第六十三話 家族の席
悪役令嬢は愛されている
第六十三話 家族の席
ノアが帰ってきた翌朝、アルヴェイン公爵邸の食堂では、椅子が一脚足りなくなった。
正確には、椅子の数は足りていた。
ただ、エリザベートが二脚を占領していたのである。
「お嬢様。そちらはノア様のお席でございます」
セバスチャンが指摘すると、彼女は堂々と答えた。
「知ってるわ!」
「では、なぜお座りに?」
「ノアが来たら、どっちに座るか決めるのよ!」
レオンは食堂の入口で足を止めた。
昨日まで、ノアの席はエリザベートの左側に用意されていた。
ところが今朝、彼女は右側にも椅子を置かせたらしい。
「……なぜ二つ必要なのでしょう」
レオンが尋ねると、エリザベートは不満そうに言った。
「六年ぶりなんだから、どっちが座りやすいか分からないでしょう!」
「昨日は左側とお決めになったかと」
「昨日と今日は違うわ!」
反論の余地はなかった。
そこへ、ノアが現れた。
「おはよう、エリザベート」
「遅い!」
「まだ七時だよ」
「私が先に起きたんだから、遅いの!」
ノアは笑いながら、空いている椅子を見た。
「……どこに座ればいいの?」
エリザベートは、二つの椅子を指さした。
「好きなほうを選びなさい!」
ノアは少し考え、彼女の左側に座った。
「じゃあ、こっち」
エリザベートは満足そうに頷いた。
「そうでしょうね!」
「……決まっていたのですか」
レオンが呟く。
「当然よ!」
エリザベートは、右側の椅子を指さした。
「そっちは片付けなさい!」
セバスチャンは、何も言わずに椅子を運ばせた。
*
朝食が始まると、エリザベートはノアの皿を覗き込んだ。
「それ、美味しい?」
「うん」
「じゃあ、私にも頂戴」
「同じものがあるよ」
「あなたのが欲しいの!」
ノアは、自分の皿から焼いたパンを一切れ渡した。
エリザベートは、それを食べて頷いた。
「美味しいわ!」
「よかった」
「ノア、今度はそれを食べなさい!」
彼女は、自分の皿から果物を一つ差し出した。
ノアは受け取った。
「ありがとう」
レオンは、その様子を眺めていた。
六年ぶりの再会。
失われた肉体。
世界を救った願いの終わり。
昨日まで、あれほど大きな問題だったことが、今朝は食卓の上で小さくなっていた。
ノアが果物を食べる。
エリザベートが満足そうに笑う。
それだけのことだった。
*
朝食後、ノアは庭園へ出た。
ミラが隣を歩いている。
「身体の調子はどう?」
「思っていたより普通だよ」
「本当に?」
「うん。昨日は少し疲れたけど」
ミラは、彼の手を見た。
昨日まで透けていた指先には、もう何の異変もない。
「……よかった」
ノアは、彼女を見た。
「ミラ」
「何?」
「君には、ちゃんとお礼を言わないとね」
「また?」
「今度は、顔を見て言えるから」
ミラは少しだけ笑った。
「……それなら、聞いてあげる」
ノアは立ち止まり、頭を下げた。
「ありがとう。君が声を聞いてくれなかったら、僕はここに来られなかった」
ミラは、少し困ったように笑った。
「私は、声が聞こえただけだよ」
「それでも、返事をしてくれた」
「……うん」
「何度も話を聞いてくれて、手紙を書いてくれて、ここまで連れてきてくれた」
ミラは、視線を落とした。
「……そう言われると、結構いろいろやったね」
ノアが笑う。
「うん。すごく助かった」
ミラは、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「……私も、楽しかったよ」
ノアは、彼女を見た。
「声だけの人と話すなんて、変な経験だったけど」
ミラは笑った。
「でも、友達ができたみたいで」
ノアは、穏やかに微笑んだ。
「僕も、そう思ってた」
*
昼過ぎ。
エリザベートは、ノアを連れて屋敷を歩いていた。
