第八十三話 悪役令嬢は飛行魔法を知らない
悪役令嬢は愛されている
第八十三話 悪役令嬢は飛行魔法を知らない
「私、空を飛べるわ!」
王立魔法学院。
午前九時。
魔法学の講義室に、エリザベートの声が響いた。
「…………」
教師は手にしていた教科書を閉じた。
「……エリザベート様」
「なあに?」
「今、何とおっしゃいましたか?」
「空を飛べるの!」
「…………」
教師は黒板を振り返った。
そこには、本日の授業内容が書かれている。
『飛行魔法の基礎理論』
「……なるほど」
教師は小さく頷いた。
「では、本日は大変よい教材がございますね」
「まあ!」
エリザベートは嬉しそうに笑った。
一方。
隣の席に座るアレクシスは、嫌な予感がしていた。
◇
飛行魔法。
それは、魔法学において最も研究が進んでいる分野の一つだった。
しかし同時に、実用化が難しい魔法でもある。
「皆さん。人間が空を飛ぶには、何が必要でしょうか」
教師が尋ねた。
クラリスが手を挙げる。
「身体を浮かせる力です」
「そのとおりです」
教師は黒板に人間の絵を描いた。
その下には、地面へ向かう矢印。
「人間には常に重力が作用しています。飛行魔法では、まずこの力に逆らう必要があります」
続いて、上向きの矢印が描かれる。
「しかし、身体を浮かせることと、空を飛ぶことは違います」
「違うの?」
エリザベートが尋ねた。
「はい。浮かぶだけでは、目的地へ移動できません」
「そうね!」
「さらに、姿勢を維持し、速度を制御し、着地する必要があります」
教師は四つの項目を書き出した。
『浮上』
『推進』
『姿勢制御』
『着地』
「これらを同時に行うため、飛行魔法には高度な制御技術が求められます」
アレクシスが頷いた。
「だから普通は、飛行魔法を単独で使わないんですよね」
「そのとおりです」
教師は微笑んだ。
「飛行用の魔道具を利用したり、地上から補助魔法を受けたりする方法が一般的です」
エリザベートは真剣に黒板を見つめていた。
「……先生」
「はい」
「空を飛ぶのって、大変なのね」
「そうですね」
「知らなかったわ!」
「…………」
教師は少し考えた。
「……エリザベート様」
「なあに?」
「先ほど、空を飛べるとおっしゃいましたね」
「ええ!」
「どのような術式をお使いでしょうか」
「術式?」
「はい」
エリザベートは首を傾げた。
「……使っていないわ」
教室が静かになった。
「……使っていない?」
「ええ!」
「では、魔道具を?」
「持っていないわ!」
教師は眼鏡を外した。
アレクシスが額を押さえる。
「……始まった」
◇
「では、実際に見せていただけますか?」
教師の言葉に、エリザベートは嬉しそうに頷いた。
「もちろんよ!」
生徒たちは学院の実習場へ移動した。
広い芝生。
周囲には安全用の結界が設置されている。
飛行魔法の実習では、万一の落下に備えることが義務づけられていた。
「それでは、エリザベート様」
「ええ!」
少女は実習場の中央へ歩いた。
教師が尋ねる。
「準備はよろしいですか?」
「いつでもいいわ!」
「では、お願いします」
エリザベートは目を閉じた。
そして。
「私、空より軽いわ!」
ふわり。
身体が浮いた。
一メートル。
三メートル。
五メートル。
「…………」
教師は口を開けた。
生徒たちは空を見上げた。
そして、エリザベートは。
「ふふっ!」
空中で一回転した。
「今日はいいお天気ね!」
「…………」
アレクシスは、しばらく黙っていた。
「……おい」
クラリスが頷く。
「……ええ」
「飛んでるな」
「飛んでるわね」
「……何で?」
「私に聞かないで」
その上空では、エリザベートが楽しそうに手を振っていた。
「クラリス!」
「なあに!?」
「あなたも来ない?」
「行けないわよ!」
「まあ! そうだったわね!」
エリザベートは笑った。
そして、そのままゆっくりと降りてきた。
足が地面に触れる。
「どうだったかしら!」
沈黙。
やがて、教師が口を開いた。
「……素晴らしいですね」
「でしょう!」
「ですが、一つ確認させてください」
「ええ!」
