第八十話 悪役令嬢は正解を知らない
悪役令嬢は愛されている
第八十話 悪役令嬢は正解を知らない
王立魔法学院には、三つの基礎教育課程が存在する。
魔法学。
王国統治学。
そして、貴族教養学。
これらは、将来どのような立場に就く生徒であっても、原則として履修しなければならない科目だった。
魔法学は、世界に存在する現象を理解するために。
王国統治学は、人々が暮らす社会を理解するために。
貴族教養学は、その社会の中で他者と関わるために。
それぞれ異なる目的を持っている。
そして本日。
これらの授業を、ある一人の生徒が熱心に受けようとしていた。
エリザベート・フォン・アルヴェイン。
王国屈指の名門、公爵家の令嬢。
王立魔法学院最高名誉総裁。
そして。
学院史上、最も多くの授業を中止させた生徒である。
「今日は何を教えてくださるのかしら!」
本人は、実に楽しそうだった。
◇
午前九時。
第一講義室。
「それでは、本日の魔法学を始めます」
教壇に立った教師が黒板に文字を書いた。
『魔法の成立条件』
「皆さん。魔法を使用するために必要なものは何でしょうか」
一人の生徒が手を挙げた。
「魔力です」
「そのとおりです。しかし、魔力があるだけでは魔法は成立しません」
教師は三つの言葉を書き加えた。
『魔力』
『術式』
『制御』
「魔力は現象を起こすためのエネルギーです。術式は、そのエネルギーをどのような現象へ変換するかを定めます。そして制御とは、その過程を安定させる技術です」
エリザベートは真剣に黒板を見つめていた。
「では、魔力量が大きければ、優秀な魔術師になれるのでしょうか?」
教師が尋ねる。
「なれると思います!」
生徒の一人が答えた。
「では、魔力量が百の者と、十の者がいたとします」
黒板に二人の人間が描かれた。
「前者が一つの魔法を使うのに二十の魔力を消費し、後者が五しか消費しない場合、同じ魔法を何回使えるでしょう?」
「五回と二回です」
「そうですね。では、十回魔法を使わなければならない仕事をするとしたら?」
「……どちらも足りません」
「そのとおり」
教師は頷いた。
「そこで必要になるのが、魔力の補充や術式の改良です」
エリザベートが手を挙げた。
「先生」
「はい、エリザベート様」
「魔力を使わない魔法は作れないの?」
教室が静かになった。
教師は少し考えた。
「少なくとも、現在の魔法理論では成立しません」
「どうして?」
「魔法が現象へ干渉する以上、そのためのエネルギーが必要だからです」
「では、他のところから魔力を持ってくればいいのではなくて?」
「それは可能です」
教師は新しく三つの図を描いた。
一つは人間。
一つは魔法石。
最後の一つは、魔力を蓄える装置だった。
「魔法を発動する者が、必ずしも魔力を供給する必要はありません。魔法石や外部装置から魔力を受け取ることもできます」
「まあ!」
エリザベートは目を輝かせた。
「それなら、誰でも魔法を使えるようになるの?」
「いいえ。魔力を供給できても、術式を正確に制御できなければ危険です」
「なるほど!」
彼女は教科書に何かを書き込んだ。
隣でクラリスが覗き込む。
『魔力を持ってくる方法を考える』
「……エリザベート」
「なあに?」
「それ、先生が今説明していたでしょう?」
「ええ。だから、もっと知りたいの」
クラリスは微笑んだ。
「そうね。私も知りたいわ」
その向こうでアレクシスが呟いた。
「……普通に授業が進んでる」
「何か問題でも?」
教師が尋ねる。
「いえ、何でもありません」
アレクシスは姿勢を正した。
昨日までの学院では、授業が最後まで進むこと自体が珍しかったのである。
◇
午前十時。
魔法実習室。
生徒たちの机には、小さな魔法灯が置かれていた。
「本日は、この灯りを一定の明るさで維持してもらいます」
教師が説明する。
「評価するのは、魔力消費量、明るさの安定性、そして持続時間です」
クラリスが杖を構えた。
「《灯火》」
小さな光が灯る。
淡い黄色の光は、ほとんど揺れなかった。
「素晴らしいですね。非常に安定しています」
「ありがとうございます」
続いて、アレクシス。
「《灯火》」
光が灯った。
クラリスのものより少し明るい。
「出力は十分ですが、魔力を少し使いすぎていますね」
「分かりました」
アレクシスは術式を調整した。
そして。
「私の番ね!」
エリザベートが杖を構えた。
教室が静まり返る。
「《灯火》!」
ぽんっ。
小さな光が灯った。
そして。
消えた。
「…………」
「…………」
「……あら?」
エリザベートは杖を見つめた。
「先生」
「はい」
「消えてしまったわ」
