
「今日はね、男の子を助けたの!」
「左様でございますか」
「ええ!」
エリザベートは嬉しそうに頷いた。
「フィオナも、先生も、とっても頑張ったのよ!」
「それは何よりでございます」
「私、何もできなかったけれど!」
「…………」
セバスチャンは、静かに微笑んだ。
「そのようなことはございません」
「そうなの?」
「はい」
エリザベートは、少し考えた。
「……でも、私、腕輪を外せなかったわ」
「左様でございますか」
「それに、魔法も使えなかったの」
「……はい」
少女は、しばらく黙っていた。
そして。
「……だから」
顔を上げた。
「明日も勉強するわ!」
セバスチャンは、深く頭を下げた。
「かしこまりました」
エリザベートは満足そうに笑った。
その後。
彼女は自室へ戻り、教科書を開いた。
魔力供給。
制御術式。
外部供給回路。
今日、実際に目にしたものばかりだった。
「……難しいわね」
少女は小さく呟いた。
そして。
ふと、右手を見た。
今日、ノエルが握っていた手。
何の変哲もない、自分の手。
「……ふふっ」
エリザベートは、楽しそうに笑った。
「明日は、何ができるようになるのかしら!」
その頃。
王立魔法学院の学生寮では。
ノエルが、静かに眠っていた。
腕輪は、もうない。
痛みもない。
ただ。
彼の机の上には、一枚の紙が置かれていた。
『魔力測定結果』
そこには。
事故前の数値と、事故後の数値が記されている。
そして。
その二つは。
まったく同じではなかった。
――第九十話・完




