第六十二話 もう、いなくならないで
悪役令嬢は愛されている
第六十二話 もう、いなくならないで
「もう一度、呼びなさい」
エリザベートの命令に、ミラはすぐには従わなかった。
「今は無理だよ」
「どうして!」
「ノアの声が聞こえなくなったの。さっきまでは、あんなにはっきり聞こえてたのに」
ミラは銀の鈴を振った。
澄んだ音が響く。
しかし、返事はなかった。
エリザベートは鈴を奪い取り、勢いよく鳴らした。
「ノア! 聞こえてるなら返事をしなさい!」
もう一度。
さらに、もう一度。
「お嬢様」
レオンが声をかける。
「鈴を鳴らしても、ノア様の力が戻るわけではありません」
「じゃあ、どうするのよ!」
「少し、時間が必要です」
エリザベートは鈴を握りしめた。
「……どれくらい?」
「分かりません」
「役立たず!」
「申し訳ございません」
レオンが頭を下げると、エリザベートはますます腹を立てた。
「謝ってほしいんじゃないわ!」
「はい」
「ノアをここにいさせたいの!」
その言葉に、ミラが顔を上げた。
*
午後になっても、ノアの声は戻らなかった。
エリザベートは東棟から動こうとせず、昼食も部屋へ運ばせた。
「お嬢様。食堂で召し上がってはいかがでしょう」
「嫌よ」
「こちらでは、お食事がしにくいかと」
「ノアの部屋でしょう? 汚さなければいいじゃない」
セバスチャンは何も言わず、テーブルを用意した。
エリザベートはパンを一口かじり、向かいの空席を睨んだ。
「六年も待たせたくせに、今度は半日も返事をしないなんて」
ミラは窓辺で鈴を握っていた。
「……ねえ、エリザベート」
「何よ」
「ノアが戻ってきたら、何をしたい?」
「さっき言ったでしょう。聞きたいことが山ほどあるの」
「それを全部聞いたら?」
エリザベートは、パンを持つ手を止めた。
「……全部聞いたら?」
「うん。そのあと」
彼女は考えた。
朝食を一緒に食べる。
庭を歩く。
昔のことを聞く。
それから。
「……明日も、朝ご飯を食べるわ」
ミラは頷いた。
「その次の日は?」
「また食べるわよ。人間は毎日食べるもの!」
「そうだね」
ミラは小さく笑った。
エリザベートは、ようやく彼女の質問の意味に気づいた。
「……私、ノアに特別なことをしてほしいわけじゃないのね」
ミラは答えなかった。
「六年もいなかったから、六年分の何かをしてもらわなきゃって思ってたけど」
エリザベートは、空席を見た。
「……別に、何もしなくたっていいのよ」
彼女はパンを皿に戻した。
「そこに座っていれば」
*
夕方。
レオンは三つの水晶を調べ直していた。
最初の一つには、ノアが現れたときの魔力の変化が記録されている。
二つ目には、姿が薄くなった瞬間。
三つ目には、消失直前の反応。
レオンは記録を並べ、あることに気づいた。
「……ミラ様」
「何?」
「ノア様が最も安定していたのは、あなたが声をかけていたときです」
「うん」
「しかし、最も強くこちらへ現れたのは、別の瞬間でした」
レオンは三つ目の水晶を指さした。
「お嬢様が『私は、まだよかったと思っていない』とおっしゃったときです」
ミラは水晶を覗き込んだ。
「……じゃあ、エリザベートが呼べばいいの?」
「呼ぶだけでは足りないでしょう」
レオンは、慎重に言葉を選んだ。
「ノア様がこの世界に留まるには、ここにいる理由が必要なのだと思います」
「理由?」
「はい。ただし、私が作った理由では意味がありません」
ミラは、しばらく黙った。
「……エリザベートが決めるんだね」
レオンは頷いた。
「そして、ノア様にも選んでいただかなければなりません」
*
日が沈む頃。
銀の鈴が、誰も触れていないのに鳴った。
ミラが立ち上がる。
「……ノア!」
エリザベートも椅子を蹴って立った。
「どこ!」
「まだ見えない。でも、声が聞こえる!」
ミラは鈴を握り、目を閉じた。
「ノア、聞こえる? エリザベートがいるよ」
部屋の中央で、空気が揺れた。
今度は、先ほどよりもゆっくりだった。
輪郭が生まれ、色がつき、青年の姿になる。