「そうですね」
「どうして?」
教師は魔法灯を確認した。
「術式の展開はできています。しかし、魔力の供給が途中で途切れていますね」
「そうなの?」
「はい。もう一度試してみましょう」
「分かったわ!」
エリザベートは杖を構え直した。
「《灯火》!」
ぽんっ。
消えた。
「……あら」
もう一度。
ぽんっ。
消えた。
さらにもう一度。
ぽんっ。
消えた。
アレクシスが腕を組んだ。
「……下手くそだな」
「アレクシス!」
クラリスが咎める。
しかし、エリザベートは怒らなかった。
「そうね!」
「……は?」
「私、下手なのね!」
「……ああ」
「では、上手にならないといけないわ!」
エリザベートは教師を振り返った。
「先生、もう一度教えてくださる?」
「もちろんです」
教師は彼女の手元を確認しながら説明した。
「魔力を一度に送り込むのではなく、一定の量を継続して流すことを意識してください」
「一定の量……」
「はい」
エリザベートは杖を構えた。
「《灯火》」
ぽっ。
小さな光が灯った。
一秒。
二秒。
三秒。
四秒。
五秒。
ぷつん。
「…………」
エリザベートは魔法灯を見つめた。
そして。
「五秒!」
満面の笑みを浮かべた。
「先生! 五秒もできたわ!」
「はい。先ほどより、ずっと上達していますよ」
「まあ!」
嬉しそうに笑うエリザベート。
教師は自然に微笑み返した。
彼女が繰り返し練習する姿を見ているうちに、相手が公爵令嬢であることを忘れていた。
一方。
アレクシスは複雑な顔をしていた。
「……なんだよ、それ」
「何が?」
「いや……」
彼は言葉を探した。
そして、結局何も言わなかった。
◇
午前十一時。
王国統治学。
「皆さん。領主の最も重要な仕事は何でしょうか」
教師が尋ねた。
「領地を守ることです」
「民の生活を保障することです」
「税を管理することです」
様々な答えが上がった。
教師は頷いた。
「どれも正解です。しかし、実際には、それらを同時に実現しなければなりません」
黒板に、一つの村の地図が描かれた。
川。
橋。
農地。
市場。
そして、二百戸ほどの住宅。
「この村では、先月の大雨によって橋が壊れました」
教師は橋の部分に印をつけた。
「修復費用は銀貨八十枚。しかし、村が今年度に使える予算は百枚しかありません」
「……足りますね」
クラリスが答えた。
「はい。ただし、残りの二十枚で一年間の治安維持、道路補修、その他の公共事業を賄わなければなりません」
教室がざわついた。
「それは難しいですね」
「そうでしょう」
教師は続けた。
「では、どうすればよいでしょうか」
エリザベートが手を挙げた。
「私が払えばいいのではなくて?」
沈黙。
教師は少し考えた。
「確かに、寄付を受ける方法はあります」
「でしょう?」
「しかし、来年も橋が壊れたら、どうしますか?」
「……また払えば?」
「エリザベート様がいらっしゃらなければ?」
「…………」
「そして、村が必要とするのは橋だけではありません。学校や診療所にも費用がかかります」
「……なるほど」
エリザベートは腕を組んだ。
「では、税金を増やせばいいわ」
「それも一つの方法です」
「でしょう!」
「しかし、税を増やせば、住民が自由に使えるお金は減ります」
「……そうね」
「そうすると、村の市場で物が売れなくなるかもしれません」
「……あら」
「市場の商人が村を離れる可能性もあります」
エリザベートは黙り込んだ。
しばらくして、尋ねた。
「……先生」
「はい」
「橋を直さないという選択もあるの?」
「もちろんあります」
「でも、それでは困るでしょう?」
「そうですね」
「……難しいわね」
教師は頷いた。
「それが、統治というものです」
エリザベートは黒板を見つめた。
そして。
「ねえ、アレクシス」
「……何だよ」
「あなたなら、どうする?」
アレクシスは少し驚いた。
「俺か?」
「ええ」
「……市場を使ってる商人から、橋の維持費を一部負担してもらう方法はある」
「どうして商人なの?」
「橋が直れば荷物を運べるだろ。商売ができるようになるんだから、利益を受ける側にも負担してもらうんだよ」
「なるほど!」
エリザベートは頷いた。
「あなた、賢いのね!」
「…………」
「…………」
アレクシスは固まった。
クラリスが口元を押さえた。
「……アレクシス?」
「……何だよ」
「顔、赤いわよ」
「赤くねえ!」
「まあ、どうしたの?」
「お前は黙ってろ!!」
教師が咳払いした。
「ただし、商人の負担を増やしすぎれば、別の道を使うようになるかもしれません」
「……ああ、そうか」
アレクシスは頭を掻いた。
