第76話 十一年前の術式
第76話 十一年前の術式
「ハロルド様。少々、お時間をいただけますか」
朝食を終えたハロルドは、セバスチャンに呼び止められた。
「エマのことか?」
「はい」
「何か分かったのか」
「確認したいことがございます」
セバスチャンは一枚の紙を差し出した。
そこには、複雑な魔法陣が描かれていた。
ハロルドは目を落とす。
そして、動きを止めた。
「……これは」
「お心当たりがございますね」
「どこで見つけた」
「エマ様の魂に残されておりました」
ハロルドは紙を握りしめた。
「……十一年前のものだ」
*
二人は研究室へ移動した。
机の上には、エマの魂を調査した記録が並べられている。
「この術式は、私が処刑される直前に完成させたものだ」
ハロルドは椅子に腰を下ろした。
「当時、私はすでに研究を続けることを許されていなかった。器具も資料も取り上げられていた」
「存じております」
「だが、術式そのものは覚えていた」
ハロルドは自分の手を見つめた。
「私は、娘を蘇らせるために、あらゆる方法を試した」
「はい」
「それでも、成功しなかった」
沈黙が落ちた。
「最後に残ったのは、私自身の命だった」
セバスチャンは何も言わなかった。
「死の瞬間に生じる魔力の変化を利用すれば、エマの魂を肉体へ戻せるかもしれない。そう考えた」
「ご自身の死を、術式の起動条件にされたのですね」
「ああ」
ハロルドは頷いた。
「処刑が執行されれば、術式が発動するようにした」
「結果は?」
「何も起こらなかった」
ハロルドは苦笑した。
「少なくとも、私はそう思っていた」
*
「術式は発動しておりました」
セバスチャンが言った。
ハロルドは顔を上げた。
「……何?」
「ただし、意図された結果には至っておりません」
セバスチャンは記録を広げた。
「あなたの術式は、エマ様の魂を肉体へ戻すことができませんでした」
「……そうだろうな」
「ですが、魂を保護する働きが残されております」
ハロルドは眉をひそめた。
「保護?」
「はい」
セバスチャンは魔法陣の一部を指した。
「この構造は、本来、魂と肉体の結合を維持するために組み込まれたものと思われます」
「そうだ」
「しかし、結合する肉体が正常に機能しなかったため、術式は魂そのものを保持する方向へ働いたのでしょう」
「……待て」
ハロルドは身を乗り出した。
「つまり、エマの魂は……」
「十一年間、この術式によって守られておりました」
ハロルドは言葉を失った。
「今回、何者かがエマ様の魂から魔力を奪いました。しかし、魂そのものが完全に失われることはなかった」
「それは……」
「あなたの術式が、干渉を妨げたためと考えられます」
ハロルドは紙を見つめた。
何度も。
何度も。
やがて、小さく笑った。
「……失敗したと思っていた」
「蘇生には失敗しております」
「分かっている」
ハロルドは頷いた。
「それでも……」
言葉が続かなかった。
セバスチャンは静かに待った。
「それでも、エマを守れていたのか」
「はい」
ハロルドは両手で顔を覆った。
*
「ねえ、お父さん!」
扉が開いた。
エマが顔を覗かせる。
「何してるの?」
ハロルドは慌てて顔を上げた。
「エマ……」
「泣いてるの?」
「いや」
「泣いてるよ」
「……少しだけだ」
エマは駆け寄った。
「どうしたの?」
「何でもない」
「嘘!」
ハロルドは娘を抱きしめた。
冷たい体だった。
心臓は動いていない。
それでも、腕の中には確かな重みがあった。
「……すまなかった」
エマは首を傾げた。
「何が?」
「お前に、何もしてやれなかった」
「そんなことないよ」
「……そうか?」
「うん!」
エマは笑った。
「昨日、ケーキ食べたでしょ!」
ハロルドは目を閉じた。
「……そうだったな」
「今日も食べたい!」
「毎日食べたら、飽きるぞ」
「飽きないよ!」
「そうか」
ハロルドは笑った。
「なら、今日も食べよう」
*
しばらくして、エマはノアに連れられて庭へ出ていった。