「魔力の消費は、どの程度でしたか?」
エリザベートは首を傾げた。
「……分からないわ」
「分からない?」
「ええ!」
「……では、疲労感は?」
「ないわ!」
「……術式の展開は?」
「していないわ!」
「…………」
教師は記録用紙を取り出した。
そして、しばらく考えた後。
『飛行を確認』
とだけ記入した。
それ以上は、書けなかった。
◇
午前十時。
魔法学研究室。
「つまり、先生にも分からないのね!」
エリザベートは楽しそうに言った。
「……現時点では」
教師は頷いた。
「ですが、分からないことがあるのは、研究において珍しいことではありません」
「そうなの?」
「はい」
教師は黒板に二つの文章を書いた。
『観測された現象』
『現象を説明する理論』
「例えば、空を飛ぶ鳥は、魔法を使っていません」
「そうね!」
「しかし、鳥が飛ぶ仕組みを知らなかった時代の人々にとって、その現象は不思議なものだったでしょう」
「なるほど!」
「つまり、何かが起きたことと、その仕組みを理解していることは別なのです」
エリザベートは頷いた。
「では、私が飛んだことは分かるけれど、どうして飛べたのかは分からないのね!」
「そのとおりです」
教師は微笑んだ。
「そして、分からないからといって、すぐに既存の魔法理論が間違っていると結論づけることもできません」
「……どうして?」
「まだ調べていないことがあるからです」
「なるほど!」
エリザベートは教科書を開いた。
そして、書き込んだ。
『できることと、分かることは違う』
その横で、アレクシスが呟いた。
「……お前、それ誰に教わったんだ?」
「空を飛ぶ方法?」
「ああ」
「リリィよ!」
「……リリィ?」
「ええ! とっても可愛らしい女の子なの!」
「……その子、魔術師なのか?」
「知らないわ!」
「知らないのかよ!」
エリザベートは不思議そうに首を傾げた。
「でも、飛べるわよ?」
「……そうかよ」
アレクシスは、それ以上聞くのをやめた。
聞いたところで、分かる気がしなかった。
◇
正午。
学院図書館。
「……あっ!」
エリザベートは、書架の向こうに見覚えのある少女を見つけた。
昨日、公開講習に参加していた少女だった。
古びた鞄を抱え、机に向かっている。
「あら、あなた!」
「……え?」
少女は顔を上げた。
そして、慌てて立ち上がった。
「エ、エリザベート様!」
「今日も来ていたのね!」
「は、はい!」
「勉強しているの?」
「……はい」
少女は小さく頷いた。
「入学試験の準備を……」
「まあ!」
エリザベートは嬉しそうに笑った。
「私と一緒ね!」
「……え?」
「私も七十点を取らないといけないの!」
少女は思わず笑った。
「……そうでしたね」
「ええ!」
エリザベートは向かいの椅子に座った。
「ところで、あなたのお名前は?」
「あっ、申し遅れました!」
少女は姿勢を正した。
「フィオナ・リードと申します」
「フィオナ!」
「はい」
「素敵な名前ね!」
「……ありがとうございます」
フィオナは頬を赤くした。
エリザベートは机の上の本を覗き込んだ。
『初級魔法装置設計』
「難しそうな本ね」
「……はい」
「面白い?」
フィオナは少し迷った。
そして。
「……とても」
小さく答えた。
「まあ!」
エリザベートは目を輝かせた。
「では、私にも教えてちょうだい!」
「…………え?」
◇
「魔法装置には、魔力を蓄える部分と、魔力を使って現象を起こす部分があります」
フィオナは本を開いた。
「例えば、魔法灯なら、魔法石から魔力を取り出して、発光の術式へ送ります」
エリザベートは頷いた。
「昨日、先生が教えてくださったわ!」
「はい」
「でも、それなら誰でも使えるのでしょう?」
「……それが」
フィオナは少し困った顔をした。
「魔法石には、魔力を蓄えられる量が決まっているんです」
「そうね」
「だから、長い時間使うには、何度も交換したり、魔力を補充したりしないといけません」
「……面倒ね」
「はい」
フィオナは頷いた。
「それに、魔法石は安くありません」
「……そうなの?」
「はい」