教師は微笑んだ。
「大切なのは、誰が利益を受け、誰が負担し、その結果どのような変化が起こるかを考えることです」
エリザベートは教科書に書き込んだ。
『払えることと、払うべきことは違う』
それから、少し首を傾げた。
「……でも、お金が余っていたら、使ってもいいわよね?」
「もちろんです」
「よかった!」
エリザベートは満足そうに笑った。
教師は、その笑顔を見て少し不安になった。
◇
午後一時。
貴族教養学。
「本日は、茶会の席次について学びます」
教壇に立った女性教師が告げた。
「茶会は単なる社交の場ではありません。場合によっては、貴族同士の交渉の場にもなります」
エリザベートが手を挙げた。
「先生」
「はい」
「お茶を飲むだけでは駄目なの?」
「もちろん、親しい方同士で楽しむ茶会もございます」
「そうなのね!」
「ですが、公的な茶会では、招待する相手や席の配置に意味が生じることがあります」
教師は黒板に長いテーブルを描いた。
「例えば、対立している二つの伯爵家があったとしましょう」
左右に二つの家紋が描かれる。
「両家を同じ茶会に招く場合、どのような配慮が必要でしょうか」
クラリスが手を挙げた。
「事前に両家の関係を確認することです」
「そのとおりです」
「それから、席を離した方がよい場合もあると思います」
「素晴らしいですね」
エリザベートはクラリスを見た。
「クラリス、詳しいのね!」
「伯爵家でも、そういうことは勉強するもの」
「まあ!」
エリザベートは楽しそうに笑った。
「では、私も覚えなければいけないわね!」
クラリスは少し照れたように微笑んだ。
そのとき。
「エリザベート様」
教師が声をかけた。
「はい」
「では、あなたが両家を仲直りさせたい場合、どうなさいますか?」
エリザベートは少し考えた。
「……同じ席に座らせるわ」
「それは、なぜでしょう?」
「仲直りするなら、話をしなければいけないでしょう?」
教師は頷いた。
「確かに、対話の機会は重要ですね」
「でしょう?」
「ですが、相手が話し合いを望んでいなければ、どうなりますか?」
「…………」
「さらに、公爵令嬢であるあなたからの招待を、断りにくいと感じる方もいるでしょう」
「……どうして?」
「公爵家との関係を損ねたくないからです」
エリザベートは目を瞬かせた。
「……そうなの?」
「はい」
「……私、お茶を飲みたいだけなのに?」
教師は微笑んだ。
「だからこそ、貴族の礼儀作法には意味があるのです」
エリザベートは考え込んだ。
しばらくして。
「では、最初から仲直りしてほしいと伝えればいいのではなくて?」
「それも一つの方法です。ただし、相手が応じるかどうかは別の問題です」
「……なるほど」
「相手が断る自由も考える必要があります」
「……そうね」
エリザベートは教科書に書き込んだ。
『招待することと、来てもらうことは違う』
その文字を見て、クラリスが微笑んだ。
「エリザベート、今日はたくさん書いているのね」
「ええ!」
エリザベートは嬉しそうに答えた。
「知らないことばかりだもの!」
◇
午後三時。
学院長室。
マリアンヌは、一日の授業報告を受け取っていた。
魔法学。
王国統治学。
貴族教養学。
そのすべてに、エリザベートの名前があった。
「……なるほど」
マリアンヌは静かに頷いた。
「お嬢様は、本日も熱心に学ばれたのですね」
「はい」
報告に来た教師が答える。
「ただ、その……」
「何でしょう」
「少々、困ったことがありまして」
「お嬢様が何かなさいましたか?」
「いえ、そうではありません」
教師は一枚の答案用紙を差し出した。
魔法学の小テストだった。
得点。
三十二点。
「…………」
マリアンヌは答案を見つめた。
「……三十二点、ですか」
「はい」
「百点満点で?」
「……はい」
沈黙。
教師は額の汗を拭った。
「もちろん、授業に取り組む姿勢は素晴らしく……」
「先生」
「は、はい!」
「この答案は、正しく採点されたものですね?」
「……はい」
「では、問題ございません」
「…………え?」
「お嬢様が現在どの程度理解されているのか、正確に知ることができます」
マリアンヌは答案を丁寧に揃えた。
「間違えた箇所については、次の授業でご指導ください」
「……よろしいのですか?」
「何がでしょう」
「その……三十二点という点数が……」
マリアンヌは微笑んだ。
「お嬢様は、学ぶことをご希望されています」
「……はい」
「であれば、学ぶべきことを正しくお伝えするのが、教師の務めではありませんか」
教師は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
