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第六十一話 ただいまを言う前に

悪役令嬢は愛されている


第六十一話 ただいまを言う前に


ノアが帰る日、エリザベートは朝食を二度食べた。


一度目は、自分が空腹だったから。


二度目は、ノアが来るまで待つつもりで用意させた料理が、冷めてしまったからである。


「お嬢様。お昼にはまだ早うございます」


セバスチャンが静かに告げる。


「だったら、これは二度目の朝食よ」


「承知いたしました」


「ノアの分は残しておきなさい」


「もちろんでございます」


エリザベートは満足そうに頷いた。


それから、隣の空席を見た。


「……まだなの?」


食堂の時計は、午前九時を指していた。


*


東棟の部屋には、レオンとミラがいた。


窓は開けられ、机の上には三つの水晶が並んでいる。六年前から残されていた家具は、そのままだ。


ミラは銀の鈴を握りしめていた。


「始めるよ」


レオンが頷く。


「お願いします」


ミラは鈴を鳴らした。


澄んだ音が、部屋に広がる。


しばらくして、彼女が顔を上げた。


「……聞こえた」


「ノア様ですか」


「うん。でも、いつもより遠い」


ミラは目を閉じた。


声を聞くことには慣れていた。


けれど、今日は違う。


これまでは、ノアが話しかけてくるのを待てばよかった。


今日は、ミラのほうから彼を見つけなければならない。


「ノア。私の声、聞こえる?」


返事はない。


ミラは、もう一度呼んだ。


「ノア!」


水晶の一つが淡く光った。


レオンが身を乗り出す。


「反応があります」


「……うん」


ミラの額に汗が浮かんだ。


「今、こっちに来てる」


空気が揺れた。


窓辺のカーテンが、風もないのに持ち上がる。


やがて、部屋の中央に薄い影が現れた。


人の形をしている。


けれど、輪郭は定まらない。


レオンが水晶を確認した。


「魔力の反応はあります。しかし、肉体を構成するほどでは……」


「分かってる」


ミラは目を開けた。


「今は、姿を見せるだけでいいんだよね」


影が、少しずつ濃くなる。


黒い髪。


白いシャツ。


穏やかな顔立ち。


そこに、一人の青年が立っていた。


「……ミラ」


声がした。


今度は、鈴を通してではなかった。


ミラは、息を止めた。


「……ノア?」


青年は、微笑んだ。


「初めまして」


ミラは、思わず笑った。


「初めましてって……ずっと話してたじゃない」


「そうだったね」


ノアは自分の手を見た。


指先が、わずかに透けている。


「……本当に、見えるんだ」


ミラは頷いた。


「うん。ちゃんと見える」


ノアは、レオンを見た。


「久しぶり、レオン」


「……お久しぶりです」


レオンは頭を下げた。


ノアは、少し困ったように笑った。


「そんなに改まらなくてもいいのに」


「そういうわけにはまいりません」


レオンは顔を上げた。


「お嬢様がお待ちです」


ノアの表情が変わった。


「……エリザベートが?」


「はい」


「……」


ノアは、扉を見た。


六年前。


自分が出ていったときと、同じ扉だった。


彼は、ゆっくりと歩き出した。


しかし、三歩進んだところで、足元が揺らいだ。


「……っ」


ミラが駆け寄る。


「ノア!」


青年の身体が、薄くなった。


レオンが水晶を確認する。


「……姿が不安定になっています」


「どうすればいいの?」


「ミラ様。声をかけ続けてください」


ミラは頷いた。


「ノア、私を見て」


青年が顔を上げる。


「……うん」


「ここにいるよ。ちゃんと、見えてる」


その言葉に応えるように、輪郭が戻った。


ノアは、苦笑した。


「……情けないな」


「いいから、今は歩かないで」


ミラは扉へ向かった。


「エリザベートを呼んでくる」


*


食堂では、エリザベートが三度目の朝食を要求していた。


「今度はパンケーキがいいわ!」


「お嬢様」


セバスチャンが声をかける。


「ミラ様がお見えです」


「何よ。今、忙しいの」


「ノア様のことでございます」


エリザベートは椅子から立ち上がった。


「どこ!」


ミラが扉の向こうから顔を出した。


「東棟の部屋。今、姿が見えてる」


エリザベートは、返事をしなかった。


そのまま走り出した。


「お嬢様! 廊下ではお走りにならないように!」


セバスチャンの声が響く。


「うるさいわ!」


エリザベートは、階段を駆け上がった。


六年間。


何度も通ったはずの廊下。


けれど、今日だけは、ひどく長く感じた。


*


東棟の扉が開いた。


「ノア!」


エリザベートが叫んだ。


部屋の中央に立つ青年が、振り向いた。


黒い髪。


懐かしい顔。


けれど、記憶の中よりもずっと大きい。