「では、安くすればいいわ!」
「……え?」
「お金がかからなくなれば、みんな使えるでしょう?」
フィオナは少し考えた。
「……そうですね」
そして、教科書の図を指さした。
「でも、どうすれば安く作れるのか、まだ分からないんです」
「……なるほど」
エリザベートは考え込んだ。
「では、作り方を変えればいいのではなくて?」
「……それを考えているんです」
「まあ!」
エリザベートは嬉しそうに笑った。
「あなた、賢いのね!」
「……え?」
「だって、私が今考えたことを、もう考えていたのでしょう?」
フィオナは目を瞬かせた。
そして、小さく笑った。
「……でも、まだ何も作れていません」
「そうなの?」
「はい」
「では、これから作ればいいわ!」
「…………」
フィオナは、しばらくエリザベートを見つめた。
そして。
「……はい」
嬉しそうに頷いた。
◇
「何してんだ、お前ら」
アレクシスが図書館へ入ってきた。
その後ろにはクラリスもいる。
「あら、アレクシス!」
エリザベートは手を振った。
「今ね、魔法灯を作っているの!」
「……作ってる?」
机の上には、本と紙しかなかった。
「どこに?」
「ここよ!」
エリザベートは一枚の紙を掲げた。
そこには、大きな文字が書かれていた。
『安くて便利な魔法灯』
「…………」
アレクシスは紙を見つめた。
「……それだけ?」
「ええ!」
「……設計図は?」
「これからよ!」
「……そうか」
彼は椅子に座った。
「じゃあ、まず何が必要なんだ?」
フィオナが慌てて答えた。
「魔力を蓄える装置と、発光術式、それから魔力の供給量を調整する回路が必要です」
「……へえ」
アレクシスは少し驚いた。
「詳しいな」
「……本で勉強しました」
「そうか」
彼は紙を一枚取った。
「じゃあ、まず必要な魔力量を計算するところからだろ」
「……はい!」
フィオナが頷く。
クラリスも椅子に座った。
「それなら、使う場所も決めた方がいいんじゃないかしら」
「使う場所?」
エリザベートが尋ねた。
「ええ。部屋を照らすのと、夜道を歩くときに使うのでは、必要な明るさが違うでしょう?」
「なるほど!」
「それに、持ち運ぶなら重さも考えないと」
「……そうですね」
フィオナは急いで書き留めた。
アレクシスが尋ねる。
「フィオナ、お前は何に使いたいんだ?」
「……私は」
フィオナは少し考えた。
「夜でも、本を読みたいんです」
「……本?」
「はい」
少女は頷いた。
「家では、夜に使える灯りがあまりなくて……」
「そうなの?」
エリザベートが尋ねた。
「はい」
「では、私の家に来ればいいわ!」
「…………」
「図書室があるのよ!」
アレクシスが即座に口を開いた。
「おい」
「なあに?」
「そういう話じゃねえだろ」
「……違うの?」
「こいつは、自分の家で本を読みたいんだよ」
「…………」
エリザベートはフィオナを見た。
「そうなの?」
「……はい」
「……なるほど」
少女は少し考えた。
そして、紙に新しく書き込んだ。
『家で本を読むための魔法灯』
「これでいいわね!」
フィオナは嬉しそうに笑った。
「はい!」
クラリスが微笑む。
「じゃあ、どのくらい明るければいいのか、調べましょう」
「ええ!」
こうして、四人の勉強会が始まった。
一人は魔法理論が得意だった。
一人は貴族としての教養が深かった。
一人は魔法装置に詳しかった。
そして、もう一人は。
「ねえ、アレクシス!」
「何だよ」
「魔法石を百個買えば、解決するかしら!」
「しねえよ!!」
お金で解決する方法を、まだ諦めていなかった。
◇
午後三時。
学院長室。
「……学習会、でございますか」
マリアンヌは報告書を読んでいた。
「はい」
担当教師が答える。
「エリザベート様を中心に、四名の生徒が魔法灯の設計について話し合っております」
「それは素晴らしいですね」
「ただし、一名は入学予定者です」
「……なるほど」
「フィオナ・リード。昨日の公開講習に参加した少女です」
マリアンヌは頷いた。
「覚えております」
「理論への理解は高いのですが、魔力の制御に難がございます」
「はい」
