第78話 愛されている
第78話 愛されている
公爵邸に帰還したエリザベートは、最初にこう言った。
「お風呂に入りたいわ」
「すでにご用意しております」
「それから、お腹がすいたわ」
「お食事も整えております」
「あと、疲れたの」
「お部屋へお運びいたしましょうか」
「歩けるわよ!」
「失礼いたしました」
セバスチャンは深く頭を下げた。
北方への旅は、十二日間に及んだ。
その間に、百三十七人の死者が帰還し、六十年前の事件の術者が拘束された。
死者の魂を利用した魔術犯罪。
帰還者の法的な身分。
蘇生術の適用範囲。
王国が今後向き合わなければならない問題は、数多く残されている。
しかし、エリザベートにとっては、長く寒い旅行が終わっただけだった。
「やっぱり、うちが一番ね」
「お帰りなさいませ、お嬢様」
セバスチャンは微笑んだ。
*
翌朝。
公爵邸の一角に、新しい研究室が設けられた。
広い室内には、魔術書、測定器具、術式を記録するための机が並んでいる。
ハロルドは、その光景を呆然と見つめていた。
「……これを、私が使っていいのか」
「はい」
セバスチャンは頷いた。
「ただし、研究内容はすべて記録していただきます。実験については、事前に私の承認を得てください」
「分かっている」
「人体実験は禁止です。協力者を募る場合も、当家の審査を経ていただきます」
「……ああ」
ハロルドは研究机に触れた。
十一年前。
彼は娘を蘇らせるために、人を傷つけた。
そして、自らも命を失った。
今、再び研究する場所を与えられている。
それが当然のことではないと、彼は理解していた。
「セバスチャン」
「はい」
「私は、許されたわけではないのだな」
「はい」
セバスチャンは迷わず答えた。
「あなたの罪が消えることはございません」
「……そうか」
「ですが、これから何をなさるかは、あなたご自身でお決めになれます」
ハロルドは静かに頷いた。
「分かった」
そのとき、廊下から足音が聞こえた。
「お父さん!」
エマが駆け込んでくる。
「お部屋、見た?」
「ああ」
「すごいよ! 窓が大きいの!」
「そうか」
「それにね、庭もあるんだって!」
「それはよかったな」
「あと、ケーキ!」
「……またケーキか」
「うん!」
ハロルドは笑った。
セバスチャンは、二人を見つめていた。
「エマ様」
「なあに?」
「本日は、お嬢様のお茶会にご招待されております」
「ほんと!?」
「はい」
「お父さんも?」
「もちろんでございます」
エマは父親の手を引いた。
「早く行こう!」
「まだ朝だぞ」
「じゃあ、お昼まで待つ!」
「……そうだな」
ハロルドは娘の手を握り返した。
*
王都では、北方の事件について協議が始まっていた。
死者の魂を消費する魔術。
肉体を失った術者による犯罪。
そして、死後も活動を続ける者に対する処罰。
従来の法律では、想定されていなかった問題だった。
オルフェンの魂は、現在も公爵家の管理下で拘束されている。
魔術行使を封じられ、外部への干渉もできない状態に置かれていた。
王国は、彼の行為を正式に裁くため、新たな法制度の検討を始めている。
セバスチャンは、その報告書を読み終えると、静かに机へ置いた。
「……まだ時間がかかりそうでございますね」
執務室には、レオンがいた。
「当然だろう。死んだ人間を裁くなんて、前例がない」
「左様でございます」
「それで、北方の帰還者たちは?」
「現在も保護を続けております。蘇生術の適用については、本人の意思を確認しながら進めております」
「全員が生き返れるわけじゃないんだな」
「はい」
レオンはしばらく黙った。
「……それでも、戻ってこられたことを喜ぶ人はいるんだろうな」
「そうでございましょう」
セバスチャンは頷いた。
「戻ってきたことを、望まない方もいらっしゃいます」
「……そうか」
「生きることを望むかどうかは、ご本人がお決めになることでございますので」
レオンは窓の外を見た。
「難しい話だな」
「はい」
「でも、あの人なら、そんなこと気にしないんだろうな」
セバスチャンは微笑んだ。
「お嬢様でございますか」
「ああ」
「そうでございますね」
*
午後。
庭園には、大きなテーブルが用意されていた。
エリザベートは中央の席に座り、並べられた菓子を眺めている。
「これ、北方で食べたものと違うわ」
「当家の料理人が、お嬢様のお好みに合わせて改良いたしました」
「ふうん」
エリザベートは一口食べた。
「……こっちのほうがおいしいわね」