研究室には、再び二人だけが残された。
「セバスチャン」
「はい」
「私は、十一年前に死んだ」
「存じております」
「死んだ後も、魂のまま研究を続けた」
ハロルドは静かに話し始めた。
「最初は、何もできなかった。器具に触れることも、文字を書くこともできない」
「はい」
「だが、見ることはできた」
ハロルドは窓の外を見た。
「魔術師たちの研究を見た。新しい術式を覚えた。死者蘇生が確立されたことも知った」
「それで、ご自身を蘇生されたのですね」
「ああ」
「肉体は、どのように?」
「処刑後、私の遺体は研究施設の地下に保管されていた。危険な術式の痕跡を調べるためにな」
「なるほど」
「魂の状態で術式を構築するには、随分と時間がかかった」
ハロルドは苦笑した。
「それでも、成功した」
「見事でございます」
「……君に褒められるとは思わなかった」
「事実でございますので」
ハロルドは少し笑った。
「そして、エマにも同じことを試した」
その表情が曇る。
「だが、成功しなかった」
「魂の損傷が原因と考えられます」
「……そうだろうな」
「しかし、完全に失われたわけではございません」
ハロルドは顔を上げた。
「それは、どういう意味だ?」
「エマ様の魂には、現在も十一年前の術式が残っております」
セバスチャンは紙を指した。
「この術式を詳しく解析すれば、損傷した部分を補う方法が見つかるかもしれません」
「……本当か」
「可能性の話でございます」
「それでも構わない」
ハロルドは即答した。
「研究を続けられるなら、それでいい」
セバスチャンは静かに頷いた。
「ただし、一つ条件がございます」
「何だ?」
「今後、研究のために他者を犠牲にすることは認めません」
ハロルドは黙った。
「十一年前の三十八名についても、あなたの責任が消えることはございません」
「……分かっている」
「そのうえで、研究を続けるおつもりですか」
ハロルドは窓の外を見た。
庭では、エマが雪を丸めていた。
ノアが何かを話しかけると、少女は声を上げて笑った。
「……ああ」
ハロルドは答えた。
「今度は、誰も犠牲にしない」
*
午後。
エリザベートは庭にいた。
「もっと大きくしなさい!」
使用人たちが雪を積み上げている。
その中央には、巨大な雪の城が建設されていた。
「お嬢様。こちらの高さでよろしいでしょうか」
「低いわ」
「かしこまりました」
「塔も増やしなさい」
「承知いたしました」
エマは目を輝かせていた。
「すごい!」
「当然でしょう」
エリザベートは得意げに言った。
「私のお城なんだから」
「お姫様みたい!」
「みたいじゃないわ。私は公爵令嬢よ」
「こうしゃく?」
「知らないの?」
「うん!」
エリザベートは少し考えた。
「偉い人の娘ってことよ」
「じゃあ、お姫様だ!」
「……まあ、そういうことにしておいてあげる」
エマは笑った。
その様子を、ハロルドは少し離れた場所から見ていた。
セバスチャンが隣に立つ。
「ハロルド様」
「何だ?」
「お嬢様が、あなたをお呼びです」
「……私を?」
「はい」
二人が近づくと、エリザベートは雪の城を指差した。
「あなた、魔術師なんでしょう?」
「……ああ」
「だったら、あの塔をもっと高くしなさい」
ハロルドは呆然とした。
「……塔?」
「そうよ。セバスチャンは忙しいんだから」
「いや、しかし私は……」
「できないの?」
ハロルドは雪の塔を見た。
それから、セバスチャンを見た。
老人は穏やかに微笑んでいる。
「……できる」
「じゃあ、やりなさい」
ハロルドは小さく息を吐いた。
そして、魔術を展開した。
雪が舞い上がり、塔がゆっくりと高くなっていく。
「わあ!」
エマが歓声を上げた。
「お父さん、すごい!」
ハロルドは娘を見た。
「……そうか?」
「うん! すごい!」
ハロルドは笑った。
十一年前、彼が魔術を使う理由は、娘を蘇らせることだけだった。
今は違う。
娘を笑わせるために、魔術を使っている。
そして、そのことが。
彼には、何よりも嬉しかった。