エリザベートは、立ち止まった。


「……ノア?」


青年は、微笑んだ。


「エリザベート」


その声を聞いた瞬間。


彼女の表情が、くしゃりと歪んだ。


「……遅いわよ」


ノアは、何も言わなかった。


「六年よ!」


エリザベートは、一歩近づいた。


「六年も、どこに行ってたの!」


「……ごめん」


「謝ればいいと思ってるの!」


「思ってないよ」


「だったら!」


エリザベートは、彼の胸元を掴もうとした。


しかし。


その手は、何の抵抗もなく通り抜けた。


「……え?」


彼女は、自分の手を見た。


もう一度、伸ばす。


今度も、触れられない。


ノアは、少しだけ目を伏せた。


「……まだ、ちゃんと戻れてないんだ」


エリザベートは、彼を見た。


「……どういうこと?」


レオンが口を開いた。


「お嬢様。ノア様は現在、姿だけをこちらに現しておられます」


「……姿だけ?」


「はい。肉体は、まだ戻っておりません」


エリザベートは、しばらく黙っていた。


それから、ノアを見た。


「……じゃあ」


「うん」


「……また、いなくなるの?」


ノアは、答えられなかった。


その沈黙が、答えだった。


エリザベートは、彼を睨んだ。


「……嫌よ」


ノアが顔を上げる。


「エリザベート」


「嫌って言ってるの!」


彼女は、拳を握った。


「やっと帰ってきたのに!」


ノアの輪郭が、わずかに揺れた。


ミラが息を呑む。


「……ノア、時間が」


青年は、頷いた。


「分かってる」


エリザベートは、彼を見た。


そして、静かに言った。


「……ねえ、ノア」


「何?」


「私、あなたに聞きたいことがいっぱいあるの」


「……うん」


「六年間、何をしてたのか。何を食べてたのか。誰といたのか」


ノアは、微笑んだ。


「うん」


「それから、どうして私を置いていったのか」


青年の表情が、少しだけ曇った。


エリザベートは続けた。


「でも、今は聞かないわ」


「……どうして?」


「だって」


彼女は、まっすぐにノアを見た。


「今、聞いても、途中でいなくなるんでしょう?」


ノアは、答えなかった。


エリザベートは、深く息を吸った。


「だったら、先に帰ってきなさいよ」


レオンが、わずかに顔を上げた。


けれど、エリザベートは続けた。


「……違うわね」


彼女は、自分の言葉を考え直すように、首を振った。


「帰ってきてって言っても、あなた、もうここにいるもの」


ノアは、静かに頷いた。


「……うん」


エリザベートは、彼の透けた手を見た。


「なのに、触れない」


「……うん」


「……本当に、腹が立つわ」


ノアは、少しだけ笑った。


「ごめんね」


「謝らないで!」


エリザベートは、声を荒らげた。


それから、少しだけ俯いた。


「……謝るくらいなら」


言葉が途切れた。


彼女は、何かを言おうとしていた。


しかし、その言葉は、まだ形にならなかった。


ノアの輪郭が、再び薄くなる。


ミラが、鈴を握りしめた。


「……ノア!」


青年は、エリザベートを見つめていた。


「……エリザベート」


「何よ」


「会えて、よかった」


その言葉に、彼女は顔を上げた。


「……私は、まだよ」


ノアは、目を見開いた。


エリザベートは、まっすぐに言った。


「私は、まだ全然よかったと思ってない!」


彼女は、涙を拭うこともせず、彼を睨んだ。


「だから、勝手に満足しないで!」


ノアは、しばらく黙っていた。


そして、笑った。


「……うん」


その瞬間。


彼の姿が、消えた。


部屋には、静寂が残った。


エリザベートは、何もない場所を見つめていた。


やがて、ゆっくりと口を開いた。


「……レオン」


「はい」


「ノアを、ここにいさせる方法があるんでしょう?」


レオンは、静かに答えた。


「……ございます」


エリザベートは、振り向いた。


「だったら、教えなさい」


レオンは、彼女を見た。


そして。


「……それは、私がお決めすることではございません」


そう答えた。


エリザベートは、眉をひそめた。


「何よ、それ」


レオンは、静かに続けた。


「ノア様が、もう一度この世界に留まるためには」


彼は、消えた青年が立っていた場所を見た。


「お嬢様ご自身が、ノア様に伝えなければならないことがございます」


エリザベートは、黙った。


そして。


「……だったら」


彼女は、銀の鈴を持つミラを見た。


「もう一度、呼びなさい」


ミラは、静かに頷いた。


「……うん」


エリザベートは、何もない部屋の中央へ向き直った。


今度こそ。


彼女は、自分の言葉で、ノアを引き留めるつもりだった。


第六十一話 終

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