第六十話 帰る場所
悪役令嬢は愛されている
第六十話 帰る場所
ノアが姿を現すまで、あと二日。
アルヴェイン公爵邸では、ある問題が発生していた。
「お嬢様。ノア様の歓迎会について、ご相談がございます」
セバスチャンが差し出した書類を、エリザベートは一瞥した。
「何よ、これ」
「招待客の一覧でございます」
そこには王族、貴族、軍の高官、各地の有力者など、百を超える名前が並んでいた。
「六年ぶりのご帰還となれば、正式な祝宴が必要かと」
「却下よ」
セバスチャンの手が止まった。
「……理由をお伺いしても?」
「知らない人が百人も来たら、ノアと話せないじゃない」
「では、人数を減らしましょう」
「全員消しなさい」
「ご招待を取り消す、という意味でございますね?」
「ほかに何があるのよ」
「承知いたしました」
セバスチャンは書類を閉じた。
エリザベートは満足そうに頷く。
「ノアが帰ってくるのよ。知らない人を喜ばせてどうするの」
その言葉を聞いたレオンは、思わず彼女を見た。
以前のエリザベートなら、盛大な祝宴を望んだかもしれない。
だが今は違う。
彼女は、ノアが帰ってきた後の時間を考えていた。
*
一方、ミラは温室でレオンと準備を進めていた。
机には三つの水晶が置かれている。
「これ、何に使うの?」
「ノア様が姿を現した際、魔力の変化を記録します」
「身体を作る魔法?」
「いいえ。私には、そのようなことはできません」
レオンは水晶を一つ持ち上げた。
「姿が見えることと、肉体が戻ることは別です。そこを取り違えると危険ですから」
ミラは頷いた。
「ノアも、そう言ってた」
「何と?」
「姿を見せられても、そのまま居続けられるわけじゃないって」
レオンは、しばらく考えた。
「……では、ノア様は何を頼りに姿を保つのでしょう」
ミラは銀の鈴を取り出した。
「私が声を聞いて、居場所を伝える。それで、こちらに近づけるみたい」
「なるほど」
「でも、それだけじゃ足りないんだよね」
レオンは頷いた。
「はい」
ノアが姿を現すためには、ミラが必要だった。
しかし、姿を現したノアが、この世界に留まるためには。
別の何かが必要だった。
レオンは、それが何なのかを知っていた。
だが、今は口にしなかった。
それは、彼が決めることではない。
*
その日の午後。
エリザベートは、ノアの部屋を訪れていた。
窓を開けると、柔らかな風が入り込んだ。
六年間使われていなかった部屋は、今ではすっかり整えられている。
ベッド。
机。
本棚。
そして、片耳の欠けた木馬。
エリザベートは、木馬を手に取った。
「……これ、本当に私が作ったのよね」
背後にいたセバスチャンが答えた。
「はい。お嬢様が六歳の頃に」
「下手ね」
「当時は、たいへんお気に召しておられました」
「私が?」
「はい。三日かけてお作りになりました」
エリザベートは、木馬を裏返した。
そこには、幼い字で名前が刻まれている。
『ノアの』
その下に、もう一つ。
『かえして』
エリザベートは、指で文字をなぞった。
「……どうして、返してなのかしら」
セバスチャンは答えなかった。
彼女は少し考えたが、やがて木馬を元の場所へ戻した。
「まあ、いいわ」
「よろしいのですか?」
「ノアに聞けばいいもの」
エリザベートは、当然のように言った。
「帰ってくるんでしょう?」
セバスチャンは、静かに頭を下げた。
「……はい」
*
夜。
ミラは、再びノアの声を聞いた。
場所は、東棟の廊下。
銀の鈴を鳴らすと、すぐに返事があった。
『ミラ』
「うん。聞こえてる」
『準備はどう?』
「レオンが水晶を三つ用意したよ」
『三つも?』
「もっと並べようとしてたけど、邪魔だからやめてもらった」
ノアが笑った。
ミラも少し笑った。
それから、彼女は真剣な顔になった。