「光栄でございます」
セバスチャンは一礼した。
その隣では、エマが目を輝かせていた。
「すごい!」
「何が?」
「こんなにいっぱいケーキがある!」
「当然でしょう」
エリザベートは胸を張った。
「私のお茶会なんだから」
「毎日あるの?」
「毎日は飽きるわ」
「そっか!」
エマは笑った。
ハロルドは娘の隣に座り、その様子を見守っていた。
ノアは紅茶を飲みながら、二人を見つめている。
「エマ、楽しい?」
「うん!」
「よかった」
「ノア兄ちゃんも食べて!」
「じゃあ、一つもらおうかな」
エマは皿の上から、いちごのケーキを選んだ。
「これ!」
「ありがとう」
ノアは受け取った。
エリザベートが眉をひそめる。
「それ、私のよ」
「え?」
「私が食べようと思ってたの」
エマは慌てて皿を見た。
「ご、ごめんなさい!」
「別にいいわ」
エリザベートはセバスチャンを呼んだ。
「同じものを持ってきなさい」
「かしこまりました」
「今度は、いちごをもっと増やして」
「承知いたしました」
エマはほっとしたように笑った。
「エリザベートって、優しいね!」
エリザベートは不思議そうに顔を向けた。
「何が?」
「だって、怒らなかったから!」
「ケーキくらい、また作ればいいじゃない」
「そうだね!」
エマは笑った。
エリザベートは、もう別の菓子に手を伸ばしていた。
*
お茶会が終わったあと。
ハロルドは庭園に残っていた。
エマは少し離れた場所で、ノアと花を眺めている。
セバスチャンが隣に立った。
「お楽しみいただけましたか」
「……ああ」
ハロルドは頷いた。
「こんな時間が、また来るとは思わなかった」
「左様でございますか」
「十一年前、私は娘を蘇らせることしか考えていなかった」
「はい」
「それ以外のことは、すべて無意味だと思っていた」
ハロルドはエマを見た。
少女は花の名前を尋ね、ノアが答えている。
「……だが、今は違う」
「どのように?」
「娘と過ごす時間が、欲しい」
ハロルドは静かに笑った。
「研究は続ける。必ず、あの子を完全に蘇らせたい」
「はい」
「でも、それまでの時間も、大切にしたいんだ」
セバスチャンは頷いた。
「それがよろしいかと存じます」
「……君に、こんなことを言う日が来るとはな」
「私も、想像しておりませんでした」
二人は小さく笑った。
「セバスチャン」
「はい」
「ありがとう」
セバスチャンは深く頭を下げた。
「お礼でしたら、お嬢様に」
ハロルドは庭園の中央を見た。
エリザベートは、使用人たちに何かを命じていた。
「……あの方は、なぜ私たちを受け入れたのだろうな」
セバスチャンは少し考えた。
「お嬢様が、そうお望みになったからでございましょう」
「それだけか?」
「はい」
ハロルドは苦笑した。
「……不思議な方だ」
「左様でございますね」
*
夕暮れ。
エリザベートは庭園の椅子に腰掛けていた。
セバスチャンが紅茶を注ぐ。
「お嬢様」
「何よ」
「北方へのご旅行はいかがでございましたか」
「寒かったわ」
「左様でございますか」
「それに、変な人がたくさんいたわ」
「申し訳ございません」
「あなたが謝ることじゃないでしょう」
「失礼いたしました」
エリザベートは紅茶を飲んだ。
「でも、あの子は可愛かったわね」
「エマ様でございますか」
「ええ」
「左様でございますね」
「ねえ、セバスチャン」
「はい」
「次は海に行きたいわ」
「承知いたしました」
「暖かくて、綺麗な海よ」
「お探しいたします」
「それと、おいしいものがあるところ」
「手配いたします」
「あと、変な事件が起きないところがいいわ」
セバスチャンは微笑んだ。
「かしこまりました」
エリザベートは満足そうに頷いた。
そして、ふと思い出したように尋ねた。
「ねえ、セバスチャン」
「はい、お嬢様」
「あなた、私のこと好き?」
セバスチャンは一瞬も迷わなかった。
「もちろんでございます」
「どのくらい?」
「言葉では言い表せないほどに」
「ふうん」
エリザベートは少し考えた。
「じゃあ、明日もおいしいケーキを作ってちょうだい」
「かしこまりました」
セバスチャンは深く頭を下げた。
彼女が望むなら、何でも叶える。
それが、彼の生き方だった。
なぜ、そこまで愛しているのか。
その理由を、彼自身は知らない。
けれど、知らないことを不思議には思わなかった。
エリザベートは、今日も愛されている。
そして明日も、きっと。
彼女は何も変わらず、好き勝手に生きていく。
第四部 完