「今回の学習会では、装置の構造について、在校生にも説明していたようです」
マリアンヌは微笑んだ。
「……それは、よいことですね」
教師は少し考えた。
「学院長」
「はい」
「一つ、ご相談がございます」
「何でしょう」
「このような生徒を、今までの入学試験では十分に評価できていたのでしょうか」
マリアンヌは、すぐには答えなかった。
机の上に置かれた選考基準を開く。
魔力量。
術式理解。
制御技術。
基礎学力。
それぞれに評価項目が設けられている。
「……試験には、目的がございます」
彼女は静かに言った。
「はい」
「入学後の教育に必要な基礎能力を、確認することです」
「……はい」
「ですが、同じ能力が低くても、その理由は人によって異なります」
教師は頷いた。
「……そうですね」
「必要な知識を知らない者もいれば、知識はあっても実技が不得意な者もおります」
マリアンヌは書類を閉じた。
「その違いを理解せずに選抜すれば、育てられるはずの人材を見逃すかもしれません」
「…………」
「もっとも」
マリアンヌは微笑んだ。
「だからといって、合格基準を満たさない者を無条件で入学させるわけにもまいりません」
「はい」
「大切なのは、何が不足しているのかを明らかにすることでしょう」
教師は深く頷いた。
「承知いたしました」
「今年の入学試験では、各項目の評価結果を、できる限り具体的に記録してください」
「はい」
「そして、不合格となった者にも、次に何を学ぶべきか伝えられるようにしましょう」
教師は顔を上げた。
「……不合格者にも、ですか?」
「はい」
マリアンヌは静かに答えた。
「不合格とは、その者が将来にわたって学ぶ資格を失うことではございませんから」
教師はしばらく黙っていた。
そして、深く頭を下げた。
「……承知いたしました」
◇
その頃。
公爵邸の書斎では、オスカー・ベルンハルトが一通の書簡を読んでいた。
差出人は、以前から付き合いのある外部研究団体だった。
内容は、王立魔法学院の研究設備についての問い合わせ。
春季入学式に合わせて、研究施設を利用したいというものだった。
「……ふむ」
オスカーは書簡を机に置いた。
かつて学院長だった頃、自分は多くの外部研究者と協力してきた。
学院の予算だけでは賄えない研究。
高価な魔法装置。
特殊な術式の解析。
そうした研究を進めるには、外部との協力が必要だった。
それ自体は、今でも正しい判断だったと思っている。
しかし。
協力することと、自由に利用させることは違う。
「……春季入学式ですか」
オスカーは小さく呟いた。
学院には、新たに多くの生徒が入ってくる。
外部の研究者が設備を利用するなら、安全管理についても改めて確認する必要がある。
彼は羽根ペンを取った。
そして、書簡の余白に記した。
『施設利用については、現学院長の承認を必要とする』
さらに一文。
『新入生を対象とする研究活動は、別途審査を要する』
書き終えると、オスカーは封筒を閉じた。
「……これでよいでしょう」
彼は、静かに頷いた。
◇
午後四時。
学院図書館。
「できたわ!」
エリザベートが声を上げた。
「静かにしろ!」
アレクシスが即座に注意する。
「……あら」
エリザベートは口元に手を当てた。
「図書館だったわね」
「そうだよ!」
クラリスが笑いながら尋ねた。
「それで、何ができたの?」
「これよ!」
エリザベートは一枚の紙を広げた。
そこには、四人で考えた魔法灯の構造が描かれていた。
魔法石。
発光術式。
魔力供給回路。
そして、明るさを調整する仕組み。
もちろん、まだ完成したわけではない。
消費魔力量も、必要な材料も、十分には分かっていない。
しかし。
「……すごい」
フィオナが小さく呟いた。
「どうしたの?」
エリザベートが尋ねる。
「私、一人ではここまで考えられませんでした」
「まあ!」
「ありがとうございます」
フィオナは深く頭を下げた。
エリザベートは首を傾げた。
「……どうして私にお礼を言うの?」
「え?」
「だって、私も分からないことばかりだったわ!」
「……でも」