「ねえ、ノア」
『何?』
「本当に、エリザベートの前に姿を見せられるんだよね」
『……うん』
「でも、もし途中で消えたら?」
少しの沈黙。
『その可能性はある』
ミラは鈴を強く握った。
「……そう」
『だから、長くは話せないかもしれない』
「うん」
『それでも、会いたいんだ』
ミラは目を閉じた。
ノアの声は、いつも穏やかだった。
けれど、今の言葉には、少しだけ違う響きがあった。
「……分かった」
彼女は頷いた。
「ちゃんと、エリザベートのところまで連れていく」
『ありがとう』
*
翌朝。
エリザベートは、食堂で妙なことを言い出した。
「ノアの席、変えるわ!」
レオンが顔を上げる。
「現在のお席では、ご不満でしょうか」
「違うわ」
彼女は、自分の隣の椅子を指さした。
「ここだと、ノアが私の右側に座るでしょう?」
「はい」
「私、右手で食べるのよ」
「……はい」
「だから、話すときに邪魔なの!」
レオンは、少し考えた。
「では、左側に移しましょうか」
「そうしなさい!」
使用人たちが椅子を動かす。
エリザベートは、満足そうに頷いた。
「これでいいわ」
ミラは、その様子を見ていた。
「……そんなに話したいことがあるの?」
エリザベートは、当然のように答えた。
「あるに決まってるでしょう!」
「例えば?」
「六年間、何をしてたのか!」
「うん」
「何を食べてたのか!」
「うん」
「誰といたのか!」
「うん」
「それから……」
エリザベートは、少し考えた。
そして、眉をひそめた。
「……何で、私を置いていったのか」
ミラは、黙った。
エリザベートは、空席を見つめた。
「それくらい、聞いてもいいでしょう?」
「……うん」
ミラは、静かに頷いた。
「聞いていいと思う」
エリザベートは、少しだけ笑った。
「でしょう?」
*
その夜。
レオンは、一人で庭園を歩いていた。
夜空には、無数の星が輝いている。
かつて彼は、星を恐れていた。
願いを宿し、世界を壊すもの。
何度も彼を殺したもの。
しかし今、空に浮かぶ星は、ただの星だった。
「……レオン」
背後から声がした。
振り向くと、ミラが立っていた。
「眠れないのですか」
「うん。少し」
彼女は、レオンの隣に並んだ。
「明日だね」
「はい」
「……緊張する?」
レオンは、少し考えた。
「しております」
ミラは、意外そうに彼を見た。
「レオンでも?」
「私でも、です」
二人は、しばらく夜空を眺めていた。
やがて、ミラが言った。
「ねえ、レオン」
「はい」
「ノアが帰ってきたら、私の役目は終わるのかな」
レオンは、彼女を見た。
「……どうでしょう」
「私、ノアと話すためにここに来たようなものだから」
「そうですね」
「……」
ミラは、少しだけ笑った。
「でも、ここ、結構好きなんだよね」
レオンは、静かに答えた。
「それなら、残ればよろしいのでは?」
ミラは、目を丸くした。
「……いいの?」
「私に決定権はありませんが」
「……あ、そっか」
「お嬢様にお尋ねください」
ミラは、しばらく考えた。
そして、笑った。
「……うん。そうする」
*
翌朝。
ノアが姿を現す予定の日。
エリザベートは、誰よりも早く目を覚ました。
まだ日が昇る前だった。
彼女は寝室の窓を開け、東棟を見つめた。
「……遅いわね」
誰もいない部屋で、呟いた。
そして、すぐに首を振った。
「……まだ朝じゃないもの」
彼女は、窓を閉めた。
それから、鏡の前に立った。
髪を整え、服を選び、靴を履く。
いつもより少しだけ時間をかけた。
最後に、鏡の中の自分を見つめた。
「……よし」
小さく頷く。
そして。
「ノア」
彼女は、誰もいない部屋で名前を呼んだ。
返事はなかった。
それでも、エリザベートは笑った。
「……今日こそ、帰ってきなさいよ」
第六十話 終