「ここが新しい図書室よ!」
「広くなったね」
「当然でしょう! 本が増えたんだから!」
「……うん」
「こっちは温室!」
「昔より花が多いね」
「私が増やさせたの!」
「そうなんだ」
エリザベートは、得意げに頷いた。
それから、東棟へ向かった。
「それで、ここがあなたの部屋!」
ノアは、扉の前で立ち止まった。
「……うん」
「何よ、その顔」
「……懐かしいなと思って」
エリザベートは、扉を開けた。
部屋の中には、六年前の家具が並んでいる。
ベッド。
机。
本棚。
そして、片耳の欠けた木馬。
ノアは、木馬を手に取った。
「……まだあったんだ」
「当たり前でしょう!」
エリザベートは、胸を張った。
「あなたのものなんだから!」
ノアは、木馬を見つめた。
そして、少しだけ笑った。
「……ありがとう」
エリザベートは、彼の顔を覗き込んだ。
「ねえ、ノア」
「何?」
「それ、私が作ったんでしょう?」
「うん」
「……下手ね」
ノアは、思わず笑った。
「そうかな」
「そうよ! 脚の長さも違うし、耳も欠けてる!」
「でも、気に入ってるよ」
エリザベートは、少しだけ黙った。
それから、満足そうに頷いた。
「……なら、いいわ!」
*
夕方。
レオンは、書斎で記録を整理していた。
ノアが姿を現したときの魔力。
肉体が戻った瞬間の変化。
そして、エリザベートが交わした新しい約束。
すべて、これまでの世界では観測できなかった現象だった。
レオンは、最後のページに記した。
『ノア・エルディス。肉体の回復を確認』
その下に、もう一行。
『エリザベートとの約束により、存在が安定』
ペンを置く。
そのとき、扉が叩かれた。
「レオン、いる?」
ミラだった。
「どうぞ」
彼女は部屋に入り、机の上の書類を見た。
「……まだ調べてるの?」
「記録を残しているだけです」
「そうなんだ」
ミラは、少し考えた。
「……ねえ、レオン」
「はい」
「私、ここに残ってもいいのかな」
レオンは、顔を上げた。
「お嬢様には、お尋ねになりましたか」
「まだ」
「では、聞いてみてはいかがでしょう」
ミラは、少しだけ笑った。
「……そうだね」
*
その夜。
食堂には、四人が揃っていた。
エリザベート。
ノア。
レオン。
そして、ミラ。
食事が終わる頃、ミラが口を開いた。
「あの、エリザベート」
「何よ」
「私、しばらくここにいてもいい?」
エリザベートは、彼女を見た。
「どうして?」
「……ここが、好きだから」
エリザベートは、少し考えた。
そして。
「いいわよ!」
あっさりと答えた。
ミラは、目を丸くした。
「……本当に?」
「当たり前でしょう!」
エリザベートは、当然のように言った。
「ノアを連れてきたのは、あなたなんだから!」
ミラは、少しだけ笑った。
「……ありがとう」
「ただし!」
エリザベートは、指を立てた。
「私の言うことは聞きなさい!」
ミラは、思わず笑った。
「……それは、内容によるかな」
エリザベートは、眉を吊り上げた。
「何ですって!」
ノアが笑った。
レオンも、静かに微笑んだ。
セバスチャンは、何も言わずに紅茶を注いだ。
*
食事のあと。
エリザベートは、ノアの手を引いて庭園へ出た。
夜空には、星が輝いている。
「ねえ、ノア」
「何?」
「明日、何をする?」
ノアは、少し考えた。
「……何がしたい?」
エリザベートは、笑った。
「決まってるでしょう!」
彼女は、彼の手を強く握った。
「明日になってから考えるのよ!」
ノアは、少し驚いた顔をした。
それから、笑った。
「……そうだね」
二人は、庭園を歩いていった。
その背中を、レオンは屋敷の窓から見ていた。
世界は、壊れていない。
ノアは、帰ってきた。
エリザベートは、笑っている。
それだけで、今は十分だった。
第六十三話 終