「クラリスも教えてくれたし、アレクシスも教えてくれたでしょう?」
「……はい」
「それに、あなたがいなければ、何を作ればいいのかも分からなかったわ!」
フィオナは目を瞬かせた。
「……私が?」
「ええ!」
エリザベートは微笑んだ。
「あなたが本を読みたいって言ったから、これを考えたのでしょう?」
「…………」
フィオナは、しばらく紙を見つめていた。
そして。
「……はい」
小さく笑った。
「そうですね」
クラリスも微笑む。
「まだ設計の途中だけど、次は先生に見てもらいましょう」
アレクシスが頷いた。
「安全性の確認も必要だな」
「そうね!」
エリザベートは満足そうに頷いた。
そして。
「では、明日も集まりましょう!」
「……おい」
アレクシスが顔を上げた。
「何かしら?」
「お前、自分の勉強は?」
「……あら」
「七十点取るんじゃなかったのか?」
「…………」
エリザベートは、しばらく黙った。
そして。
「……忘れていたわ!」
「忘れるなよ!!」
図書館に、アレクシスの声が響いた。
「静かにしてください!」
司書の注意が飛んだ。
「……すみません」
アレクシスは深く頭を下げた。
クラリスとフィオナは、声を殺して笑っていた。
◇
その日の夜。
アルヴェイン公爵邸。
「セバスチャン」
「はい、お嬢様」
「私、今日は空を飛ぶ勉強をしたわ!」
「左様でございますか」
「ええ!」
エリザベートは楽しそうに語った。
「空を飛ぶには、いろいろな魔法が必要なんですって!」
「なるほど」
「でも、私にはよく分からなかったの」
「左様でございますか」
「だから、これから調べるわ!」
セバスチャンは微笑んだ。
「それは何よりでございます」
エリザベートは窓の外を見た。
夜空には、星が輝いている。
「……ねえ、セバスチャン」
「はい」
「星って、どうして空に浮かんでいるのかしら?」
老執事は、少しだけ考えた。
「……それについては、様々な説がございます」
「そうなの?」
「はい」
「では、明日先生に聞いてみるわ!」
「かしこまりました」
少女は嬉しそうに頷いた。
そして、窓を開けた。
「ちょっと飛んでくるわね!」
「かしこまりました」
ふわり。
エリザベートの身体が浮いた。
そのまま夜空へと昇っていく。
一メートル。
五メートル。
十メートル。
そして。
「……ふふっ!」
少女は星を見上げた。
「あなたたちは、どうやって浮いているの?」
答えはない。
けれど、彼女は気にしなかった。
「……私も、まだ知らないことがたくさんあるわね」
小さく笑う。
そのまま、夜空をゆっくりと飛んでいく。
魔力を込めることもなく。
術式を唱えることもなく。
ただ、当たり前のように。
◇
同じ頃。
王立魔法学院。
一人の教師が、今日の授業記録をまとめていた。
『飛行魔法実習』
『対象者:エリザベート・フォン・アルヴェイン』
『飛行高度:約五メートル』
『姿勢制御:良好』
『着地:問題なし』
そこまでは、何もおかしくなかった。
教師は、次の項目に目を移した。
『使用術式』
彼は羽根ペンを止めた。
そして、ゆっくりと記入した。
『不明』
次の項目。
『魔力供給方法』
再び、筆が止まる。
『不明』
そして、最後の項目。
『飛行原理』
教師は長い間、考えていた。
結局。
そこにも、同じ言葉を記入した。
『不明』
「…………」
彼は記録用紙を見つめた。
そして、机の上に置かれた教科書を開いた。
『魔法は、魔力を用いて現象へ干渉する技術である』
授業で何度も教えてきた言葉だった。
間違っているとは思わない。
現に、数多くの魔法がこの原理によって説明できる。
しかし。
今日、彼が見た少女は。
その原理を使っているのかどうかさえ、分からなかった。
教師は小さく息を吐いた。
「……明日、学院長に相談しましょう」
そして、記録用紙を封筒に収めた。
封筒の表には、こう書かれていた。
『未解明現象に関する観察記録』
誰も、まだ気づいていなかった。
その少女が、空を飛べるという事実よりも。
空を飛べる理由を、本人さえ知らないということの方が、ずっと奇妙なのだと。
――第八十三話・完