ノアは、少し疲れた顔をしていた。
「……ごめん。待たせたね」
「また謝った!」
エリザベートが怒鳴る。
ノアは困ったように笑った。
「……そうだった」
彼女は近づいた。
今度は、触れようとしなかった。
「ノア」
「うん」
「あなた、また消えるの?」
ノアは自分の手を見た。
指先は、まだ透けている。
「……このままだと、そうなると思う」
エリザベートは頷いた。
「そう」
それから、レオンを振り返った。
「あなたたち、出ていきなさい」
ミラが驚く。
「えっ、でも私がいないと――」
「じゃあ、あなたは残りなさい」
「……うん」
「レオンは出ていって」
レオンは頭を下げた。
「承知いたしました」
扉が閉まる。
部屋には、エリザベートとノア、そして鈴を握るミラだけが残った。
*
エリザベートは、しばらく黙っていた。
ノアも何も言わなかった。
六年ぶりの再会なのに、何から話せばいいのか分からない。
それが、彼女には腹立たしかった。
「……私ね」
ようやく、口を開く。
「あなたがいなくなった理由を、まだ知らないの」
「うん」
「昔のことも、全部は思い出してない」
「……うん」
「だから、あなたに怒っていいのかも分からないわ」
ノアは、彼女を見た。
エリザベートは続けた。
「でも、腹は立ってるの」
「……そうだろうね」
「勝手にいなくなって、勝手に帰ってきて、また勝手に消えようとしてる」
ノアは、何も言えなかった。
「私のこと、何だと思ってるのよ」
その声は、怒っていた。
けれど、震えてもいた。
「……エリザベート」
「何よ」
「僕は――」
「言い訳はあと!」
彼女は、ノアの言葉を遮った。
「六年前のことは、帰ってきてから聞くわ。何日かかっても聞いてやるんだから」
ノアは目を見開いた。
エリザベートは、まっすぐに彼を見た。
「だから」
彼女は、一歩近づいた。
「もう、いなくならないで」
部屋が静かになった。
銀の鈴が、かすかに震えた。
「私が寝ている間も、朝ご飯を食べている間も、あなたが何をしているか知らなくたっていい」
エリザベートは、唇を噛んだ。
「でも、帰ってきたら会えるところにいて」
ノアの輪郭が、淡く光った。
「……それは」
彼は、ゆっくりと息を吸った。
「僕が、ここにいてもいいってこと?」
エリザベートは眉を吊り上げた。
「当たり前でしょう!」
そして、少しだけ声を落とした。
「……私の家族なんだから」
ノアは、長い間、彼女を見つめていた。
やがて、静かに答えた。
「うん」
彼は微笑んだ。
「もう、いなくならない。約束する」
その瞬間、鈴が鳴った。
ミラは鳴らしていない。
部屋の床に、淡い光の線が浮かび上がる。
六年前に刻まれた、二人の名前を結ぶ円。
その線が、ゆっくりと閉じた。
ノアの指先から、透けた部分が消えていく。
エリザベートは息を呑んだ。
「……ノア?」
青年は、自分の手を見た。
それから、恐る恐る彼女へ伸ばした。
エリザベートも手を伸ばす。
指先が触れた。
今度は、通り抜けなかった。
「……あ」
彼女は、その手を握った。
温かかった。
確かに、そこにあった。
エリザベートはノアの手を引き寄せ、そのまま抱きついた。
「……遅いのよ」
ノアは、彼女の背中に手を回した。
「うん」
「六年も」
「……うん」
「……本当に、遅いんだから」
ノアは、静かに目を閉じた。
「ただいま、エリザベート」
彼女は、彼の服を強く握った。
そして。
「……おかえり」
小さく答えた。
*
廊下では、レオンが扉の前に立っていた。
中から、エリザベートの声が聞こえる。
「ちょっと! 泣かないでよ!」
続いて、ノアの笑い声。
レオンは、静かに息を吐いた。
扉の向こうにいるのは、もう姿だけの青年ではない。
ノア・エルディス。
六年ぶりに帰ってきた、アルヴェイン家の家族だった。
レオンは扉を開けず、その場を離れた。
今は、二人だけの時間を邪魔する必要はない。
廊下の窓から、夜空が見えた。
星が輝いている。
世界は、壊れていなかった。
第六十二話 終