マリアンヌは答案を封筒に収めた。
そして、ふと思い出したように尋ねた。
「ところで先生」
「はい」
「今回の試験で、百点を取られた生徒はいらっしゃいますか?」
「はい。数名おります」
「それは素晴らしいことですね」
マリアンヌは満足そうに頷いた。
「お嬢様にも、よい目標ができました」
教師は再び頭を下げた。
そして学院長室を後にした。
廊下に出た教師は、長く息を吐いた。
「……普通の学校だ」
なぜか、それがひどく不思議に感じられた。
◇
午後四時。
教室。
「三十二点?」
アレクシスは答案を見て、思わず声を上げた。
「お前、三十二点だったのか?」
「ええ!」
エリザベートは嬉しそうに答えた。
「すごいでしょう!」
「何がだよ!」
「私、三十二点も取れたのよ!」
「百点満点だぞ!?」
「ええ、知っているわ」
「……知ってるなら!」
クラリスが二人の間に入った。
「まあまあ。昨日から勉強を始めたんだから、仕方ないわ」
「でも、こいつ……」
「アレクシスは何点だったの?」
「……八十六点」
「まあ!」
エリザベートは目を輝かせた。
「すごいわ!」
「…………」
「クラリスは?」
「私は九十二点よ」
「まあ! 二人ともすごいのね!」
「…………」
アレクシスは答案を見つめた。
そして、エリザベートを見た。
「……お前、悔しくないのか?」
「悔しい?」
「ああ」
エリザベートは少し考えた。
「……そうね」
答案を見下ろす。
三十二点。
「私、知らないことがたくさんあったわ」
「……ああ」
「でも、今日、少し知ることができたでしょう?」
「……そうだな」
「それなら、明日はもっと知ることができるわね!」
彼女は嬉しそうに笑った。
アレクシスは黙り込んだ。
クラリスが尋ねる。
「エリザベート、明日も来るの?」
「もちろんよ!」
「そう。よかった」
「でも、その前に!」
エリザベートは勢いよく立ち上がった。
「アレクシス!」
「……何だよ」
「あなた、私に魔法を教えなさい!」
「…………は?」
「クラリスも!」
「えっ、私も?」
「ええ! 二人とも私より上手なのだから!」
エリザベートは満面の笑みを浮かべた。
「放課後、一緒に勉強しましょう!」
沈黙。
アレクシスは腕を組んだ。
「……嫌だ」
「どうして?」
「俺はお前が嫌いだからだよ!」
「まあ!」
エリザベートは頷いた。
「そうだったわね!」
「…………」
「では、仕方ないわ」
少女は鞄を持った。
「クラリス、あなたはどう?」
「私はいいわよ」
「本当!?」
「ええ。一緒に勉強しましょう」
「嬉しい!」
エリザベートはクラリスの手を取った。
そして、アレクシスを振り返った。
「では、また明日ね!」
「……ああ」
二人は楽しそうに教室を出ていった。
アレクシスは、その後ろ姿を見つめていた。
しばらくして。
「……おい」
誰もいない教室で呟いた。
「……一回くらい、引き止めろよ」
もちろん、返事はなかった。
◇
その夜。
アルヴェイン公爵邸。
「セバスチャン!」
「はい、お嬢様」
「私、今日は三十二点だったの!」
「左様でございますか」
「ええ!」
エリザベートは答案を差し出した。
「明日はもっと頑張るわ!」
セバスチャンは答案を受け取った。
三十二点。
そして、その下に書かれた教師の赤い文字。
『魔力の供給と制御の違いを、もう一度復習しましょう』
老執事は静かに目を細めた。
「……お嬢様」
「なあに?」
「大変、素晴らしいことでございます」
「でしょう!」
「はい」
セバスチャンは微笑んだ。
「お嬢様が、ご自身で学ばれることをお望みなのですから」
エリザベートは頷いた。
「そうなの!」
そして、机に向かった。
「だから、今日はもう少し勉強するわ!」
「かしこまりました」
セバスチャンは静かに一礼した。
少女は教科書を開く。
魔法。
政治。
礼儀作法。
知らないことばかりだった。
それでも。
「……ふふっ」
エリザベートは楽しそうに笑った。
「明日は、何を教えてもらえるのかしら!」
かつて。
彼女に逆らえる者は、ほとんど存在しなかった。
彼女が欲しいと言えば、与えられた。
彼女が命じれば、実現した。
彼女が望めば、世界の方が形を変えた。
けれど。
三十二点を、百点に変えてくれる者は、今夜の彼女には必要なかった。
なぜなら。
彼女自身が、明日の百点を欲しがっていたからである。
そして翌朝。
王立魔法学院の門の前には、一人の少女が立っていた。
昨日よりも、ずっと早く。
「おはようございます!」
悪役令嬢は、今日も元気に登校した。
――第八十話・完




